第24話「私は進み、あたしは追った」
ヴォールティルグの森は、調べれば調べるほど不気味な土地だった。
鳥の囀りは聞こえず、新しい獣の足跡も見つからない。ただ腐葉土だけが積もり、木々と草花は枝葉を伸ばし。緑の生命力に溢れている。
この森の番人という職に就いて、早二週間。
不自然なほど自然豊かで、不気味なほど動くものの気配の無い世界では、イレーネ様に宛てた手紙の内容を考えるのも大変だった。
私も傭兵時代、幾度となくこの森に足を運んでいたけれど、こんな異様な空気に包まれているのは初めてのことだ。
「変化が始まったのは、割合最近のこと。でも、数十年単位で、じんわりと魔獣の数は減ってた」
傭兵ギルドの二階には、歴代の職員たちが集めてきた膨大な資料が収蔵されている。それを確認したところ、遙か以前から少しずつ、変化に敏感な受付嬢も気付かないくらい微妙な勾配を付けて、ヴォールティルグの森は動物が姿を消していたらしい。
私が初めに違和感を持ったのは、ブラックウルフが東の草原に現れた時のことだ。
たしかに、草原にはウサギなどの小動物がいるけど、わざわざそれを狩りに来ずとも、ブラックウルフの本来の生息域である森には、潤沢に食料があるはずなのだ。
小動物たちが逃げ、弱い魔獣たちが逃げ、狼たちが森の外に出た。
森と人里は隔絶された異世界だ。だからこそ、向こう側に棲む存在が、こちら側に来ると言うことには、重大な意味が潜んでいる。
「とはいえ、浅いところにはコレと言った物もなし。深部も見終わった。となると最深部に行かないとならないわけで……」
森番の小屋に置いてあった小さなテーブルの上に、森の地図を広げて見下ろす。地図と言っても、そう大層なものじゃない。森の輪郭が描かれていて、森番の小屋と、そこに至る道が描かれていて、あとは二重の円がある。
円の一番外側は、森の浅い場所。そこから、深部、最深部と、大雑把に三分割されている。
森は異界だ。
奥に行くほど強い魔獣が棲んでいて、危険も相応に跳ね上がる。地図には獣道など、歴代の森番が追記していったメモもあるが、深部、最深部と進むにつれて、如実にその量は減り、その内容は重くなっていた。
この二週間、私は地図を頼りに森を回っていた。本来の仕事は浅場を回って侵入者が居ないか確認するだけでいいのだけれど、残業していたわけだ。結局、今日までその成果は何にも得られなかったのですが。
残っているのは最深部だけ。消去法で言うなら、ここに一連の異変の原因がある。
けれど、ギルドの資料室にも、森番たちが残した手記にも、最深部に関する情報はほとんど無い。
「あるのは、最深部は異界の中の異界であるということだけ。実質、情報ゼロなんだよねぇ」
異界の異界は人里などという、コインの裏表みたいな単純な話でもないだろう。
「結局、自分の眼で確かめるしかないか」
食事を摂り、剣を研ぐ。装備を整え、道具を揃える。取れうる限り全ての手段で、万全の体勢を完成させる。
傭兵時代、そして僅か数日の騎士時代。全ての経験を総動員して、あらゆる不測の事態に対応できるように身構える。
「よし、行きますか」
ずっしりと重いリュックを背負い、鞘に双剣を戻す。
首元には、赤晶騎士団の真新しいプレートと、銀級傭兵のプレートが掛かっている。
「……んー」
少し思い悩んで、テーブルに広げたままの地図に書きこむ。
できることなら、誰にも見られることなく自分で回収したいと願いながら。一応、ちょっとした保険も兼ねて。
ある意味では、一時の気の迷い。
好意的に見るのなら、傭兵時代に鍛えられた私の野生の勘。もしくは虫の知らせ。
根拠のない、ただの戯れと言えばそれまでだけど。私は今後生涯、その最後の行動を後悔することになる。
†
あたしの部屋は随分と高いところにあったらしい。
耳元で鳴る風の音を聞きながら、大きな石を組んで作られた壁スレスレを落ちながら、そんなことを思う。 眼下に広がるのはヴォールティルグの森。どこまでも深い緑が、つい数分前までは自由の象徴のように見えたのに、今では王都を呑み込もうと侵蝕する魔物の群れのようだった。
「シェラ――ッ!」
落ちながら、城壁を蹴る。
漲る自信が力となって、あたしは一気に森の方へと飛び出した。
この時ばかりは、自分の小さな体に感謝したい。空気抵抗の無い胸も、今日ばかりは許してやろう。
あたしは矢のように空中を飛び、深い緑の絨毯へと飛び込んでいく。その間際、ちらりと後ろを振り返る。
塔の真ん中に穿たれた大きな穴の縁に、トゥーリの姿が見える。背後には、駆け付けた白晶騎士たちも。彼女は悲愴な顔をして、私に向かって腕を伸ばしていた。
「心配しなくても、すぐに帰るわ」
届かない言葉を残して、あたしは森の中へと飛び込んだ。
バキバキと枝を折りながら、なんとか太い蔦を掴み、墜落だけは避ける。濃密な緑で構成された森は、良いクッションになってくれた。
「傷は、殆ど無いわね」
お父様の〈城主〉を破ったことで、あたしの胸には大きな自信が漲っていた。〈無窮の練武〉は最強を確信すればするほど、その思いに応えてくれる。
多少のかすり傷なら、一瞬で治ってしまった。
「シェラ……」
彼女を探さなければ。
けれど、ぐるりと周囲を取り囲むのはどこまでも濃密な、鮮やかな、暗く、明るく、あたしが見てきた以上に幅広い緑の世界。木の幹すら蔦が這い、苔が覆い隠している。足下も、日光などほとんど差し込まないだろうに、モサモサと低草が繁茂している。
「雰囲気が悪いわね、この森」
異常な光景だ。
森は植物の宝庫だが、ここまで無秩序に入り乱れているものではない。腐葉土すら覆い隠し、あらゆる植物が葉をピンと張っている。土の栄養などとっくに枯れていてもおかしくないだろうに、森は今もぐんぐんと成長しているように見えた。
「まずは、森番の小屋を探しましょう」
シェラはこの森で生活しているはずだ。森番の小屋がどこかにあると、聞いたことはある。
あたしは戦斧を握り、太い木の根を飛び越えて走り出した。
「静かすぎる」
音がしない。
今のあたしは〈無窮の練武〉によってあらゆる感覚が先鋭になり、周囲のことが手に取るように分かる。だというのに、この森には一切の動物の気配がなかった。
鳥の囀りも聞こえない。足跡が見つからない。獣の吐息も、視線も、あらゆる痕跡がすべて消えていた。
まるで、この濃密な緑が全てを覆い尽くしてしまったかのようだ。
「これ……。よかった、道が残ってる」
猛烈な緑の侵蝕にも関わらず、あたしは奇跡的に道を見つけることができた。ほとんどその残滓と言ってもいいくらいだが、明らかに木々の間に空白がある。
おそらく、森番が行き来するための道だろう。城のある方向へ進めば、森を出ることができる。
「だったら、城を背に走れば良いのね」
こんな所で帰るわけがなかった。
あたしは木々の隙間から辛うじて見える壮麗な城に背を向けて、再び緑の中へ走り出す。奥へ進めば進むほど、森は緑に満ちていく。
彩度は段々と暗くなり、それでも植物たちの生命力は光り輝く。植物たちにとっての楽園。動物たちにとっての地獄。
「あの小屋……!」
細長い若木ばかりが増えてくる。恐らく、かつては開けた空間だったのだろう。小さな泉があるが、水草が溢れて水面が消えている。
あたしはその森の中に、蔦草に浸食されている小屋を見つける。
「何年も経ってるみたい……。いつからこんな状況に……」
屋根が剥がれ、壁を太い木々が貫いている。
半ば自然に取り込まれたような、無残な姿だ。
シェラはここで暮らしていたのだろうか。いつから、ここに居なかったのだろうか。
あたしは何か手がかりがないかと、倒木を乗り越えて小屋の中に入る。
床板の隙間からは草が生え、窓枠は屋根に根ざした植物の重みに耐えかねて拉げている。なんとか形を保っているのは、皮肉にも生えてきた木々が柱の代わりをしているからだろう。
「これは」
苔の積もった小さなテーブルがあった。分厚い緑色の苔を剥がすと、その下に大きな紙が敷かれていたのに気付く。
紙が破れないように汚れを払い、そこに描かれているものを見る。
それは、この森の地図のようだった。
「この字は――」
三層に区切られた、森の地図。最深部と書かれた、その中心の部分に、掠れたインクの痕を見つけた。その筆跡は、あたし宛てに送られてきた手紙のものと同じだ。
その文面は、
「“きっと何かがそこにある。願わくば、赤灼の姫と無辜の民の憂いを払うことができるなら”」
地図に皺がつく。
小さなにじみが、ぽつぽつと紙面に広がった。
「憂いを払いたいなら、さっさと帰ってきなさいよ」
彼女は今、この異界の奥にいる。この静かな異常事態の根本を断つため、奮闘している。
ならば、あたしがそれを漫然と見物していて良いわけがない。
「あたしは、傭兵イレーネ。――この国の第三王女、“武姫”イレーネなのよっ!」
小屋を飛び出す。
場所は分からない。
方角だけは分かる。
ならばあとは走るだけだ。
濃密な緑を掻き分けて、あたしはただひたすらに、森の最奥を目指して走った。
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