第3話 夏が募る

 椿ノ峰高校からツバデンの駅まではそんなに遠く離れていない。『画鋲ヶ浜』行きの電車に上手いことすんなり乗れれば、鍔迫り辻駅に着くまで5分もかからない。


 通称ツバデンは海沿いを走るローカル線だ。始発駅から終点までは10個くらいの駅しかなく、それぞれの間も2分くらいで着く。海沿い周辺は坂道が多いため、少しの移動でも自転車よりも電車を使った方が楽ちんなのであった。

「うはー! ほら、泳いでいる人いるよ。夏だねぇ」

 電車の海側の窓を開けると、生暖かい潮風が前髪を浮かせた。

 いい眺めだった。空も海も青い。海水浴客が楽しそうに海で、砂浜で遊んでいた。


 窓から見える楽しげな世界と今俺たちがいる世界は別物のように見えた。

 夢にまで見た青春は、俺たちには手が届かないところにあるように感じられた。

「窓閉めろって! 冷房が逃げるだろーが」

「たしかに!」


 窓を閉めた。こっちまで聞こえてきた楽しそうな声がシャットアウトされる。今は電車のガタガタという音だけが聞こえた。

 潮風は生ぬるく、余計に汗をかいた。汗でTシャツが肌にまとわりつき気持ちが悪かった。


 あっという間に鍔迫り辻駅に着いた。ツバデンから降りて、鍔迫り辻商店街を回れ右に歩いて2、3分。真っ赤な看板が目を引く銭湯が椿紅薔薇湯だ。


 名前からして赤い。椿も紅も薔薇も赤いからだ。赤は俺の一番好きな色だったから、赤いTシャツを着た俺をまさに、歓迎してくれているように思えた。


 しゅうは対戦相手のやる気を削ぐために、わざわざ青いTシャツを着ているらしい。青い色は気持ちを落ち着かせる効果があるとか、無いとか。

 確かに柊を相手にしていると、戦う気持ちが削がれるのもわかる。色はあまり関係ないけれど。あいつのテンションに付き合うとやる気がなくなっちまうんだよな。


 外靴を下駄箱に入れた。下駄箱に刺さっている平仮名の書かれた木の札を持っていくとその下駄箱は開かなくなる。このタイプの下駄箱は好きだ。金属の鍵よりも”かけがえのないもの感”を感じるから。


「えーと、椿クリムゾンローズオンセーン! とうちゃーく!」

「椿が英語じゃ無いぞ」

「椿って英語でなんて言うんだ?」

「知らね」

「温泉も英語じゃねーけどな」

「温泉は何? バス? ホットウォーター……お湯ってなんて言うんだ?」

「スパで良いんじゃね? いざ、素晴スパらしいスパ!!」


 俺は椿紅薔薇湯の赤い内装を見てテンションが上がってしまって、氷河ばりのダジャレを叫びながら暖簾のれんをくぐった。


「いらっしゃい! へようこそ!」

 

 暖簾をくぐった先、番台には、俺と同じくらいの歳の女の子がとびきりの笑顔で出迎えてくれた。

 俺のダジャレをマネして使ってくれてて、めちゃくちゃ恥ずかしかった。


 小麦色の肌が、着ている体操着の白とのコントラストですごく眩しかった。

 彼女のポニーテールの尾が左右に揺れるのを見るだけで、何故だかドキドキした。


 部活ではマネージャーも含めて女子がいないので、夏休み中は女子と話す機会がほぼ無い。ついつい女子の声が聞こえるとそちらを向いてしまうくらいだ。

 夏季休暇中ではあるが、青春は絶賛申込受付中なのである。

「あ、お、お」

 俺は突然現れた女子にたじたじで声が出なかった。


「部活帰りだよね! そんなに汗かいてお疲れさま! うちのお風呂は素晴らしいから、ゆっくりしておいで!」

 ロッカーのカギを渡され、俺は固まった身体をロボットのようにぎこちなく動かしてロッカーにたどり着いた。


「篤、分かりやすく照れてるだろ。あの子、可愛いもんな」

「ばっ! 声でかいぞ!!」

「篤の方が声でかいって。こりゃ、青春ですなぁ」


 からかう奴らを放っておいて、俺は汗で張り付いたシャツを脱ぎロッカーにぶち込み、銭湯の扉を開けた。

「あ! はボクが行きたかったのに!」

「うるせー!」


 ホカホカと暖かい湯気の中で、あの子の笑顔が浮かんでは消えた。



 ◆



 数日後。


「篤、今日はそろそろ帰ろーぜ。チアノーゼ」

「そうだよ。シャワー室壊れてる時にそんなに汗かくこと無いだろー?」


「何言ってるんだっ。夏はっ、まだっ、始まったばかりなんだぜっ!」

 対戦相手のいないテーブルで俺は素振りを繰り返し、『インビジブル・ハウンド』の屈伸運動を繰り返した。


「違うんだよ、柊。篤は部活をがんばっているんじゃない。銭湯のあの女の子に会うために汗をかいているんだ」

 氷河に図星を突かれて俺は咄嗟の反論も喉でつかえた。


「あー、確かに可愛かったけどさ。高堂さんの可憐さには負けるだろ。それにあの子の恰好さ、あれツバコーのジャージじゃなかったぜ。他校の生徒だ」

「だからなんだよ」

「他校の可愛い女子には、他校のイケメン彼氏がいるって相場は決まってんだよ。熱は早いうちに捨てろって言うだろ?」

「言わねーよ」

「あれ? 当たる前に砕けろ、だっけ。俺達には青春なんて無いんだ」

 柊が俺の肩に手を置いた。すぐさまその手を払い除ける。


「俺は、諦めない! 諦めない人にこそ青春はやって来るんだ!!」

 俺は素振りを繰り返し、汗をかいた。銭湯に行く口実を作るためである。


「……わかったよ。一人で行ってこいよ。氷河、帰りにアイス買って帰ろーぜ」

「メタモルフォーゼ」

 氷河はグッと指を立てて言った。相変わらず意味は分からないが、そそくさと二人は荷物をまとめて帰って行った。

 いいさ。二兎追うものは一兎も得ず。友情はきっと俺の帰りを待っていてくれる。俺にも青春が来ることを証明してやろうじゃないか。あの子の笑顔と共に!


 俺は夕方まで必殺技の開発に費やした。じりじりと暑いのは変わらなかったが、ライバルのいないテーブルは張合いがなく、いささかつまらなかった。



 ◆



 銭湯へ向かう電車の海は輝いて見えた。

 窓を開けて生ぬるい風を浴びる。汗はちっとも乾かないが、その風は海の香りを俺に運んでくれているのだ。

 外の世界の、楽しさを、青春を俺に分けてくれているのだと思えば、そんな風すらもありがたい。


 今日こそは何らかの会話がしたい。

 銭湯への道のり。彼女への思いが募る。

 あの子の名前はなんと言うのだろう。


 結局何も言い出せぬまま風呂に入り、悶々とした時を過ごした。横目でチラチラと番台に座るあの子の様子を伺いながら、サウナで失った水分をコーヒー牛乳で補っていたら、なんとあの子から声を掛けてもらった。


「夏休みだってのに、毎日そんなに汗だくになるまで部活なんて、大変よねー」


 彼女は番台に座り、青い色のアイスキャンディーをなめていた。

 あぁ、アイスキャンディーになりたい。いや、げふんげふん。


「いやーほんと、そうですよね! 君も、毎日働いてるもんね。夏休みってどこにあるんですかねー!」


 緊張と照れで、自分が何を言っているんだか分からなくなっていた。


「夏休みって幻なんだよ。実在しません。ふぃくしょんです。ふふっ」


 はー、可愛い。

 夏休みが実在しなくても、可愛いこの子はこの世界に確かに存在しているのだった。


「ね。君名前なんて言うの? そのジャージって、ツバコーのでしょう? 何年生?」


「あ、こ、小松原こまつばらあつしッス。二年ッスね」


「なんだ、タメじゃない! ……まっつん! あなたも「まつ」って付いてるね。私の名前、紅原べにばら 千祭ちまつって言うの」


「あ、そうなんですね。たしかに、一緒っすね!」


 俺は自分の名前に『松』が付いていることを感謝した。

 ありがとう、先祖。ありがとう、両親。


 ち、千祭ちまつちゃんっていうんだ。


 せっかく名前を知れたというのに、明日は8月7日土曜日。シャワー室が直ってしまう。

 ここに来れる日も、今日が最後だ。


「明日にはシャワー室が直る予定なので、ここに来るのは今日が最後っすね。ほんと、もっと壊れていたらいいのにって思っちゃうくらい、ここが好きになりました」


 ここが好き、というより、千祭ちゃんが好きになってしまった。


「あー、確かにツバコーの人がそんなような事言ってたかも。頼まれてるのも、シャワー室が直るまでだし」


 そうだ。シャワー室が壊れていれば、まだ俺はここに来れるんだ。千祭ちゃんに会いに行ける。

 なんて、そんな悪い考えが一瞬脳裏をよぎった。


「ね、まっつん。今日が最後でしょ? 君っていつも赤いTシャツ着てるよね。だからこれ。じゃーん。私が着てるのと、同じやつ」

 千祭ちゃんは1枚のTシャツをくれた。

 赤いTシャツだった。背面には『椿紅薔薇湯』の文字が。


「仲良くなれた記念に、あげる。しばらくこっちには来れなくなると思うけど、部活、がんばってね」

 Tシャツのほかに、つばつじの名産だという『つばゼリー』も貰った。


 千祭ちゃんが食べていたアイスキャンディーと同じ、青い色をしていた。まるで青春の色だ。青い色も悪くない。


 俺は千祭ちゃんから貰ったTシャツを大事に抱きしめながら走った。ほのかに彼女の香りがするような気がした。温かな太陽のような香りだ。

 鍔迫り辻駅のホームまで駆け抜けて、ちょうど来た帰りの電車に飛び乗った。


 車窓から見える世界は今まで通り平穏に流れている。

 しかし、俺の心はそれどころじゃなかった。


 俺の夏が、青春が、希望が、光が、

 恋が。


 今ここに、始まったのだ。


 滞って、籠って、募っていた想いが今、ここに走り出した。


 帰りのツバデン、窓を全開に開けて、窓の外に向かって大声で叫んだ。


「ありがとう!! みんな! ありがとう!!」


 しかし、帰りの電車は逆方向で、窓は商店街の方を向いていたので、商店街の客に見られてめちゃくちゃ恥ずかしかった。

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