第12話 指先一つでダウンさ
※ 今回はプロ編124話ととほぼ同時系列です。
×××
接戦を制した後の、わずかながら安息を得られるはずの時間帯。
その日の試合の経過を振り返る上でも、重要な記者会見。
日本代表の監督島野は、口から白いものを吐きながら、もうなんともいえないやり取りをしていた。
おそらくこの会見は、彼の記憶には残らないであろう。
キューバ戦の最後の打者。
そのバットを叩き折って試合終了という、やはり超人っぷりを見せ付けた上杉であったが、アクシデントの影響は大きかった。
ボールを捕球するのにグラブを使っていたから仕方がないのだが、飛んできた折れたバットを右手でキャッチ。
バットを手で受け止めた時、上杉は負傷した。
たいした負傷ではない。砕けたバットのささくれが、受け止めた瞬間に皮膚に突き刺さったのだ。
そう、たいした負傷ではない。選手生命の危機などではない。
実際にその後、ファーストへボールを投げていることからも明らかである。
しかしピッチングが出来るかどうかというと、話は別だ。
中指と薬指に、ぷっくらと血が出るほどの怪我。
投げられるか投げられないかで言うと、実は投げられる。
ただそれがピッチングと言えるレベルならばいうと、無理がある。
たとえ痛みが我慢できるほどでも、指先に違和感があったらピッチャーは投げられない。投げるべきではない。
もしも投げられたとしても、指先を庇う変なピッチングにしかならなりからだ。
そんな事情を聞かされて、島野は絶望的な顔をする。
「うむ、限界まで鍛えたつもりだったが、まだ足らなかったか」
グラブのように分厚い上杉の右手の皮膚であったが、ここから普通に投げられるのは、さすがに無理であろう。
決勝でも投げられるように、情報統制はしてある。
上杉本人は、折れたバットを受け止めた衝撃のダメージはないと言っているし、検査をしても異常はなかった。
本当に、指先のちょっとした怪我だけが、問題なのである。
それも中指と薬指で、あとは全く問題がない。
頑丈であるがゆえに余計に、この事態が辛いのである。
ピッチャーはその投げる手には、包帯や絆創膏さえ貼ってはいけないのだ。
血が流れていれば、ロージンバックで無理矢理血を止めるしかない、
見た感じでは中指と薬指から血が流れていたが、木片自体はすぐに取り除けた模様。
一応は強い衝撃があったので、右手は今日は冷やす。
上杉にはコンディションを整える程度の運動をして、あとはキャッチボールをしてもらう。
指先を引っ掛けなくても、この程度なら大丈夫であろう。
ちなみにここでのキャッチボールで、握りを変えて投げたことが、後に新たな変化球を身につけることにつながるあたり、上杉は持っている人間である。
そんな上杉の状態を確認する前、決勝の先発はおろかリリーフも無理だと知って、日本代表の首脳陣は考える。
誰を先発にしていくか、どう継投していくか。
「別に投げられんことはないと思うんですが」
病院から帰ってきた上杉は、そんなことをケロリとした顔で言う。
「折れたわけでもなくて、ちょっと指切っただけだろ? 上杉さんなら投げられると思うけどな」
骨折したままホームランを打っていた大介がそう言うが、さすがにそれは無茶である。
いや、上杉は本当に投げられると思っているのだろう。
それに大介は……とりあえず二日で骨折が治る人間は黙っていて欲しい。
首脳陣は頭を悩ませた末、結論を出した。
「というわけでナオえもん、先発頼めるか? 100球以内で完封してくれたらなお嬉しいんやけど」
「誰がナオえもんですか」
さすがに呆れる直史である。
上杉負傷の直後から、その可能性は考えていた直史である。
さすがに100球以内の完封というのは無理だろうが、おそらく今、日本の投手陣の中で、一番動揺していないのが自分である。
と言うか、動揺していないのは、直史と大介だけなのであるが。
樋口でさえも上杉なしというのは、想定外の事態である。
六回か、七回までを無失点でというのなら、普通に考えていた直史である。
そこから上杉にリレーすれば、完封リレーは出来ていたと思う。パーフェクトリレーにさえなっていた気がする。
ただこの日本代表は、上杉を精神的な支柱にしすぎていた。
ノーアウト満塁からでも、三者連続三振を取ってしまうのが上杉。
そんな正しくバグキャラのような上杉が、よりにもよって決勝戦で使えない。
今さらであるが二点差あったのだから、峠などを送っても良かったのだ。
だが確実を期し、そして30球以内には抑えるだろうという期待があったため、上杉を使ってしまった。
それでも判断としては間違っていなかったはずなのだ。
強いて原因と言うか、犯人を挙げるとしたら、バットを粉砕するようなボールを投げてしまう上杉が悪い。いや、自業自得じゃないのだが。
とりあえず確かなのは、決勝の先発は直史だということだ。
「壮行試合も100球以内に収めること出来たし、お前なら100球以内で完封出来るやろ」
「それは対戦相手のデータをちゃんと調べた上で、体調もあの試合をクライマックスに持っていったから出来ただけで、今から調整しても難しいんですけどね」
つまりオーストラリア戦の五回パーフェクトは、本当の意味での本気ではなかったということになる。
化け物め。
「パーフェクトとかならともかく、完封なら狙っていきますけど、少しは点を取られるけど完投と、完封だけど九回まではもたないの、どちらがいいですか?」
「お前、そんな調整出来るん?」
「点を取られないピッチングをするなら、球数はそれなりに必要ですから」
これが125球以内での完封なら、もう少し楽かなと思う直史である。
「それは……こちらが点を取ってからなら、リードしてる範囲内で、点を取られても大丈夫やろうけど」
なるほど、無難なところである。
とりあえず島野の言葉で、方針は決まった。
あとは準備を万端にするだけである。
「アメリカのデータと、その分析をしたものをください。樋口と一緒に考えます」
「お前ら二人でええんか? あと、メキシコが決勝に来る可能性もあるんやで?」
「いや、もちろん監督からも聞かないと無理ですけどね。メキシコについては、決勝の相手が決まってからでも充分でしょうし」」
パソコンとモニターが複数用意され、呼び出した樋口と共に、アメリカチームの分析が始まる。
翌日のグラウンドには、上杉は元気な姿を見せた。
怪我は大丈夫なのかと気にかけられはしたが、傷の部分を化粧品でカムフラージュしたが、それで騙せる程度のものだ。
レントゲンやCTなどを撮ったが、悪いところは見つからない。
ただ折れたバットをキャッチしてので、その時は右手が痺れていたことだけは間違いない。
あまり大丈夫とばかり言っていると、かえって嘘っぽくなる。
なので少しは痛かったが、キャチボールも出来る程度の具合であると、他の選手にははっきりと見せる。
マスコミがどう騒ごうと、上杉がその元気な姿を見せているなら、なんの問題もない。
キャッチボールはすこし遠投もしたが、全くもって問題はない。
上杉自身も平気だと言うし、島野もそれを信じたくなってしまう。
だが上杉は日本球界の宝である。
ごくわずかな瑕疵であっても、おろそかにすることは出来ない。
「まあそんなわけで、念には念を入れて、上杉はクローザーとして使う予定やからな。それまで他のピッチャーでつないでいくわけやけど、佐藤、五回までを目安に先発や」
もちろん直史も島野も、あくまでこれは味方向けの方便であって、上杉は投げられないし、投げさせるつもりもないと分かっている。
選手の中で事態を正しく知らされているのは、直史と樋口のバッテリー。
そして直史が教えたのは、大介と織田である。
大介はともかく織田にも教えたのは、とにかく決勝戦においては、先取点を二点以上取って欲しかったからだ。
織田が出塁して大介にホームランを打ってもらうというのが、一番理想的な形である。
リードした状態であれば、失点はするかもしれないが、確実に完投するピッチングを組み立てるのは楽になる。
狙って完封などをすれば、その分三振を奪う必要や、高めでストレートを振らせたりもする。
そんなピッチングはいくら丁寧なものであっても、球数制限がある以上、長打を打たれる可能性は消しきれない。
直史と樋口は、軽く体を動かした後は、アメリカチームの分析に戻る。
それなりにメジャー経験もある選手も多いが、3Aで燻っている選手もいある。
それらの情報はしっかりと、現地のスタッフからも得ていく。
そして準決勝の第二試合目はアメリカとメキシコ。
バッターとしてはメジャートップレベルの選手も集めたメキシコであったが、ピッチャーの質で差があった。
無難なスコアで決勝進出を果たすのであるが、その試合はリアルタイムで日本選手団も視聴する。
粗いプレイが目立つが、それにもましてパワーとスピードである。
平均的な球速が、日本に比べると圧倒的に速い。
だがその分、変化球への対応は未熟に思える。
メジャーで通用するバッターの第一条件は、スピードボールへの対処である。
最近はかムービングボールの存在から、フライボール革命が起こった。
そしてそれをまた封じるために、ピッチャーはブレーキの利いたボールを必要とし、危険なはずの高めにストレートを外す。
ストライクゾーンはかつては明確に外に広かったが、今ではぎりぎりのところでストライクになることが多い。
まずは審判の傾向を見る。
選手対策はそれからだ。
外角の、特に低めを台形に取るタイプの審判だ。
割とはっきりしていして、直史は得意なタイプである。
ただ問題なのは、アメリカ人であるということだ。
サッカーのワールドカップなどは、その試合の対戦国の審判が、同じ国籍であることなどはありえない。
第三国が必ず審判をするのだ。
まあその第三国の審判を買収するような事態もあるが。
舞台がアメリカであるのだから、アメリカ人の審判を手配するのは簡単なのだ。
それに実際のところ、MLBの審判を使っているので、それほどひどい判定にはならない。
現在ではMLBの試合の場合、機械も使ってそのストライクが妥当であったかどうかを確認していて、おかしな判定はすぐに叩かれることになる。
WBCもその基準は同じなので、明らかにおかしなジャッジは出来ないとは思う。
メキシコに勝った後、再び傾向と対策を話し合うわけだが、そこに待っていたデータがやってきた。
アメリカ代表の中でも、情報が用意し切れなかった選手のデータである。
なんでそんなものが、どうやって手に入れたのかというと、そこは蛇の道は蛇である。
元々MLBに関係していて、今でもその情報には詳しい人間から、それをもらっただけである。
これは無料だった。
タダほど高いものはないという格言があるが、彼女にとってもWBCにおいては、日本が勝ってくれた方がありがたいらしい。
なのでこのデータを手に入れてくれたのだが。
「あの人か。別に日本代表の味方っていうわけでもないんだよな?」
「あちらにも利益があることらしいから、気にしなくてもいい」
「そのデータが偽物である可能性は?」
「それを今から確認するんだろう」
もちろん偽物なはずもない。
深夜になる前には、しっかりと全選手のデータが樋口の頭の中には入っていた。
しかし3A時代だけではなく、大学リーグの時代も集めているとは、さすがはMLBと言うべきか。
これは逆に、こちらの情報も相手には筒抜けになっているかもしれない。
(いや、ないか)
直史は断言出来る。
MLBの各球団であれば、確かにそれぐらいのことはやってくる。
だがWBCがそうやって、日本の試合をこの大会以前まで遡って、データ化しているとは考えづらい。
MLBはなんでもデータ化しつつあるのに、WBCにおいてはそのデータ収集も分析も、しっかりとしたものであるとは思えない。
日本を甘く見ていると言うのもあるが、そもそもMLBという組織はともかく、球団の方は関心があまりないのだ。
WBCにおける観客動員や収益は、確かに莫大なものであるだろう。
だがMLBのシーズンに与えるリスクを考えれば、各選手が抱えるべきものではないという判断なのだ。
そもそも収益の分配からして、MLBの魂胆が見て取れる。
WBCでの怪我における補償などもしっかりとしていないため、球団として選手を出したくないのは当たり前なのだ。
だがそれほど球団の収益に直結しない選手なら出せる。
なんともアメリカらしい経済原理であるが、MLBの収益の分配がもっと公平になれば、いずれはサッカーのワールドカップのように、大会も優先して開催されることが起こるかもしれない。
そのためにはここで、はっきりとアメリカを叩きのめして、日本に優勝して欲しいのだろう。
それでもこれまでは、アメリカの情報をわざわざ出そうとはしなかった。
上杉がいれば、勝てると確信していたからだろう。
しかし直史一人では、まだ不安がある。
直史はデータがないと、万全のスペックを発揮出来ないピッチャーだからだ。
「色々と考えているもんなんだな」
樋口は呆れているが、セイバーはおそらくもっと、ずっと大きなスケールで何かを生み出そうとしている。
ただ贅沢に生きるだけなら、既に人生100回分ほどの財産を持っているだろう人間。
それが単に富を増やすだけではなく、手段として富を使うというのは、その果てに何があるのかを想像すれば楽しくも恐ろしい。
「レックスか……」
セイバーが言っていた、影響力を持っている日本の球団。
樋口としては在京球団に絞っている。
その中でもそんな動きがあるのであれば、レックスかスターズに行きたいかなと思う。
あるいは埼玉へ行って、高校時代のバッテリーの再現でもいい。
ただ埼玉はそこそこ選手の入れ替わりが激しいのだが。
レックスはBクラスの常連で、明らかにピッチャーを活かしきれていない。
スターズは打撃力が不足していて、次の正捕手の育成が課題となっている。
上杉とまたバッテリーを組むというのも悪くはない。
高校時代の五ヶ月弱では、まだ上杉のピッチングを活かしきれなかった。
「まあプロのどこに行こうと構わないけど、とりあえず目の前の仕事だな」
直史としてはセイバーが、既に武史を囲い込んでいるのが気になる。
個人的には直史も、セの中では大介のいるライガースと並んで、レックスは応援している。
ただライガースはレックスと違って、応援をしなくても強い。
セイバーの野望は巨大で、常人の理解出来るものではないだろう。
そう考えている直史は、別に理解しようとも思っていないのであった。
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