第16話「私は彼女に注意した」
「ちょ、イレーネ様!?」
私が止める間もなく、イレーネは草原を駆け抜ける。
その小さな体からは信じられないほどの速度を出して、彼女は一気に丘を登り切った。
稜線から顔を出していたオオカミたちも、その速度に面食らった様子で反応が遅れる。イレーネはそれに構わず、背中の盾を手に取った。
「“解放”」
魔力を帯びた
彼女の声は離れた私の耳にも良く届き、草原全体へと広がる。
その瞬間、オオカミの首が断ち切られた。
「ふっ」
滑らかに大盾が形を変える。
それは赤色の戦斧となり、鋭利な刃をブラックウルフの首元へと撫で付けた。
一切の抵抗なく、銀色に輝く刃が毛皮を断ち、皮を斬り、肉を裂く。そのあまりにも自然な動きに、私だけでなく、同胞を狩られたオオカミたちでさえも、一瞬反応が遅れる。
その空白を逃さず、彼女は斧を振る。
超人じみた怪力により、慣性の力を加速させる。
ざん、と小気味の良い音を立てて、再び首を刎ねる。
「イレーネ!」
彼女の名前を叫ぶ。
しかし、私の声は届かないようだった。
赤髪を振り乱し、紅玉のような瞳には怪しい光が輝いている。口元には歳不相応の妖艶な笑みが湛えられている。
彼女は、全てが緩慢に動く過集中の世界で、戦いを楽しんでいるようだった。
再び首が刎ねられる。
一方的な攻勢。
オオカミは尻尾を丸め、鬼神の如き少女に背を向けて逃走を始める。
彼の本能は、彼我の力量差を機敏に感じ取っていた。
だが、その行動は悪手だ。
「――逃がさない」
大人の背丈ほどもある巨大な戦斧を振り上げる。
彼女の細い体が、しなやかな弓のように反り返る。
たっぷりと時間を掛けて、全身の力を整えて、その身に宿る全てを解き放つ。
風を裂く。
草を散らす。
放たれた戦斧は一直線に駆け、ブラックウルフの背骨を貫いた。
「イレーネ様!」
その頃になって、私はようやく彼女の元へ辿り着く。
武器を投げたイレーネは、ふっと表情を元のあどけないものへと戻し、こちらを振り向いた。
「シェラ――」
「伏せてっ!」
屈託なく笑うイレーネの頭を押さえつける。
主だろうが、関係ない。私は彼女の煌びやかなドレスメイルに朝露と泥が付くのも恐れずに、地面に引き倒した。
「なっ!?」
驚き、目を見開く少女。
彼女に構う暇はない。
私は腰から双剣の片方を引き抜き、草むらに向かって突き出す。
ほぼ同時に、緑の中から黒い巨影が現れる。
真っ赤な口に並ぶ鋭利な牙が、朝の太陽を受けて輝く。
「畜生がッ!」
睨む。
一瞬、その黄色い目に明確な怯えが滲む。跳躍し、全身を張り詰めていた筋肉が、僅かに緩む。それだけで十分だ。
緩やかな弧を描く刃を、オオカミの喉笛に滑らせる。
硬い毛を斬るジャリジャリとした感触のあと、肉を断つ生々しい手応え。やがて骨が砕け、血しぶきが頬を濡らす。
しかし、野生の生命力は強靱だ。
私は空いている方の手でもう一本の剣を引き抜き、横から首へ突き刺す。その勢いのまま、貫通した剣を地面に突き刺し、ギルドの依頼書を掲示板に張り付けるように固定する。
「らあっ!」
極めつけに、無防備な腹を踏みつけ、動けなくする。それでもしぶとくバタバタと体を揺らしていたが、全体重を掛けて動きを封じる。
たっぷりと数十秒掛けて、喉元からだくだくと血が流れ出す。大地に黒い染みが広がり、鉄の臭いが広がる中、ようやくオオカミは事切れた。
「しぇ、シェラ……」
泥だらけのイレーネが、声を震わせて名前を呼ぶ。
脳の奥がまだ熱を持っている。火花が散って、集中できない。
私は何度か深呼吸を繰り返し、表情だけでも冷静さを取り戻そうとす。
「イレーネ。足跡は五頭ぶんありました。どこかに潜んでいる可能性を考えて、武器を手放さないで下さい」
「……」
「そもそも、今回の仕事は調査です。わざわざ危険を冒して狩る必要は無かった。ああして見つかった時は、視線を逸らさず、ゆっくりと距離を取りましょう」
「……ごめん、なさい」
イレーネはうつむき、胸の前で指を絡める。
駄目だと思いながらも、感情の噴出が堪えきれない。
私は乱暴に剣を振り、血と肉と脂の汚れを落としながら、言葉を零した。
「死に急ぐようなことは、やめてください」
その言葉に彼女は答えず、足音が遠のく。投げた斧を回収しに行ったようだった。
「……私も未熟だなぁ」
血を流し、地面に斃れるオオカミを見下ろして一人ごちる。
彼女を守る護衛騎士としては、まず無事かどうかを確認するべきだった。そのあとで泥で汚したことを謝り、そのあとで少し注意をすれば良かった。
近くに斃れている、頭のないオオカミの死体を見る。
滑らかな切り口だ。武器も業物だが、斬った人の力と技量も高い。余計なことを考えず、ただ一振りで倒す。単純だが、それだけに難しい。
私は己の主に驚くと共に、少しの恐れも抱いてしまった。
「シェラ」
「っと。なんですか?」
しばらく呆然としていると、イレーネが赤い大盾を背負って戻ってくる。彼女は少し緊張した様子で、私の顔を伺っている。
「えっと、その……。この後は」
「とりあえず、牙を抜いて持って帰りましょう。でっかいオオカミ五頭も引きずって帰れないですからね」
「わ、分かったわ」
努めて明るい声色で、笑みを浮かべて答える。
イレーネはほっとした様子で緊張を解き、こくりと小さく頷いた。
「これって、依頼失敗になるのかしら」
「うーん。どうでしょうね。どうせ、ブラックウルフが確認されたら遠からず討伐依頼が出てたはずですし」
この草原は太い街道も走っていて、往来も激しい。そんなところに獰猛なオオカミが棲み着いては厄介だし、討伐依頼は遅かれ早かれ出ていただろう。
討伐の証明に使われる牙を持ち帰れば、別の傭兵へ現地での確認の依頼が出される。それによって真実であると分かれば、特にお咎めはないはずだ。
私がそう説明すると、イレーネはあからさまに胸を撫で下ろした。
「脱退処分とか下されたりはしないのね」
「この程度で脱退とかはないですよ。ギルドは法や組合規則を犯さない限りは割と緩いですから」
オオカミの口に手を突っ込み、鋭利な犬歯を引き抜く。体格に見合った大きな牙だ。
イレーネに渡すと、彼女は物珍しそうに白い牙をまじまじと見つめた。
「魔力が籠もってるわね」
「あ、分かります?」
イレーネは少しむっとしてこちらを見る。
「あたしだって、人並みに魔法も使えるわよ。姉様ほど上手くないし、戦うなら直接武器を振った方が早いから、あんまり使わないだけで」
「別に魔法は戦うためだけのものじゃないですよ……」
ぐい、とオオカミの牙を引き抜く。
魔法についてある程度の才能がある者が見れば、その牙が僅かに青みがかって光っていることが分かる。
この光こそが、ブラックウルフを魔獣たらしめているものだ。
魔獣と獣の決定的な違いは、魔力を扱うかどうかだ。魔力自体は人にもエルフにもドワーフにも、野ウサギにも草にも大地にも、普遍的に含まれている。しかし、それを意のままに操るには、ある程度の知性が必要になる。
魔獣は人間や他の亜人族と比べれば、知能で劣ることが殆どだが、それでも原始的な魔法を本能的に扱っている。
ブラックウルフの場合は、牙に〈
「魔法は戦うためだけのものじゃないけど、こと魔獣に関しては戦うための武器ね」
「それはまあ、そうかもしれませんねぇ」
人間たちが魔法を体系化し、扱いやすくすることで、娯楽や生活の利便性に適用したのに対し、魔獣の扱う魔法は酷く原始的だ。ただ、それだけにストレートな強さとなって魔獣の脅威を底上げし、人々に襲いかかる。
「イレーネ。さっきはどうして飛び出したんですか?」
魔獣は危険な存在だ。
姿形こそ普通の獣とそう変わらないが、その身には魔法の力が宿っている。油断して刃を向ければ、思わぬ反撃を喰らうこともある。
「それは、その……。ついカッとなって……」
「どこの犯罪者ですか」
要領を得ないお姫様の弁解に、私はがっくりと肩を落とす。
とりあえず、今後は二度と先走らないように気をつけることを彼女に言い聞かせ、私たちは王都へ戻ることにした。
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