第3話 鯨よりも深く

 真向 鳩麦は、絵を描いていた。


 そこには真っ青な海の底に沈む、一匹の鯨が。

 それはとても寂しそうに、海の底を泳いでいた。


 太陽の光も届かない暗い海の底には、風もなく、波もなく、空気もない。命の動きが感じられないが、そこには全てを飲み込むような迫力がある青があった。


「ふぅ……」

 筆を置く。

 もうあと数日後には体育祭だ。絵の提出期限はとっくに過ぎていた。期限を守ったとしても、体育祭のしおりに印刷されるかされないかという違いしかない。ならば自分の納得のいく物が描きたい。美術部員としてのこだわりかもしれない。


 ずっと座ってパレットを持っていたので、身体が固くなっていた。少しリフレッシュしようと席を立つと、後ろの廊下で女子生徒と目が合った。


 否、目は合わなかった。彼女は僕ではなく、僕の描いた絵を見て、立ち尽くしていた。それは一瞬のようで、数分にも感じられた。

 僕はそんな彼女に興味を持った。

 ただ廊下を通り過ぎるだけの彼女は、僕の絵に魅せられ、目が離せなくなっていたのだから。


「あ、あの!」

「!」

 僕に話しかけられ、彼女は初めて僕の存在に気付いたようだった。逃げるように立ち去ろうとする彼女を何とかして引き止めたかった。


「ちょ、すみません! 先輩! 絵の! 感想を聞かせて貰えないでしょうか!」


 彼女の制服のリボンの色を見て、僕よりひとつ上の学年であることは分かった。

 僕としてはなかなか勇気のいる行動だった。全ては絵のためだ。この絵は僕の中の『青』を体現している。僕の絵の感想を聞きたかった。僕以外の誰かの言葉が聞きたかった。


 女子生徒は、最初僕の声が聞こえなかったかのようにして歩みを止めなかったが、僕の叫びに近い願いを聞いて考え直してくれたのか、気まずそうに右上の方を見ながら、僕に向き直ってくれた。


「……うん。とても綺麗な絵だと思うよ」

 黒髪を肩まで伸ばした女子生徒は、左手薬指にシンプルな、それでいて印象深い銀のリングを付けていた。ゆっくりと教室に戻って、二人で絵に向き直る。


「ありがとうございます」

「でも、とても寂しそう。どうして一匹だけなの? どうして海の底を泳いでいるの?」


「……どうして、と言われても」

 これは青組のポスターだから。

 たくさん生物を書くと、鯨が霞んでしまうから。

 と言った理由が自分の中にはあった。

 そう言った、自分勝手な理由で、その鯨は海の底をたった一匹で泳ぐ羽目になっているのだ。


「これって、青組のポスターだよね? だから、こんなにも青色を、ベタベタと塗っているんだ?」

 彼女は絵に近づき、絵に触れようとした。が、寸前でその指を止めた。沢山の青色で塗り重ねられたキャンパスは厚みと奥行きを作り出していた。


「はい。青と、藍色、紺色、黒。他の色はあまり使いたくなくて」

 ひと目で何組か分かるポスターにしたかった。赤も黄色も緑も白も飲み込むような、深く濃い海を、大きく強い鯨を表現したかった。


「これで完成? だとしたら、ちょっともったいない。ね、専門家の意見、聞きたくない?」

「専門家?」

 もしかして美術部の先輩だったのだろうか。


 いや、彼女の顔は見たことは無かった。ずっとキャンバスに向かい、あまりコミュニケーションをし合わない美術部員だった僕。部員全員の名前は覚えていないが、さすがに所属している人の顔くらいは覚えていた。


 それともこの人は、カラーコーディネーター同好会に所属しているだとか、そういう色彩感覚の専門家、という意味で話しているのだろうか。


「深海研って知ってる?」

「……知らないですね」

「深海生物生態研究同好会」

「…………、知らないですね」

「あたしとノエルの、二人だけの同好会だからね」


 知らないよ!!

 じゃあ何故そんなにもドヤ顔で聞いてきたんだ!


「あたしは深海のプロってこと。マリアナスネイルフィッシュだって知ってるんだからね! 深海にだって、ちゃんと生態系があるんだよ」


「マリアナス、ネイル、何?」

 僕は全部聞き取れなくて、聞き返した。

 その様子に、ふふんと、彼女はとても満足そうに笑う。


「よく分からないけど、深海にそういう生物がいるんだって。名前だけは覚えてみたの。深海研って感じ、するでしょ?」

「は、はぁ」

 深海のプロとは名ばかりのように思えた。


 しかし、その後の彼女の言葉は僕の中の『深海』の見え方をがらりと変えた。


「うーん、なんかね。その絵の中の鯨は、ひとりぼっちでとっても寂しそうじゃない? あたしにとって、『深海』ってそんな場所じゃないの」


「じゃあ、……先輩。先輩にとって、『深海』ってどんな場所なんですか?」


 目を瞑って彼女はしばらく考えていた。

 すぐには答えが出ない。彼女にとって『深海』とは、すぐに答えが出ない、深く難解で、愛おしい存在なのかもな、と思った。


「あたしにとって……、『深海』は、愛する人と過ごす秘密の場所、かな。二人だけの、ね」


「はぁ」


 今自分が言った言葉が恥ずかしかったのか、取り繕うように言葉を重ねた。


「あ、でも別に、『狭い世界に二人だけ』って感じじゃないの。喩えるならそう、『』」


 深い、愛の言葉を聞いた。

 さっきの言葉よりも、聞いているこちら側からすると、ともすれば断然気恥ずかしい。しかし、先輩はそれがさらりと、まるで当たり前なことのように、確固たる自信を持って自然と口から出たような、真っ直ぐな表情をしていた。


「もっともっと深く潜ってみて。その鯨よりずっと深く。あなたはまだ知らないだけ。この世界の広さを。海の青さを。空の青さをね」


 そういう彼女は知っているのだろうか。

 もうここ1ヶ月ほど、ずっと青色に向かい合っている僕よりも、青という色を知っているのだろうか。


 絵の中の鯨に向き合い、青色を見つめた。


 海の底には果てが無い。

 青い海の底よりも黒い身体を横たえる、大きい鯨のその下へゆっくり、ゆっくりと降りていく。


 深海。

 そこは太陽の光も届かない、青というよりも黒い空間。

 何も見えない。どこにもいない。自分の体すらも認識出来ない。ここが海なのかも分からない。


 ただただ闇の空間だった。

 鯨よりも深く潜っても、そこには何も無かった。

 そこで佇む僕は、まるで一匹の鯨だった。

 海の底の、さらに底で泳ぐ。


 寂しい。こんなところを泳いで何になるのだろう。

 息苦しい。早く戻りたい。


 僕は、ふと上を見上げた。

 その時、目に焼き付いたその光景が。

 とても、とても綺麗だった。


 息を忘れるほどに。息を飲んだ。飲み込まれた。

 その青すぎる綺麗な瞬間を、描きたいと思った。


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