第2話 このストレートを見よ

 日本には105マイルのストレートを投げる、化け物がいるという。

 機械が壊れていたんだろう、と言うしかない。あるいは計測が狂っていたか。

 そう思うのが、ごく一般的な野球選手であろう。


 実際はもう107マイルを投げているのだが、世界で最も速いボールを投げるピッチャーが、アメリカ以外にいるとは考えられない、ごく自然な傲慢。

 もちろんキューバ出身のNPB選手で、今回の大会のために呼ばれたピッチャーやバッターは、それが本当だと証言する。

 だが人間の固定観念は恐ろしい。

 自分がいる場所が、一番高い場所だと思えば、上を見ることがなくなる。

 そもそもプロスポーツ選手の中には、簡単な計算も出来ないバカもいるため、そういった心理的な袋小路から脱出するのは難しい。


 MLBの3Aに所属し、今季こそはシーズン中にメジャー昇格を目指している先頭打者。

 速球派の投手であることは間違いないだろうが、日本人ピッチャーは技巧には秀でていても、ストレートの威力はイマイチというのが彼の認識である。

 初球から狙っていって、日本のエースの出鼻を挫いてやる。




(とまあそういうことを考えているのでしょう)

 日本代表の先発ピッチャー上杉の球を捕るのは、北海道の変態紳士山下。

 性癖ではなく主義だと主張しても理解されない、悲しい男である。

 野球の腕前がなかったら、ただの変態として処理されていただろう。

(というわけでまずはここに一球)

 上杉が頷いて、ゆったりとしたフォームからストレートを投げた。


 上杉のストレートは空気を切り裂く。

 冗談ではなく多くのバッターが、そう認識している。

 インハイのゾーンに入ったストレートに、バッターは尻餅をついた。

「ス……ボッ!」

 いつもの習慣でストライクと宣告しようとし、そして慌てて国際基準を思い出す審判。


 日本の野球ならこれでストライクである。

 だが世界基準ではボールと取る審判も多いであろうし、ぶっちゃけ上杉のボールの判定を、慣れていないジャッジが確実に出来るとは思えない。

 開催国の日本が審判を出してはいるが、だからといって有利にはならない。フェアであることを心がける。

 なかなかに厳しいが、このゾーンの取り方に慣れていってもらうしかない。


 ただ審判がどう考えているかはともかく、キューバの選手はもう踏み込むことは出来なかった。

 さすがに捕球の位置から、ゾーン内と判断されてもおかしくないコースを、自分が大袈裟に避けてしまったのは分かる。

 そもそも当たるようなコースでは全くなかったのだ。

 しかし球速表示を見て驚く。

 105マイル。

 親切にもキロ表示だけではなく、マイル表示もしている。


 105マイル。

 あんなボールが当たったら死ぬ。


(当てませんよ)

 山下はその後は、おざなりに外角にストレートを投げてもらった。

 アウトローの全く同じコースに三球。

 振ることも出来ずに見逃し三振。

 球速が102マイルを下回ることは一度もなかった。




 化け物がいる。

 それがキューバ選手団に共通した認識である。

「あれは、あれはなんだ? ドーピングでもしてるんじゃないのか!?」

「ウエスギはいつもあんなものだ。だからこの大会もシライシと共に、常に検査を義務付けられている」

 既に上杉を体験しているNPB経験者は、諦めたようにそう言う。


 前提が崩れた。

 日本の105マイル投手というのは、誇大に宣伝されたものだという前提である。

 プロ野球のある日本で、そんなことがあるわけはなかろうに。

 全球場一致の計測システムは、日本では厳密にメンテナンスされている。


「コーチ、今からでも作戦を変えるべきだ。上杉は日本の他のピッチャーに比べると、少し守備は下手だ」

 なお日本基準の下手は、MLBの平均よりも上である。あそこは上手い選手と下手な選手の差が大きい。

「まあ、まだ始まったばかりだ。あんな調子で飛ばしていては、最後まではもたんだろう」

 100マイルオーバーを普通に投げられる上杉の恐ろしさを、NPB経験者以外のキューバ人は分かっていない。


 インロー、アウトロー、アウトロー。

 二番打者は三球三振である。

 最後のボールは、外に少し外れていたかもしれないが、一番見極めやすい遠いボールを、完全に見誤っていた。

 むしろキャッチャーが審判を試していた感じさえする。

 ボールではなく、捕球したミットを見なければ、コールが出来ないスピードボール。

 いや、いくらなんでもそれはありえないと、言いたいのだが確信出来ない。


 そして三番バッターもまた、仰け反らしておいてアウトローアウトロー。

 今度は初球がストライクだったので、三球で終わりだ。

 たったの10球で三振三つ。

 相手チームを絶望させ、日本応援団を熱狂させる。

 豪快さを感じさせる笑みを浮かべて、上杉は日本応援団に手を振る。

 上杉の支配力を、世界よ知れ。




「何人か打たせて取った後、そこから全部三球三振で片付ければ、80球以内で終わるんじゃないか?」

「無茶言うな」

 ベンチの中で直史と樋口がそんな会話をしているが、監督の島野はほっと一息である。

 まさかとは思うが、上杉のスピードにもついてくるバッターが、いるかと思っていたからだ。

 キューバは上杉が登場するまで、人類史上最高速のピッチャーを輩出したスポーツ大国の野球大国であるため、その可能性もわずかに考えていたのだ。

「いいなあ。ここまで誰もバットに当ててないぞ。つーか振ることさえ出来ずに見逃し三振って」

 直史も空振りは取るし、見逃し三振を取ることもある。

 だがまさか、緩急を使わずにストレートだけで抑えてしまうとは。


 反則だろ、と直史は嘆いた。

 お前の存在だって世の中レベルでは反則だと言われそうであるが、直史は骨格や筋肉量から考えて、160kmはまず投げられないだろうと言われている。

 もしもウエイトなどをしてこれ以上の球速を求めても、それ以上に失うものが大きい。

 投球術に限界はない。

 だが肉体のポテンシャルには限界がある。


「さて、じゃあ一点取ってくるか」

 戻ってきた守備陣の中から、織田がまずは打席に向かう。

 千葉から遠征してきたファンの黄色い声が上がる。

「信様~」

「若様打って~」

 かなりイケメンな織田には、当然のように女性ファンが多い。

 千葉の女性ファンを開拓したという点でも、織田のチームへの貢献度は高い。


 対するキューバもまた、エースを投入する。

 ガルシア・ステベンソンは現在3Aにいる、弱冠21歳のピッチャーである。

 その特徴としてはとにかく球速が速く、104マイルの球を投げるトッププロスペクトとして、MLBの上位球団からも注目を浴びている。

 ただその投球は一本調子で、球速だけで相手を抑えようというパワーピッチャーだ。

 さすがに本当にストレートだけではなく、手元で動くツーシームを見せ球に、割と動くカットボールを使う。


 稲妻のような速さと言われているが、はたしてどの程度のものか。

 打席に立った織田は、挑戦的な笑みを浮かべる。




 MLBに昇格出来ないことの怒りは、正当に向けるべきだ。

 ガルシアはちゃんとそれを理解しており、WBCなどの優勝には興味がなく、ひたすら己のアピールをしていくと決めていた。

 最初から飛ばしていくつもりのその視線の先には、アジア系によくいるタイプの、細くて器用そうなバッターが立っていた。


 一番バッターは、塁に出るのが一番。

 それはさすがにメジャーでもどこでも変わらない。

 相手ピッチャーのその日の調子を見るためにも、いい番バッターには優れた戦略性を持った頭脳が求められる。

(関係ねえ。相手がどんなだろうと、俺のスピードボールで三振だ)

 その初球は予想通りすぎるストレート。

(すみません)

 軽く合わせた織田のバットは、ピッチャー返しで打球をセンター前に運んだ。


 球速表示は102マイルと出ているが、日本版の表示で165kmほどは出ているぐらいである。

 武史よりも速いが、上杉よりはずっと遅い。

「お前なあ」

 初球打ちの織田に対して、一塁コーチャーが呆れた顔を見せる。

「すみません。けど投球練習と同じ一本調子でしたからね。打てる時に打っておかないと」

 確かに相手のピッチャーを見定めるのも大事だが、塁に出るほうを優先するか。


 プロテクターを受け取りにきた者に伝える。

「白石なら簡単に打てるって言って」

 織田はそう言ってから、一塁ベース上でぐいぐいと屈伸を始めた。




 165kmがいくら単調でも、それをいきなりヒットにするセンス。

 忘れた者もいるかもしれないが、織田は高校時代、唯一上杉から二本のヒットを打った男である。

「さて、いきなり打たれた心境はどうかな」

 マウンドの上で少し俯き加減になりつつ、ガルシアは目を見開いて織田を見ている。

「いや、こえーよ」

 お前にとどめをさしてくれる、絶対的なバッターがいるぞ。


 日本チームのベンチとしては、普通ならここで着実に先取点を奪っていくべきだと考える。

 だがせっかく上杉が圧倒した支配力の流れが、そんなちまちましたことをしていては、かえってあちらに流れがいってしまう。

 サインを出した島野は、別にバッターを信じているわけではない。

 だが、次の打者である大介のことは信じている。


 打っていいのか。

 埼玉ジャガースの咲坂は、トリプルスリーを達成したこともある万能選手だ。

 埼玉ではセカンドを守っているが、実はショートもやっていたことがある。

 情けないショートならば代わろうかとも考えていたが、セ・リーグゴールデングラブ賞を取った大介相手には、そういった侮辱するようなことは言わない。


 打席に入って、織田と違って一球目はちゃんと見る。

 150km台後半のカットボールが、キレキレに決まった。

(ストレートを打ちにいったわけか)

 確かに織田のセンスは素晴らしい。チーム事情がもっと良ければ、首位打者を狙っていけるほどだ。

 ただ後輩に抜かれていっては、咲坂としても立場がない。


 続いて投げ込まれたストレートは、164kmなどと表示された。

 織田が打った速度だが、よくもこれに初球から合わせたものだ。

 上杉からヒットを打てる、数少ないバッターの一人。

 もっともその織田も、壮行試合では完全に封じられたわけだが。

(ヒットは難しいが、最低限の役割を果たさないとな)

 三球目は打たせて取るつもりのツーシームだったろう。

 しかし咲坂はこれを、なんとか右に引っ張った。

 織田が進塁し、これでワンナウト二塁。




 来た。

 キタキタキタキタキタキタキターッ!

 ダースベイダーの登場のテーマ曲に、キューバチームも嫌な顔をする。

 長いバットを持って左打席に入る、日本のトリプルクラウン。

 もっともMLBでは、一応トリプルクラウンの意味はあるが、それよりはホームラン王などの方がはっきりと分かりやすい。あとは3-30-30などだ。


 懐かしいな、と大介は感じる。

 高校時代の打席ではブラバンが特別演奏をしてくれたものだが、プロ入りして以降はあまりそういうことがない。

 だが、トランペットがいくつか揃って演奏されるのは、ワールドカップ時代の大介に演奏されていたイッパツマンである。

 これは元々プロでも、それなりに使われている曲なのだが。


 チアで踊っていたツインズが、今度は楽器を吹いている。

 関東に遠征したら良く見かける、高校時代から大介ファンの、応援おじさんと一緒だ。

(まあストレートであっさり勝負してくれたら、それで終わらせるけどな)

 確かに速いが、体感的な速さで言えば、武史はおろか直史の方が上だ。


 マウンド上のガルシアとしては、アウトは取ったが機嫌は悪い。

 ここまで一つも、空振りが取れていないからだ。

 そしてMLBならホームランバッターを置く三番バッターは、見て分かるチビだ。

 小さくでも筋肉がモリモリと見えるならばともかく、大介は引き締まったタイプの筋肉の持ち主だ。

 下手に見せ筋をつけると、むしろ動きにキレはなくなるのだが。


 三振を取る。

 ただそう思って、インハイへと投げ込んだ。

 ヒットは打ちやすいと言われる内角であるが、ガルシアぐらいのスピードがあれば、本当なら目がボールを追えないのだ。

 ただ大介は軽く見送った。

 これなら打てるな、と自然と思う。


 スピードボールを主体とするピッチャーは、その渾身のストレートを狙った方がいい。

 変化球であると、変化球と見せかけたストレートもあるわけであるが、速い球はその速度で変化球にはならないからだ。

 言っていることは間違いではないのだが、それが簡単に出来るのは大介ぐらいだ。


 相手のエースの最も自信のある球を打つ。

 これも意味はあることだ。特にストレートに自信があるピッチャーは、真っ向勝負で打たれると弱い。

 21歳だというのだから、大介と同年になる。

(素質はあるけど、これがメジャーのレベルか)

 外にゾーンの球を投げ込んできたが、まあ確かに速いことは速い。

 だが別に、人間の限界を超えているとは思わない。


 追い込んでからの内角。

 渾身のストレートだな、と大介にははっきりと分かった。

 体を早めに開いて、腕を残す。

 そしてそこから腰を回転させれば、打球は見事にライナー性の打球になる。


 少し上げすぎたな、とは思ったものの、スタンド中段に入るホームラン。

 途中で失速しない軌道の、文句の付けようがないホームラン。

 まずは二点を選手の日本代表である。




 ガルシアの欠点は、安定感だ。

 立ち上がりが悪かったりもするし、フォアボールの連発で試合を壊すことがある。

 そしてこの試合も典型的なそのパターンであった。


 四番からの三連続フォアボールで、満塁となる。

 ここから下位打線ではあるが、日本の場合は下位打線も打力は揃っている。

 キューバ代表監督は決断する。

 思えば初回で崩れたことで、球数はそれほど多くなっていない。

 残りの試合に勝てば、二位で通過かあるいは日本の他との対戦も考えると、一位通過の可能性もなくはない。


 ピッチャー交代だ。

 単に球が速いだけの、21歳のエースはマウンドから降りた。

 ちなみに日本の22歳のエースは、球が速いだけではない。


 第二先発ともなったピッチャーは、このどうしようもない状態から、二点を追加で取られたが、なんとかそこまでに抑える。

 初回が終わった時点で4-0と、既に圧勝ムード。

 もちろんキューバとしては、まだ慌てるような状況ではない。

 上杉のピッチングいつまでも続くはずはないし、他のピッチャーに代わればキューバの強力打線が火を吹く。


 もちろんNPB経験者はそんなに甘くは考えない。

 上杉が別格の日本のエースであることは間違いないが、他のピッチャーだってコンビネーションに長けた技巧派ピッチャーが揃っている。

 それに、追加で選ばれたアマチュアのピッチャー。

 アマチュアだからと言って、可能とは思えないピッチングの記録を残している。

 完投すればほぼ半分はノーヒットノーラン。

 上杉がパワーピッチャーだとしたら、間違いなくテクニックのピッチャーだ。


 この試合は負けだろう。

 問題はどれだけピッチャーの消耗を減らし、次の試合を迎えるかだ。

 しかし上杉から全く打てないのもまずい。

 強打のキューバという印象がなければ、選手全体の士気に関わる。


 だが、上杉は下手な手加減などもちろんしない。

 手加減と言うか、やや抑えて投げさせるのが、キャッチャーの山下の仕事であった。


×××


 ※ 100マイルはおおよそ161キロである。

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