―壱―


 向日葵が顔を仰ぎ、太陽を追いかける季節。


 面積の多くが森に覆われ、春夏秋冬で変化に富んだ姿を見せる、ここ花国かこくでは、今日も色とりどりの花が人々の目を楽しませ、草木は清涼と憩いの場を与えている。


「今日も暑いなあ」


 切れ長の目をすぼめ、少女は眼鏡の鼻当てに溜まる汗を拭った。盛夏の日差しはじりじりと強く、できれば木陰で冷たいお茶でも飲みたい気分だ。


「よう、月下げっか


 気心の知れた声に呼び止められ、少女――月下は足を止めた。振り向くと、無精髭の男がにかりと歯を見せ、「よっ」と言いながら手を上げている。


「こんにちは! お久しぶりです!」


 彼は腕を振りながら駆け寄る彼女を眺めて肩を竦めた。


「相変わらず男みたいななりしてんなあ」


 女物の着物ではなく、鼠色の地味な作務衣に身を包む彼女に呆れた様子を見せている。


「これが一番動きやすいんですよ」


 月下はそう笑うが、男が余計なお世話を口にするのは他にも理由がある。無造作に伸びた髪、中性的な顔立ち、大股で歩く姿、それは一見すると童子に見えるのだ。


「それより何だ、こんな時間に。学舎まなびやはどうした?」


 彼女は普段、日中を教師として過ごし、夕方からは同じ校舎で薬剤の授業を受けている。男の言葉はそのためだ。


「長様から官邸に来るように言われてます。今から伺うところです」


 花国の長は昔馴染みの孫である彼女を大そう可愛がり、何かにつけては構っていた。しかし、呼び出されたのは一般人がそうそう踏み入れることができない官邸で、少なくとも私的な用事ではない。時間は厳守である。月下は懐から懐中時計を取り出して時間を確認した。


「では、私はこれで失礼します」


 そう言って丁寧に腰を折った彼女だが、頭上で聞こえた、「そういや」という言葉に顔を上げた。


「さっき雪国ゆきこくの男を見たんだ」

「雪国の?」


 月下は一度も目にしたことがないが、雪国の民は女も男も容姿がすこぶる端麗だという。


「遣いの方でしょうか」

「だろうな。官邸でも何度か見たことがある顔だった……」


 雪国は花国と友好国にあり、交流も盛んなため、外交官を見掛けても珍しい話ではないが、男は何かが引っ掛かるらしく、しきりに顎の無精髭を撫でている。これはこの男が考え事をする時の癖だ。


「何か気になる事でも?」

「犬を担いでた」

「犬?」

「ぐったりした子犬をな、荷物みたいに担いでたんだが……」


 あれは本当に犬だったのか。男は首を捻る。


「あの……」

「…………」

「……あの」

「…………」


 何度か声を掛けてみたが、男はすっかり自分の世界に入り込んで聞こえていないようだった。月下は早々に会話を諦め、今度こそその場を後にする。その際、律儀にも頭を下げるのは忘れずに。


――同じ頃。


 花国官邸の一室では、国長こくちょう熱盛あつもりが客人の青年に茶のおかわりを勧めていた。

 花国名産の、花の香りがする花茶はなちゃは青年にも好評で、彼は嬉しそうに湯呑みを差し出し、敦盛もほっこりと微笑む。御年八十歳を迎える敦盛は、今でこそ顔に深いしわを刻んでいるが、高い身長と整った目鼻立ちから、昔はさぞ男前だったと窺える。加えて、紳士然とした振る舞いが現在いまでも女性達の目を惹いて止まない。青年がもし女だったら、その笑顔に頬を染めていたことだろう。


 慣れた手付きで茶を注ぎながら、熱盛は屏風びょうぶの裏に意識を向けた。こちらを警戒している気配に対し、彼は優しく声を掛ける。


「君も一緒にお茶を飲みませんか?」


 返事はない。強張る気配が濃くなった気がする。こんな事なら菓子でも用意しておけば良かった。

 敦盛は青年に気付かれないよう、そっと溜息をいた。







 ひぐらしの鳴き声が黄昏の風に乗り、夜の訪れを知らせる頃、ようやく官邸に着いた月下は門番から奥の間へ行くように伝えられた。官邸の一番奥に位置するその部屋は、要人や長者をもてなすのに使用する部屋で、間違っても「臨時で事務仕事をしないか」や、「頂き物の羊羹ようかんを持っていきなさい」などの用件で使う部屋ではない。


 ひときわ重厚な扉の前に立つと、月下は緊張で声が震えないように深呼吸した。


「お待たせしました、月下です」

「入りなさい」


 敦盛の声に従って扉を開けると、まず目にまったのは正面の大きな窓。そこから見える、手入れの行き届いた中庭から視線を移すと、敦盛が優しい微笑みを浮かべていた。そして卓を挟んだ向かいに座る、長身な青年の背中。

 彼女の眼差しに気付いて振り返った彼に月下は息を呑む。彼の動きに合わせて揺れる白銀しろがねの髪は月国つきぐにの民の特徴だ。しかし月下が目を奪われたのは、彼の瞳の色。蒼い瞳を特徴とする月国のそれとは異なり、紫に似た不思議な色をしている。敦盛の客人なら身元は確かだろうが、彼の素性が少し気になった。


「月下、失礼ですよ」


 入り口に立ったまま青年を見つめる彼女を敦盛が咎める。しまった、と月下は慌ててこうべを垂れた。深く深く、申し訳ないという気持ちを込めて。頭を過った興味には決して差別の気持ちは含んでいなかったが、結果として非常に無礼で不躾な態度だった。


「大変申し訳ありません。どうかお許しください」


 蒼白で詫び言をくり返す彼女が可笑しいらしく、青年は声を出してのん気に笑う。


「いいえ。こんなに美味しいお茶を頂けて上機嫌なくらいですよ」


 垂れ気味の目を細め、気にしていないと湯呑みを見せる彼につられ、月下はやっと笑顔になることができた。


「月下と申します。本当に申し訳ありませんでした」

「いえいえ。私は雪国のかすみです。よろしく、月下君」


 先ほどの男が見たと言っていた雪国の遣いは、この人なのかもしれない。けれど先の失敗で大いに反省していた彼女は、賢明にもそれを顔に出すことなく、彼と握手を交わした。


 優しそうな人――それが月下の、霞への第一印象だった。







「ときに月下、お菓子を持っていないかね?」

「はい?」


 敦盛の唐突な言葉を受け、椅子に腰を下ろそうとしていた月下はその動きを止めた。


(お菓子? ああ、確か……)


 鞄に入っている物を思い出し、手拭いに包まれた物を敦盛に差し出した。教師仲間からのお裾分けだ。


「飴ですか?」


 霞が彼女の手にある粒を珍しそうに覗き見た。雪国には無い菓子らしく、砂糖菓子だと教えると、その鮮やかな色と愛嬌のある形に感心しているようだった。


「金平糖だね。子供は大好きだ。さて、小さな子供がいたとする。君ならこの菓子をどうやって与える?」

「え?」


 熱盛の謎掛けをするような問いは、月下の言葉を詰まらせ、戸惑わせた。


「さらに付け加えよう。その子供が警戒していて、それを受け取らなかったら?」

「え? え?」


 月下は焦る。何やら試されているようだが、意図が分からない。


「く、口の中に突っ込みます!」


 そして焦った結果の答えがこれだ。「あんまりでは?」と目で訴える霞の隣で敦盛が小さく微笑んだ。


「それはまた乱暴だね」

「警戒してるってことは、怖がっているのです。無理やりにでも口の中に入ってしまえば癒やされます。お菓子とはそういうものです!」

「だけど、噛みつかれてしまうかもしれないよ」

「なら噛みつかせてあげます! 噛むって行為は、小さな子が自分の感情を上手く表現できない苛立ちから……」


 自分は何が言いたかったのだろう。果たして、敦盛が求めているのはこんな答えだろうか。自信がなくなり、最後の方は尻つぼみになった。しかし、月下の答えを聞いた敦盛は満足そうに頷く。


「やっぱり君を選んで良かった」


 そう言って彼は屏風を指した。


「そこに男の子がいる。彼にお菓子をあげてくれないか」


 意識をしてみると、確かに人の気配がした。一歩踏み出せば途端に身を縮めるような、小さな気配だ。


 ゆっくりと屏風に近付き、落ち着いた声で語り掛けた。


「こんにちは、私の名前は月下。君の名前は?」


 気配は少しだけ反応したが返事は無い。


「お菓子は好き? 金平糖これ、一緒に食べない?」


 やはり返事は無く、何だか野良猫の頭を撫でるような心境になる。一粒でも摘んでくれることを祈り、金平糖を手の平に乗せて差し出すと、月下は長丁場を覚悟して胡座をかいた。床に胡座など年頃の娘がする姿ではないが、敦盛は何も言わない。言って直るくらいなら遠の昔に直っているからだ。


 何の反応も無いまま時間は過ぎていく。


 伸ばした腕が疲れてきた頃、月下は手の平に小さな衝撃を受けた。その勢いで金平糖が床に落ちたと同時に、こりこり、と耳心地の良い音が聞こえ、彼女の顔が緩む。

 ふと目をやると、屏風の後ろから色白の可愛らしい手が現れた。学舎で彼女が受け持つ子供達と同じくらいの小さな手だ。それは床に転がる金平糖を拾い、素早く引っ込んだ。すると、再び聞こえる咀嚼そしゃく音。


「美味しい? まだあるよ」


 ぴくりと気配が動き、屏風の低い位置から頭が見えた。髪の色は霞と同じ白銀で、柔らかそうに揺れている。


「お茶はどう? お花のお茶でね、蜜を入れると甘くて美味しいんだよ」


 屏風の裏でもじもじしていた幼子が顔を見せた。子供特有の、丸みのある頬。つぶらな目。綺麗な蒼い瞳だった。今は表情が硬いけれど、笑えばきっと可愛い。


「こんにちは。やっと顔を見せてくれたね」


 月下は笑みを深めた。彼を安心させるために。けれど、幼い彼がそんな彼女を目でとらえた次の瞬間だった。


 彼は素早い動きで手拭いごと菓子を引ったくり、口に放り込みながら飛ぶように卓へ近付いた。菓子がまだ口にある中、急須を奪って直接茶を飲むことで頬がぱんぱんに膨らんでいる。


 月下達は唖然と口を開く。


 急須が空になると、彼は飲みかけの茶にも手を伸ばした。雑に触れた湯呑みは卓の上で転がり、あっという間も無く床へ落下。陶器が割れ、がちゃんという音が響き渡る。幼子が体をびくりと跳ね上げた。咄嗟に逃げ出そうとしたのだろう、走り出したが前方不注意で壁に激突し、強かに頭を打ちつけて倒れた。そして、そのまま動かない。どうやら気絶してしまったらしい。はっ、と月下が我に返る。しかし、幼い彼に駆け寄ろうとした肩は敦盛の手に制された。


 熱盛は幼子に向かって術を唱え、印を組み始めた。その指の動きは早すぎて目視できない。

 詠唱が終わると、幼子の体には敦盛の花紋かもんである赤い曼珠沙華が痣のように浮かんでいた。


「この子の能力を封印した」

「のう……りょく?」


 幼子にはある特殊な力があるらしく、それは便利な反面、体に大きな負担を掛ける。未熟な者がその能力を多様すれば、命を縮める恐れがあるという。月下が部屋に訪れるまでの間、幼子の気が立っていたため、時間はあったが術を掛けるまでに至らなかったのだ。

 月下は敦盛の話を聞きながら幼子を抱き上げた。途端、違和感に襲われる。丸みのある頬に油断して気付かなかったが、彼の体は、彼女が受け持つ子供達と比べて細過ぎる。


 幼子のへこんだ腹がきゅるりと鳴った。眉間に皺を寄せ、彼女は敦盛を見上げる。


「ちゃんと話すつもりだったんだ。そんな顔をしないでおくれ」


 困ったように眉を垂らす彼と、泣きそうに顔を歪める月下。二人の間に入ったのは霞だった。


「彼は月国の混血種なのです」


 霞は小さな息を一つ漏らし、静かに語りはじめた。


 人狼一族である月国の民は、矜持が非常に高い。由緒正しい古民族であること、それと、彼ら特有の能力である“変幻自在へんげんじざい”に誇りを持っているからだ。故に仲間意識が強く、他族の血が混ざることを極端に嫌う。一部には混血を嘲る者がおり、酷い場合は彼らに対し、畜生以下の扱いをする者もいるという。


「この子は、その最も悪い扱いを受けたのです」


 粛正の名の下、幼子は小さな体で八つ当たりの対象とされ続けた。しかし、気位が高い一方で月国は名誉を重んじる国でもあり、そんな行いはご法度とされているのも事実だ。発覚すれば処罰の対象となる。


「では、月国の長様に知らせて、すぐにこの子の保護を……」

「長様は既にこの事を知っています」


 被せるように発せられた言葉に月下は虚を突かれた。


「知った上で、彼を放っているのです」

「そんな馬鹿なこと……」

「古民族の混血差別は珍しいことではありません。恥ずかしながら、我が雪国も似たようなものです」


 月国と同様、雪国も吸血一族である古民族だ。彼らもまた誇り高く、同族意識が強い。それでも雪国の長は人柄が良く、混血の霞にも官吏の立場を与えたという。


「私も幼い頃は酷い扱いを受けました。だから、この子の辛さは分かるつもりです」


 月下の、鳶色の瞳に涙が膨らむ。霞が一瞬だけ複雑そうな表情をしたが、再び淡々と話を続けた。


「この子に危害を加えていた者には処罰が与えられたようです。どんな処罰かまでは分かりませんが……」


 幼子が月国を追い出された時、雪国の男が偶然その場に居合わせて彼を保護したという。霞はその男から彼を押し付けられたらしいが、同じ国の者であるものの面識がない人物だったとか。


「ですから、これ以上の詳しい話は私にも分かりません」

「そうですか……」


 やっとの返事だった。彼女にとって、霞の話は衝撃が大き過ぎたのだ。






 割れた茶器を片付け、用意されていた幼子の荷物を持って月下が退室し、部屋には霞と二人だけとなった。


「敦盛様、この度は大変お世話になりました」

「いいえ、私は何もしていません」


 全ては月下に委ねてしまった。狡い考えだが、幼子の境遇を聞けば、あの優しい娘は絶対に断らないと分かっていた。全身全霊で彼を守るだろう。

 異端の子に愛情を注いでやり、その上、敦盛が心から信頼できる者はあまり存在しない。何故なら、他国より目立たないとはいえ、この花国にさえ差別は存在するのだ。


 それと、もう一つ。


 これを機に、彼女が過去を克服してくれたらと考えている。彼女自身はもう大丈夫だと言うが、霞の話を聞いた時の動揺が、実はそうでないことを物語っている。


「任せておいて何ですが、本当に彼だけで大丈夫なのですか?」


 霞の気遣いに敦盛の目尻の皺が深くなる。


「ええ、月下こそ適任です」

「しかし、彼だってまだ子供でしょう?」


 敦盛は目を閉じて茶を一口飲むと、ずいぶん間を置いて口を開いた。


「……あの子は十六歳なんです」

「は?」

「十六歳の女の子です」

「ええ?」


 こんな反応は日常茶飯事。彼女が童子に見られるのは容姿のせいではなく、その口調や仕草が原因なのだ。


 敦盛は本日、二度目の溜息を漏らした。もちろん、こっそりと。

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