―弐―


 薄暗い部屋、知らない天井。

 幼子は寝起きの目を擦りながら辺りを窺った。


(ここ、どこ……?)


 ぼんやりする頭で考えたが思考は纏まらなかった。

 無意識に鼻をくんと鳴らす。爽やかな緑の香りが鼻孔を掠め、気を失う前のことを思い出した。


『君の名前は?』

『やっと顔を見せてくれたね』


 優しい顔、優しい声。菓子を差し出す手付きさえ優しかった。そして、初めて食べたそれは、甘くて美味しくて、胸が温かくなった。


――けれど、騙されてはならない。


 彼に優しくする者は以前にもいたのだ。初老の男だった。菓子や玩具を彼に与えては、穏やかそうに笑う男だった。

 ある日、男の膝に抱かれている時に尻を掴まれた。突然の事だった。卑猥な動きで下肢を弄る手、興奮して血走った目。あんなに優しくしてくれた男が、まるで別の生き物に見えた。子供心におぞましさを覚えた。狼に変化して喉元に噛み付いてやると、男は怒って彼に術を掛けた。


 人の姿に戻れないまま、どれだけ痛め付けられただろう。謂われのない暴力は怖い。だが、もっと怖いのは心を引き裂かれること。特に、優しい素振りで近付く奴は厄介だ。油断させて酷い真似をするに違いない。


(あの人だって、きっとそう……)


 優しくしないで欲しい。期待させないで欲しい。もう、心が痛いのは堪えられない。


 窓に近付くと、白い月が真夜中の位置にあった。

 鼻を鳴らすも、硝子を挟んでいるので外の匂いは嗅ぎとれない。その代わりに鼻を擽ったのは、先程の、爽やかで苦味のある薬草の香りだった。菓子をくれた彼女の香りだ。鼻孔を侵すそれに、彼はぷしりとくしゃみをした。







 深夜になっても月下は眠れずにいた。

 卓に頬杖を突き、何気なく部屋を見渡す。今住んでいるこの家は、彼女が一人暮らしを始めた時に敦盛が用意した。食堂付き二間の部屋は、一人では寂しい広さだが、二人で住むのなら丁度いいのかもしれない。そう、これからは彼と暮らしていくのだ。それ自体は構わない。申し付けられずとも、彼の身の上を知ったなら同じ選択をしていただろう。彼女の気が重いのは、根深い差別と人の残酷さを知ったからだ。やることは沢山あるのに、何も手に付かない。考える事が多過ぎて思考がまとまらない。霞の話を思い出しては焦燥に襲われる。


 不意に、寝室から気配を感じた。


 目を向けると、襖の隙間から二つの赤い夜光が見えた。一瞬、どきりとしたものの、光の正体は幼子の瞳だった。


「起きちゃった? まだ夜中だよ」


 警戒しているらしく、彼は月下が少し動いただけでも唸り声を上げる。危害を加えるつもりはないと示すため、彼女はそこで動きを止めた。


「何もしないよ」


 彼は眉間から鼻筋にかけて皺をつくり、歯を剥き出している。人の姿をしているが、その様はさながら犬、あるいは狼だ。


 襖の隙間から、汗と脂のえた臭いが漂っている。ついでに、大きな腹の音も聞こえた。


「お腹が空いてるの?」


 彼は威嚇を止めて腹を押さえた。どうやら、まずは空腹を満たしてやるのが先決らしい。


「ご飯食べる?」


 小さな肩がぴくりと跳ねる。“ご飯”という単語に反応したのだろう。

 月下は冷蔵庫から青菜の漬け物を取り出し、ざくざくと切った。出来上がったのは、漬け物とちりめんじゃこが乗った丼飯だ。手招きすると、彼は怖ず怖ずと卓に近寄った。やはり食欲には勝てなかったのだろう。そして子犬のように匂いを嗅いだ後、ごくりと喉を鳴らす。


「薬味を散らすとね……」


 もっと美味しくなるんだよ、という続きの言葉は、丼を差し出した途端に飛び付き、握り箸でかき込む彼に圧倒されて出なかった。

 立ったまま我武者羅に食べる姿は、彼女に飢えた野良犬を連想させた。空腹がそうさせているのかもしれないが、一度、一から食事作法を教える必要がある。骨が折れそうだが、世のお母さん達はちゃんと教えているのだ。月下は幼い子を持つ母親達を深く尊敬した。


(そう言えば……)


 出会って数時間経つが、まだ彼と言葉を交わせていない。月下の言う事は通じているようだが、果たして彼は喋れるのだろうか。どんな声をしているのだろう。


「ねえ、私の名前、覚えてる?」

「…………」


 無視だ。無我夢中で丼に食らいつく彼に、再び声を掛けた。


「君の名前は?」

「…………」


 青筋は立っていないだろうか。またもや無視をされ、月下は自分の笑顔が引きつっているのを自覚した。

 空になった器を、名残惜しそうに舐めている彼から取り上げる。


「返せ!」

「もう空っぽです。はい、次はお風呂」


 少し掠れた声だった。可愛い声だ。このまま大人になり、低くなったら魅力的になるだろう。彼に気付かれないよう、月下は小さく笑った。


「はなせ! おまえなんか嫌いだ!」

「はいはい、嫌いで結構です。でもお風呂には入ってもらうよ」


 暴れる幼子を抱き上げて風呂場に向かう。さすがは敦盛の術だ。あれだけの身体能力を持っていたにも拘わらず、今は普通の子供と変わらない。楽勝、楽勝。しかし、洗面所で汚れた浴衣を脱がせると、現れた体に彼女は息を呑んだ。予想以上に浮き出た骨、栄養失調からくる湿疹。皮膚の状態を見ると、脱水も起こしている。汗疹あせもと垢で薄茶色になった体、細い手足。ぽっこりと膨らむ腹は、彼女が子供の頃に絵で見た地獄の餓鬼に似ていた。


「……なんで泣くの?」


 幼子にそう聞かれ、月下は自分の濡れた頬に気付いた。いつの間に涙を流していたのだろう。


「何でもないよ」

「でも、目がぬれてる」


 大丈夫だと言って笑顔を向けると、彼はそのまま大人しくなった。覗き込んでも顔を背け、目も合わせてくれない。月下は不思議に思いつつも、石鹸を泡立てて彼を洗った。一度ではこびり付いた垢が落ちず、作務衣が濡れるのも構わずに、二度、三度と洗い続ける。やがて、ようやく綺麗になったところで、彼女の耳にひゅっ、という息を吸い込む音が聞こえた。


「う……わああああ!」


 悲鳴のような叫び声が浴室に響いた。鼓膜を抉るような音に月下は耳を塞ぐ。


「これなに? こわい!」


 幼子が震えながら訴えているのは、彼自身の体だった。敦盛が施した呪印は真っ赤な曼珠沙華となり、入れ墨のように彼の体を染めているのだ。


「ごめんね、後で話すつもりだったんだ。それはただの封印術だから心配しないで」

「ふういん?」


 驚愕の声を上げてうずくまると、彼はうんうんと唸り始めた。すると、みるみる涙目になり、絶望に満ちた顔を彼女に向ける。


「狼にへんしんできない……」

「変化はあまりしては駄目なんだよ。それは君のために……」

「なんで!」


 怒りと憎悪を滲ませて幼子が叫ぶ。


「なんでみんなして僕を……」


 途端、月下は顔色を無くす。何てことだ、すっかり失念していた。何が心配しないでだ、何が君のためにだ。彼がずっと鎖に繋がれていたと聞いたばかりではないか。今、この子の自由を奪うものは何であろうと全て“鎖”なのだ。

 おそらく、敦盛は彼の体のことを心配し、且つ、月下を守るために術を施した。だが、例えそれが正しいことでも押し込めるべきではない。この子の意志で変化をめなければ意味がないのに、何も言わず、何も聞かずに鎖で繋いでしまった。


「ごめん……」


 一歩近寄ると、幼子は体を強張らせて足を引く。また一歩近付くと、一歩後退る。こんな悲しい拒絶を受けたのは初めてだった。


「さわるな!」


 伸ばした手は、小さな手によって乱暴に払われ、幼子の伸びきった爪が月下を傷付けた。じわじわと赤いものが流れ出すと、驚いた表情を見せた後、彼が泣き出しそうに顔を歪める。


(この子は……)


 こんな態度をとっているが、人が傷付くことを好まないのだ。そう思い至った時、彼が彼女の隙を突いて浴室から飛び出した。


「待って!」


 裸の、濡れたままの体で寝室に逃げ込んだ彼は、そのまま寝台の下に隠れてしまった。そして、その日、彼が顔を見せてくれることはなかった。







 遠くで鶏の声が聞こえた。窓掛けから漏れる光に朝の訪れを知る。結局、月下は一睡もできなかった。


(あの子はあのまま寝てしまったのだろうか……)


 そっと寝室に入って寝台の下を覗いてみると、うつぶせ寝の愛らしい寝顔から涎が流れていた。うっかり小さく笑うと、気配を察知した幼子が、はっと目を覚ます。勢いをつけて顔を上げた彼は、途端、ごちんと盛大な音を響かせて後頭部を押さえた。涙を滲ませる彼が可哀想で、でも可愛くて、愛おしさを覚えて止まない。手を伸ばして頭を撫でてやれば、幼子はそれに驚いて再び脳天を打った。


「うう……うえ……」


 慌てて寝台の下から引っ張り出し、月下は膝の上で彼を抱っこした。続けて、「痛いの痛いの飛んでけ」と囁きながら、少し強い力で頭をさすってやる。


「はい。痛いのは飛んでった?」


 他の刺激を与えて痛みを紛らわせただけの、子供によく使う手だ。だけど幼子は本当に痛みが消えたと思ったらしく、驚いたように目を丸めている。月下が微笑むと、彼はまたもや何かに驚いて彼女から飛び退いた。そのまま走り出し、これまた勢いよく壁に激突。家が振動するほどの音が響く中、華奢な体は鈍い音を立てて床に叩き付けられた。


「大丈夫?」

「さわるな! こんなとこ嫌だ! おまえなんか嫌いだ! みんな大嫌い! 外にだしてよ!」


 彼は非常に興奮していた。伸ばした腕を振り払い、地団駄を踏みながら泣いて泣いて、とにかく叫ぶ。

 月下は幼子を引き寄せた。どうしてやる事もできず、ただただ抱きしめた。裸ん坊の体は火照っていて、熱くて、じんわりと汗をかいている。そんなつまらない事を考えた時、彼女の肩に激痛が走った。


「……っ!」


 幼子が噛み付いたのだ。肩からの出血で、作務衣が見る見るうちに赤く染まっていく。錆の味が口に広がっても、彼は決して顎の力を緩めなかった。噛み付きながら唸り、威嚇の声を上げる。気を失いそうな痛みに堪えながら、月下は絞り出すように声を出した。


「……ごめんね。傷付けるつもりはなかったんだ。術は、君が嫌なら敦盛様に頼んで解いてもらう」

 

 二人とも、震えが止まらないのは痛みのせいではなかった。苦悶に歪む理由もそれぞれ違った。


――どれほどの時間をそうしていただろう。


 彼がのろのろと肩から口を離した。月下がその顔を覗くと、疲弊しきった蒼い瞳とぶつかり、一瞬だけ見つめ合う。けれど、すぐに目を閉じた彼は、それこそ犬のように彼女の頬を舐めた。最初は意味が分からなかった。だが、時々しょっぱそうにする彼を見て、月下は自分が涙を流していたことに気付いた。


「ごめんなさい。なかないで……」


 呟きに似た詫び言を聞いた途端、彼女は嗚咽で息が詰まり、上手く呼吸ができなくなった。何て優しい子なのだろう。


「ごめんなさい、ごめんなさい」


 そう繰り返す彼を大事に包容し、平気だと返した。小さな体で自分をあやしてくれる、壊れ物のような彼がいじらしかった。だからこそ、安っぽい同情心で彼を引き受けた己を恥じた。これからは本当の意味で全身全霊を掛け、この子を守ってあげたい。


「……ねえ、私の名前は覚えてる?」


 幼子は彼女に包まれながら頷き、囁くような声で「げっか」と答えた。


「うん、よろしくね。君の名前を教えて」


 彼は首を傾げた後、頭を横に振った。聞かれた事の意味が分からない様子だ。


「それじゃあ、皆には何て呼ばれてたの?」

「せいこー」

「せい……?」


 彼女は首を捻る。


(名前? せいこ? せいこう……)


 その時、頭を過ぎった言葉に月下はかっとなった。


生口せいこうか!)


 声が硬くならないよう、顔が強張らないよう、細心の注意を払らう。


「……それは名前じゃないよ」

「ちがうの?」


 反対側に首を傾げて不思議がる彼に、月下は心の中で胸を撫で下ろした。この子が意味を知らなくて良かった。


 生口とは、古い言葉で奴隷や捕虜を意味する。


「そう、違うよ。君にはまだ難しい言葉だから忘れなさい」


 さげすみ呼ばれても疑問さえ抱けず、動物以下の扱いを受け、小さな心はどれほど傷付いただろう。何故なら、どうしたって分かるのだ。それがどんなに理不尽な事かと。教わらなくとも本能が気付かせるのだ、身を守れと。なんて不憫な、なんて不愉快な。

 極めて落ち着いた動きで、月下は幼子に目線を合わせた。


「今日から君は“蓮”だ。人に名前を聞かれたら蓮と答えなさい」

「れん?」

「そう。君の名前だよ、蓮」


 蓮は蓮華草の蓮。食料や肥料になり、薬にもなる。人の役に立つ良い花だ。その花言葉は、幸福、和らぐ心、そして感化を意味する。それは月下が、彼の名に込めた願いでもあった。


「よし、蓮。朝ご飯にしよう」


 蓮の見えない犬耳がぴこんと立つ。その仕草に微笑みながら、月下は質素な朝餉を用意した。白飯に生卵と醤油を掛けただけの丼飯だが、食欲をそそる匂いが空きっ腹を刺激する。


(そうだった。ばたばたして昨日の昼から何にも食べてなかったんだっけ)


 そう思いながら卓に付くと、向かいに座る蓮は既にもの凄い勢いで飯をかき込んでいた。こればかりは、簡単に変えるのは難しいかもしれない。少し先行きが不安になった。


(でも、この調子だと上手くやっていけそうな気がする)


 蓮との関係に明るい兆しが見え、月下は頬を緩めながら飯を口に運んだ。

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