君の瞳に映る空は、今でもまだ蒼い(短編)
月野夜
君の瞳に映る空は、今でもまだ蒼い
平日、水曜日の午前十時。あらかたの家事を終え、私は小休憩をとっていた。
主婦の私としては定休日にあたる水曜日は、もっとのんびりと過ごしたいものだった。
その居心地の悪さを感じさせている原因が横にいる。旦那だ。
こちらも、「やっと一仕事終えたぜ」と言わんばかりの倦怠感を浮べ、
「これって、面白いかな? どうして彼女は神様でもない、たかが小説家に、難病を与えられたのかしら」
私は読みかけの小説の内容に納得がいかず、隣で加湿器のように、呑気に煙を吐く旦那に訊いた。
「面白い面白くないというのはさほど問題じゃない。肝心なのは、人にとって普通が一番の幸福だという事を、人は忘れてるということだ。人はその真実に、気付くべきはずだ」
「じゃあ彼女だけ不幸にするのは不公平ね。彼もきっとひどい病気に罹るんだわ」意地悪い性格のおかげで、声が弾んでしまった。
小説というものは読む人を楽しませるためにあるのだから、面白くないことを問題じゃないというのもいささかおかしな話だ、と私は思った。
横目で旦那をチラリと伺う。「黙って読め」とあからさまな視線を投げつけていた。
いやもしかしたら、「黙って、嫁!」かも知れない。こいつならあり得る。
旦那の口から、さも不機嫌を擬態化したような煙が吐き出されるので、視線を旦那から剥がし、読みかけの小説に目を戻した。
難病を抱えたヒロインは、市立図書館で司書の仕事をしていた。私はふと、三年前のことを思い出す。
私はとある中古書販売店にパートタイマーとして勤務していた。
相手の思い込みなのか、よく言われたのが、「本が好きなんでしょ」という売り言葉だった。「じゃあ美容師はよほど髪の毛が好きなのね」と私はすかさず、買い言葉で返していたものだ。
私がここで働くことに、主だった理由は特にない。
むしろ本を読むだけで眠くなるし、漢字を書くことはもちろん、読むことすら億劫だった。
読書というものに縁遠い私が、ある日を境に、小説を読み漁るようになったのは、一人のお客様に出会ったからだ。
私の勤務日は月火木土の週四日に固定され、働き始めてから二年経っても変わらなかった。
繁忙期や閑散期によって、仕事量の増減はあるけど、出勤日は微動だにしない。
屋久島に群生する杉のように堂々たるものだ。
店長もそれに味を占めたのか、真っ新なシフト表の原本には、あろうことか私の名前だけが、月火木土の開店から午後三時までコピーされていた。
私の苗字が一場いちばだったことからか、スタッフ間でイチバンちゃんなるあだ名でいじられていた。
誰よりも先にシフトを提出してたとか、それでいてお店のカギを預かり受けていて、最初にお店に来るのが私だからとか、安直な理由で命名されたのが腹立たしかった。
予定がない暇人かというと、もちろんそうじゃない。年頃の女性なら、最旬のトレンド情報やファッション小物には目がないのだ。
そいうった情報が入れば、休んででも見に行きたいのが女性の常、だったはずなのに。
いつしかシフトに沿った生活パターンを構築し、仕事に差し支えのない範囲でプライベートの時間を作るようになっていた。
飼いならされた犬、意志を持たない産業用ロボットと呼ばれても遜色ないくらい、私はここで忠実にシフトを守り黙々と働いていた。でもお店ではイチバンちゃんと慕われているだけ、まだマシか。
そんな私の前に、最近になって気になるお客様が現われた。それが恋愛感情かと問われれば、「大変申し訳ございませんが、ただいま在庫を切らしております」とマニュアルのような返答しかできないくらい、芽生えていなかった。
興味、好奇心といった感情のほうがしっくりくるような、お客様だった。
ある日の月曜日、私は二階の書籍コーナーで在庫の補充作業を行っている最中の出来事だった。
そのお客様が来店してきたのだ。
残暑の厳しさも過ぎた十月。速乾性の、生地の薄いTシャツとハーフパンツ、素足にクロックスという出で立ちの男性で、彼の周りにだけ四季が遅れてやってくるのではないかと、疑念を感じるようなお客様だった。
「いらっしゃいませ」間近で見る彼の顔には無精ひげが残り、身なりと同様、清潔感の欠片もなかった。
もっと身なりに気を遣えば女性の目を引きそうなくらい、整った顔立ちなのに、もったいない。
年齢は私とさほど変わらないかな、などと考えながらも、私はすぐに仕事に集中した。
平日の午前ともなれば店内に従業員とお客様合わせても五人ほどだ。
この時間帯の客層は、ご年配の方や、暇を持て余した主婦の人たちが主で、たまに大学生らしき若人が参考書を探す姿を見かけるくらいだった。
私の経験則から言えば、彼はそのいずれにも属さない、世間ではもっぱら、ニートと呼ばれる類の人ではないだろうか。
彼の行動を横目で散見し、一生懸命に物色していたのが小説の文庫本コーナーだと、分った。
横幅10.5cm縦幅14.8cmの定形冊子が40冊並んだ棚を、左から順に右へと眺めて目視を行ったとき、一冊のタイトルと作者名を確認するのに5秒を要します。
この場合、一棚を確認し終わる時間を求めよ。と、算数のお題にされそうな彼の行動がとても印象に残った。なお、彼の名前をまさおくんとする。
答えは簡単で彼はその場に立ち尽くし、三十分を掛けて小説がびっしりと詰まった棚を眺めていた。人目もはばからず食い入るような真剣なまなざしが、眩しかった。
額に汗して労働の充実感を浮かべる表情にも似ていた。
私は自分の仕事に意識を戻し、棚の下の引き戸に入った在庫本を確認していた。出せそうな本がないかしらと、私は彼の真似をしてみた。涼しい店内では額に汗は出てこなかった。
「あっ、それ『君の膵臓を食べたい』ですよね?」
突然声を掛けられ、私は驚きついでに取り出した本を、手から放してしまった。タイミング最悪!
「あっ!」
中古品とはいえ、売り物に傷を付けた場合は自腹で買い取りが鉄則だった。
私の手から滑り落ちた小説は新書版で、発売からまだ一年程しか経っていない。値段も文庫本より断然高い。
「本も読まない私が小説なんて買うなんて、いよいよ、『本が好きになったんだね』って言われちゃうじゃない!」と心の中で悪態をついた。
「ご、ごめんなさい。俺が声かけたばかりに。その本、買います」
「いえ。私の不注意だったので、お客様が買い取る必要はございません」本心じゃどーぞどーぞと薦めたいわ。
「僕、その本が気になっていたんです。難病を抱えたヒロインがどんな結末を迎えるのか」
「そうなんですか? でも、やっぱりなんか悪いですし」
「だって安易だと思いませんか? 感動ポルノっていうか、目の前に出された克服困難な状況を見せつけられて、これでもかこれでもかって泣かせようとする内容に、僕は釈然としないんですよ」
「だから、読んで確かめる?」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
何言ってるんだろうこの人は。正直、この時から彼に興味を抱くようになった。
読書とは危険を冒すようなことなのだろうか。自分の無知が相手に悟られないように振る舞う。
「小説って、もっと気楽に楽しむべきじゃないですか。フィクションだしファンタジーな世界。現実に存在しない人物に想いを馳せて、艱難辛苦を共にできる素晴らしいものだと思います」無論、小説ではなく映像派な私だ。恋愛系の映画やドラマが大好きで、ヒロインが難病に侵されて死を遂げる間際には必ず素敵な男性が傍にいてくれるのだ。
「そっか、あなたは小説が好きなんですね。きっと色んな小説に出会って、色んなことを学んできた」
彼の目に光が宿り、キラキラと輝き尊敬の念をこめて私を見ている。それは全てあなたの幻想で、私は一切、本を読まないの。ごめんなさい。
「そうか、だからここで働いているんですね」
だから違うっつーの! それこそ安易な考えじゃない。本に携わる仕事をしているから本が好き、それは違う。
私は職業選択の自由で、自らの意志でここに勤めているの。決して本が好きとかじゃないから。
それがお客様との出会いだった。
「やっぱり難病を抱えたヒロインなんて安易よ。本屋で働く人が本好きだと決めつけるのと全くいっしょ。安易」
「だって君は、現に小説が好きじゃないか。あながち間違いとは、言えないぜ?」二本目の煙草を咥え、旦那が言った。
「人は変わるものよ。学んで進化を遂げるの。優秀な生物だという事を認識しなさい」
旦那は云い返すことはせず、また黙って紫煙をくゆらす加湿器に変わった。
これ以上の放談は旦那の眼に、「黙って、嫁!」と表示されそうなので止めた。
私は再度、小説へ視線を戻す。
ヒロインが盲導犬を連れてとある飲食店で会計を済まそうとした際、ポイントカードを利用しようとして、他店のポイントカードを出してしまい四苦八苦する場面だった。
「目が見えないんじゃポイントカードの違いを見つけるのは困難ね。これでもかってくらいに意地悪だわ」
「ポイントカードなんて作るだけ無駄だ。必要ない。あれは企業側の策略で、消費者だけが損をする」その物言いは、三流経済アナリストのちんけな企業批判にも聞こえた。
私はまた、三年前の出来事を思い出した。
あの一件以来、私は彼と言葉を交わすようになった。無論、こちらから声を掛けるのではなく、一方的に彼の方から、だ。
月曜日、火曜日と来店し、昨日は私がシフトが入っていなかったため確認はしてないが、今日も彼はやってきた。
「一場さん、こんにちは! 今日もお仕事なんですね」
「いらっしゃいませ、こんにちは」またあなたですか、と心で答える。
週に三度も顔を合わせるとなると、いくらお客様と言えどもウンザリしてくる。また彼の口調も私の神経を逆なでしていた。
特に親しい間柄でもないのに、馴れ馴れしく声を掛けられることには抵抗があった。
あの日から彼の中での私というのは、小説好きな女性、読書好きな店員というレッテルが張られているらしい。
妙な仲間意識に駆られて、こっそりとこのお店のシフト表を入手して、若しくはほかのスタッフにでも聞いて、私の出勤日を調べたのでは? と疑いたくなった。
ほら、有名なアニメ映画でもいたじゃない。好きな子の興味を引くためにたくさん本を読んだバイオリン弾きの少年が。
「一昨日買った小説をもう読んでしまって、新しく買いに来ちゃいました」
「もう読まれたんですか?」ほらやっぱり! それは私に会いに来る口実でしょ。と口に出しかけた。
「夢中になると時間も忘れてしまって、ご飯も食べるの忘れて読みふけってしまうんです。そういう事ってよくありますよね?」えぇ、私も面白い番組を見てるとカップ焼きそばの湯切り時間を三十分超える事がある。きっとそれと同じ感覚なんだわ。
「でもお食事取らないと、いくらなんでもお身体壊しますよ?」
「たまに思うんです。小説のページを千切って食べたら、内容が頭に入って来ないかなって、そしたらお腹も膨れて一冊二鳥だと思うんです」
「本気で言ってます?」
「ある小説家のたとえ話です。ただ、小説に囲まれた暮らしって案外悪くないもんだと、思いました」
彼はそういって胸を開き大きく深呼吸した。
戸棚に収まっている本たちから発せられた、新緑が生成した酸素を吸うように深い呼吸を行った。
「インクや紙の匂いって、僕の気持ちを落ち着かせてくれるんです」彼は長年の研究の成果を発表するように言った。
どんなものかと私も深呼吸した。
鼻腔には昨日洗ったユニフォームに沁み込んだ柔軟剤の香りが、した。
「なんていうか、新緑の香りに似ているんです」
うん当たり。本格的フレッシュグリーン、そして本の匂いじゃない。
「私も同じ匂いを感じました。じゃあ私は下に戻るのでごゆっくりお選び下さい」
彼を残しそそくさと下階に降りる。このまま喋っていると調子が狂ってきそう、否、仕事の邪魔。
本当に彼は小説が好きで来てるのか、やっぱり疑わしいわ。
私はズレた調子を整えるように、背伸びをした。
「これ。下さい」
私が下に降りてから既に五十分が過ぎていた。彼はとっくに帰ったと思い込んでいた私は虚を突かれたように動揺した。
「まだいらしてたんですか?」
「一冊は直ぐに決まったんですけどね、もう一冊がなかなか決められなくて」そう言って彼は二冊の文庫本をカウンターの上に置いた。
「『重力ピエロ』と『残り全部バケーション』ですか? なんだか不思議なタイトルですね」
不思議ですねといったものの、正直言わせてもらえば、意味不明というニュアンスに近かった。
彼が初日に買って行った、いや買わせてしまった、『君の膵臓を食べたい』にしても、変なタイトルだ。
もし、彼がその言葉を口にすれば、「やだ、変態」と拒絶しようもある。なんとなく意味も理解できる、そんなタイトルだ。好きが高じて、内臓まで欲しくなるアレでしょ。
ただ、この二冊に関してはなにが何だかわからない。もし彼がこの言葉を口にしたらなんて答えればいい。
「残り全部バケーションです」
「そうですね。見たところ定職に就いていないあなたは、今をバケーションしてるように見えます」と。
あれ? 意外と答えられそう。
「この伊坂幸太郎っていう作家さんはタイトルも凝ってて、伏線の張り巡らせかたが秀逸なんです。タイトルだけで内容が分かっちゃたら、面白くない」さも自分のことのように伊坂なにがしを誇らしげに語った。彼の中で伊坂なにがしは偉人なのだろう。
「ネタバレってやつですね」ネタバレは映画やドラマでも敬遠される。いわば共通のマナーなのか。
「そうネタバレ。ネタバレ、身バレ、シリコンバレー。三大バレの一つです」
「シリコンバレーって、アメリカの都市じゃないんですか?」
「貧乳さんがシリコンを詰めたのがバレる事案です」
「お会計は216円です」取り敢えずスルー。
冗談やジョークならまだしも、セクハラじみた会話は続けるべきじゃない。
勘違いするなよ、ここはキャバクラでもスナックでもないのだ。全従業員に次ぐこれはセクハラ事案だ。繰り返す、これはセクハラだ。
「あのぉ、このポイントカードってどんなことに使えるんですか?」
流石に気まずく思ったのか、彼は真面目な会話を私に持ちかけてくる。
ポイントカードの質問等は業務の対象になるため、応対せざるを得ない。
「商品をご購入の際、ご提示いただければ金額に応じてポイントが貯まります。またご不用になった本やCDなどお売りの際にもポイントが貯まります」いつもなら、ここで飛び切りの営業スマイルをだすが、今は止めておく。
「入会費や年会費はありますか?」あなたからは特別に徴収しても良いかな、口に出かけるが、思いとどまる。相手はお客様、お客様……。
「御座いません。お作りいたしましょうか?」接客マニュアル1-15ポイントカード入会への勧め方。お客様に対して不快を与える表情は作らず、愛されるような笑顔で進めるべし。ここで仕方なくスマイル一丁。
「じゃあ、是非」と彼はすんなりと入会を快諾した。
それは最初から入るつもりだったかのような素振りにも思えた。
わざわざ私の営業スマイルを見せるまでもなかったか、と後悔した。
「ではこの用紙にお名前と生年月日、ご住所のご記入をお願いいたします」キャビネットからA4サイズの用紙を取出し、カウンターの上に置く。記入箇所を順に指さした。
「名前は伊坂幸太郎でもいいですか?」
「え? ご本名なんですか?」
「いえ? 違いますけど。彼に憧れてて、使いたいなぁって」
「本名でお願いします」
「やっぱりポイントカードは使ってナンボよね。彼女もそれでまた人との出会いがあったわけだし」
ヒロインの彼女を見かねたお客さんが、彼女の財布からポイントカードを探す手助けをしたのだ。
小さな優しさが積み重なって世界平和に繋がっていくような、小さな幸福感がそこに描かれていた。
そんな空想を旦那が吐き続けるタバコの煙に、私も思い描いた。
世界平和がやって来るよりも先に、コイツの吐く副流煙で私は殺される。
やるかやられるか、やられてたまるか。私は怒りの矛先を読力に変えて、小説にまた視線を戻した。
ヒロインは視覚を完全に失った。後天性の盲目の病気だった。
大好きだった小説も読めなくなり、図書館でも働けなくなってしまった。
そんな彼女を思いやり付き合っていた彼は彼女を支えようと結婚を申し込んだ。彼女は不幸と幸福の両方をいっぺんに手に入れたのだ。
お互いの感受性の違いが時にぶつかりあい、時に反響しあう。困難を不幸と捉えず相手に寄り掛かるための口実として、小説の中で二人は逞しく生きていた。
「私がもし病気になったら、あなたは看病してくれるわけ?」
「当たり前だろ、お前に何かあったら、俺は生きていけない」その言葉と一緒に、モクっとした煙がだらしなく口から洩れる。
「じゃあとりあえず、隣でタバコ吸うのやめてくれる? 集中して読めない」叱られた飼い犬のようにシュンとなり、旦那は灰皿とタバコを持ってキッチンへと消えていった。
「俺は生きていけない、か」
「んー? 何か言った?」キッチンの角から顔を覗かせ私の呟きに旦那が反応した。
「なーんにも。私、この場面好き。彼女が旦那さんに抱きついて『この温もりだけは忘れたくない』ってセリフ」
「あー、悪くないよな」少し照れくさそうにして、旦那が鼻を掻く。
私は三度みたび、彼を思い出す。それが彼とお店で交わした最後の会話だった。
ポイントカードの一件から、暫く彼は顔を見せなかった。
やっと仕事にでも戻ったのかと妙な安堵を覚えた十月の下旬。彼は三週間ぶりにお店にやって来た。
一階のカウンターで買い取りの査定業務を行ってた私を、彼は一瞥し、そそくさといつもの文庫コーナーのある二階へと上がって行った。
よそよそしさとちょっとした寂しさを感じながらも、目の前に積まれた古本の山を攻略せんと、手は動かし続けた。
その後、彼が二階から降りてくる気配もせず、私は少々彼のことが気がかりになった。
彼が夢見てる小説に囲まれた暮らしとはいったい何なのか。
それは小説を際限なく増やし続けることで、一生達成できないモノなんじゃないか。
いつまで経っても、自宅に置かれている小説が少ないと絶望を感じ、それを補うためここへ足を運んでいるのでは。
紙とインクの匂いが落ち着くと、柔軟剤の匂いに惑わされながらも、目一杯の深呼吸を二階で今もしているかも。
そう考えると、やっぱり不思議で奇妙な珍客だと、胸の奥をくすぐられる。
暫くして、私は手すきになり昼食をとることにした。彼はまだ降りてこない。
私の昼食中に入れ違いで帰ってしまったらと考え、素直に、残念だなと思った。
どうしたら小説を選ぶのに一時間も掛かるのだろう? ここに来る前にあらかじめ目星をつけて置くことはしないのだろうか。
どんな基準で彼は小説を選ぶのだろう? そもそも面白い小説ってなんだろう? 数々の疑問が浮かんで私の頭の中がパンパンに詰まってくる。
「あ、パン食べよ」私の昼食はパンで決まった。
四十五分の休憩を終えて戻ると、早々にお客様がレジカウンターへやって来た。エプロンの紐を結うのに必死になって、彼がやってきたことに遅れて気付いた。
「いらっしゃいませ。まだいらしたんですね」驚きと同時に、すこし安堵がこぼれた。
「うん、どれにしようかずっと迷って悩んでいました」そう言って彼は手に持った二冊の文庫本を私に手渡した。
一冊はまだ彼の体温を伝えるためか、温もりが残っていた。
「迷っていたのは、こっちの本ですね」私は戸棚から抜き出されたばかりで冷たい文庫本を手に取って示した。
「どうしてわかったんですか? 名探偵!」
「どうしてって、こっちの本はまだ温かくて、ずっと持っていたんじゃないですか?」
「あ、なるほど」納得と言って左手のひらを右手でこぶしを握ってポンと叩いた。
いまどきそんなことする人がいたことに私は驚く、つくづくこの人には驚かされる。
「実は」彼は冷えた文庫本を手に持ち喋り出す。「一場さんに小説を一冊プレゼントしようと思ってどれにしようか悩んでました。それで、これを選びました」
手に持った文庫本の表紙を私に向け照れくさそうに、私から目を逸らした。
「安易! 『君に贈るなら、ペチュニアの花言葉が良い』なんて、安易! ペチュニアの花言葉は『あなたがいると心が和らぐ』でしょ? それで口説いてるつもり?」
「え? えぇ! 花言葉、知ってたんですか!」
「わたし、花言葉には詳しいんです」全くの嘘だった。
実は先ほどの買い取りの古本の中に、花言葉大全集があり、ペラペラとページを捲っていたとき、偶然見つけたのだ。素敵な花言葉だとおもい、頭に残っていた。
「そんなもの贈られても読む気になれない」私は彼が持ってきたもう一冊の文庫本を手に取る。
「貰えるならこっちの文庫が良いです。ドストエフスキーの罪と罰」作者とタイトルからして難しそうな予感がしていた。小説初心者の私には絶対に向かない作品だとも分かっていた。
「だってそれ、めちゃくちゃ難しそうですよ? 大丈夫ですか? 読めますか?」
「それをあなたは読もうとしていたんじゃないの?」私は思わず吹き出してしまった。自分で読もうとしていた小説に、自ら難しそうというレッテルを貼ったのだ。
やっぱり彼はちょっと変わっていて、それでいて温かい。
多分読めません。でも、あなたの温もりがこもったこの本が、なぜか心地よくて、欲しくなりました。
その日を境に、私たちは付き合い、結婚に至った。
みんなも思うでしょう、「安易だな」って。
でも私たちは幸せ。お互いの感受性がときには反響して、ときにぶつかり合うこともある。それでも歩みは止まらない。
「この小説さ、結局彼女だけが死んじゃったじゃん」
「でも彼女は幸せそうだったろ」
「さぁ? それは彼女に訊かなきゃ分かんないでしょ」
「かなえは幸せ?」コーヒーを啜るのを止めた旦那が訊ねてきた。
「私は幸せよ。小説の彼女については知らない。なにより安易に嫁の名前を登場人物に使用しないでほしいわ」
「俺とかなえの物語」
「キモい」ぶっちゃけ旦那の書いた小説を読んで、涙が出た。
もし、私の最後を看取ってくれるなら、小説と同じことをしてくれるのだろうか。
ヒロインは最後、不慮の事故に遭い命を落としてしまった。交通事故だ。
彼が病院に駆け付けた時には既に手遅れだった。彼女が息を引き取る寸前、「抱きしめても良いですか」と医師に懇願し途絶え逝く彼女を、強く抱きしめた。
彼の温もりは、きっとかなえには伝わったと思う。私にはわかった。
彼女の、「この温もりだけは忘れたくない」といっていた言葉を、彼は覚えていた。
旦那の書いた小説『君の瞳に映る空は、今でもまだ蒼い』の最初の読者になれた私は幸せだった。
この小説が世間の人たちの目に触れ、手に渡ることは、多分ない。
日の目を浴びる事だってない。埃にまみれて我が家の書棚の隅で、ひっそりと読まれるその日を待つんだろうな。
それでも私は、またこの小説を読みたくなる。
旦那が紡ぐ言葉の螺旋には不思議な力があった。無知で無力な私に、生きる希望と生きぬく勇気と永遠なる愛を与えてくれる。
私が先に死んでも、私を彼は強く抱きしめてくれる。
彼が先に死んでも、私はこの小説と共に生きてゆける。
このちいさな地球ほしで彼とめぐり逢えた奇跡とも呼べる出来事は、私の生涯唯一の、自慢だ。
大好きな彼のそばで、彼の書く小説を毎日読んで、いつまでも、いつまでも暮らしていける。
彼の書くたくさんの小説に囲まれて、私はこの一生を終えたい。
君の瞳に映る空は、今でもまだ蒼い(短編) 月野夜 @tsukino_yoru
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