第4話 夏が燻る


 俺は良心の呵責かしゃくさいなまれた。

 夏休み中の卓球部は土日と祝日は練習が休みだった。そのせいで千祭ちゃんに会えない日々が続いて、悶々としていた。

 銭湯に行くだけなら土日にも行くことが出来る。だけれど、行かなかった。『部活帰りに寄る』という理由が必要だったから。


 千祭ちゃんに好かれたい。

 できれば一回でも多く会いたい。あれが最後だと思いたくない。

 シャワー室を壊すことで、その時間が長く続くなら願ったり叶ったりだ。


 シャワー室が直ったからといって、椿紅薔薇湯に行くことが出来なくなる訳では無い。交通費と銭湯代が有料になるだけだ。そんなもの、アイスを我慢して、両親を説得して、お小遣いをやりくりすれば何とかならないこともない。

 会いたいという気持ちだけで、ひとたびシャワー室を損壊させてしまえば、後戻りはできない。

 もしやるなら徹底的に、計画的に、完全犯罪を成しえなければならない。


 走り出した恋の勢いとは裏腹に、その熱の行き場を失いつつある現状。ごうごうと燃えることなくぶすぶすと燻っていた想いは、決して計画的ではない強引な行動に現れた。


 振替休日だった月曜を経て、8月10日、火曜日。

 俺は家にあった小さいハンマーをカバンに忍ばせ、いつものように校門を通り、部室棟のシャワー室へゆっくりと歩き出した。


「おう、篤。おはようさん」

「う、うらしまさん。……おはようございます」


 聞き覚えのある声がした。振り返るとそこには事務員の御裏みうらさんがいた。


 角刈りでサングラスをしているから、はじめましての時は震えあがったものだけれど、顧問の先生よりもガミガミ言ってこないし、ずっと優しい。とてもいい先生だ。

 だからこそ、今から俺がやろうとしていることを思うと、ちくりと胸が痛む。設備を管理している御裏さんを裏切る行為だ。


 俺のよこしまな心を見透しているかのように、御裏さんの鋭い眼差しが貫く。俺はたまらず視線を逸らした。


「まだ暑い日が続いているから、しっかり水分取れよ」

「は、はい。じゃあ……」


 話をしていると気付かれそうだったので、無理やりに切り上げて部室棟へ向かうことにした。


「あぁそれと、実はシャワー室が誰かに壊されてしまってね、今また修理をしているところだから、まだ危ないから近寄らないでくれよ」


 驚きが声に出そうになるのを全力で抑えた。

 シャワー室が壊されている!?


「え、じゃあ……」

 まだ銭湯に行けるってこと?

 と声に出しそうになって慌ててつぐんだ。


「……はぁ。付き合いのあった紅原べにばらさんのご厚意に預かっていたんだがな……、こればっかりはきちんと、落とし前を付けなければならない」

「ひっ」


 御裏さんが『落とし前』とか話すと冗談じゃなく怖い。

「誰が一体そんなことを……」


「大丈夫だ。犯人はもう分かっている」

「……え?」


 俺は、御裏さんに背を向け、部室棟へ急いだ。

 御裏さんがそっちの方を見た気がしたからだ。


 部室棟の裏に行くと、破れたフェンスの前に人が二人見えた。


「はじめまして。僕は椿ノ峰高校の生徒です。御裏さんに、今回のシャワー室損壊事件の解決を依頼されました」


 男が一人。そして、その奥にいたのは。


「シャワーを壊したのはあなたですね。紅原べにばら 千祭ちまつさん。あなたが犯人だ」


 俺は、

 俺は身体が勝手に動いていた。


「ちょっーと待ったぁー!!!」


 男と千祭ちゃんの間に割り込んだ、

「ま、まっつん!?」千祭ちゃんは驚いた顔をしていた。


 俺は千祭ちゃんに微笑みかける。

 虚勢だ。精一杯の作り笑顔で立ちふさがった。


 大丈夫。千祭ちゃんは俺が守る。


 俺は小さめのハンマーを手に叫んだ。

「千祭ちゃんは何もやってない! 俺がやったんだ!」

「え!?」千祭ちゃんが驚く。

 俺も自分に驚いている。こんな行動力があったなんてな。


「それは嘘だね。小松原くん」


「え?」

 目の前の男子生徒は俺の名前を呼んだ。俺はこいつを知らないのに?

 いや、よくよくその顔を近くで見れば、見たことがある気がする。

 こいつまさか、橙井じゃないか?


 誰よりも特別扱いを受けているくせに、誰よりも普通な生徒であろうとする。化け物じみた優等生。一年の時同じクラスだった、橙井だいだい はじめじゃないか!


「そんな小さいハンマーじゃあ、シャワー室は壊せないよ。それに、壊したと言っても、傷つけられたばかりじゃない。専用の工具を使ってナットを緩められていたものもあった。これは、シャワー室の構造をある程度知っている人の犯行だ。どのように壊せば、シャワー室が使えないかを知っている人の犯行。君じゃない」


「そんなの分からないだろう!? 俺のじいちゃんが銭湯をやっていたんだ! だから知っていた!」


 ごめん、じいちゃん。

 じいちゃんは大工だったよな。知ってる。


 でもこれだけは言わせてくれ。

 大事な人を守るためなら、俺は貫き通さなくてはならない。

 それが嘘だったとしても。


 橙井は俺の嘘をハナから信じていないようだ。

「部室棟の裏の破られたフェンスには赤い繊維がからまっていた。それは彼女の椿紅薔薇湯のTシャツさ」


「何を言う! 見てみろ! 千祭ちゃんの服を! どこも破れていないじゃないか!」


「銭湯の他のお客さんから聞いているよ、小松原君。君は先日、紅原さんから赤いTシャツをもらっているはずだ。そのTシャツが犯行に使ったものだよ。それが証拠だ」


「そんなはずがない! 俺が千祭ちゃんにもらったTシャツは、大事に折りたたんでいつも大事に持ち歩いているんだ! 一度も着ないで大事に大切に! 破れているわけ……あれ」


 カバンの中で綺麗に折りたたまれたTシャツをひらくと、背中の裾のところがほつれていた。少し穴も空いていた。

 俺がTシャツをもらってからは大切にしまっていたはず。

 穴が空いたとすれば、それはもらった時、最初から空いていたということ。


「ち、ち、違うやい!! 俺が、このTシャツを着て、フェンスを通ったんだ!」


「さっきは一度も着ていないと言っていたのに。いいかい。君は僕と同じ二年の生徒だろう」


「当たり前だろ!」

 橙井は制服を着ていて、二学年の色のネクタイを締めていた。奴が橙井だと知る前から、そのネクタイの色と制服で、俺と同じ学年の生徒なのはすぐにわかった。だからほぼ初対面の奴に、強気でいられたのだから。


「君は椿ノ峰高校の生徒だ。ならば、わざわざフェンスを破って通らなくても、校門を通って部室棟に行けばいいはずだろう? フェンスを通る必要があるのは、部外者だけだ。だから、犯人は彼女なんだよ」


「ぐっ……」


 何も。何も言い返すことができなくなってしまった。


 どうして俺はこのTシャツをここに持ってきてしまったのか。

 俺が家に大事にしまっていれば。決定的な証拠品をここに持ってきていなければ、千祭ちゃんを逃がすことができたかもしれないのに。


「おい、あつし。やめろ、そんな格好悪い真似はな」


 部室棟の裏の暗がりに、御裏さんがやってきた。

 こんな狭い路地に御裏さんがやってきただけで、普段だったら、何も悪いことをしていないのに逃げ出すだろう。


 でも、今は逃げられない。逃げるわけにはいかない。

 だって、シャワー室損壊事件の犯人は、御裏さんに『落とし前』をつけさせられるのだから。


「俺が……」

「馬鹿野郎!!!!」


 どすの利いた声で一喝され、俺の精神は一瞬でひるんだ。


「守るためにかばうのはカッケェが、悪人をかばうのは馬鹿野郎だ。本当に大切なら、正しい道に導くのがおとこってもんだろうよ」

「うぅうううぅ……」


「まっつん、私……」

「千祭……。ガキの頃から可愛がってやってたのに、こんなくだらねぇことしやがって……」

「だって……、シャワー室が直っちゃったら、まっつんがもうウチに来てくれなくなると思って……」


「千祭ちゃん……」

 こんなにも俺のことを思っていてくれたのか。俺は罪深い男だ。涙が出てきた。


「千祭。俺のことは”まっつん”じゃなくて”御裏さん”と呼べと、いつも言っているだろう」






 …………へ?


 涙がひっこんだ。



「だって、ちっちゃい時からずっと”まっつん”って呼んでたじゃない! 急にこっちに来てくれなくなって、寂しかったんだもん」

「紅原の親分に恩はあるが、今はこっちでカタギやってんだ。ったく、ガキみたいなことしやがって。きっちり落とし前つけさせてやるからな」


「…………あの」

 目の前で繰り広げられる物語についていけなくなりそうだったので、同学年の彼に聞いてみることにした。


「うらしまさんって、なんて名前? 太郎じゃないの?」

御裏みうら 始末しまつさんだよ。だから、”うらしまさん”とも、”まっつん”とも呼ばれるんだろうね」


 俺は名前に『松』がついていることを恨んだ。

 許すまじ両親。覚えておけよ先祖。


 しゅうのいう通り。

 俺の青春は、当たる前に砕けた。

 後味の悪い煙が、心の青い空を曇らせた。


 夏休みは、幻想だった。ふぃくしょんなのだった。



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