第3話 天変
『ん……』
目が、覚めた。しかしまだ、頭はぼんやりとしている。
後頭部が、背中が、尻が、ふくらはぎの裏側が、ひんやりとする。どうやら俺は今、冷たい床に仰向けに倒れているようだ。
目の前が真っ暗だ。おかしいな。半分だけだが、目は開けているはずなのに。……いや待て。なんか違う。真っ暗だけど、真っ暗じゃない。なんか、ヒビのような線が入ってるな……。
……天井? ああなんだ。これは真っ暗なんじゃなくて、天井のタイルの黒色だったのか。よかった、どうやら俺の目はちゃんと機能していたらしい。
ん? 天井? ……てことは、ここは室内か? 変だぞ。俺は確か、外に出ていたはず。……家に帰ってたっけ? てことはよっぽど疲れてたんだな。自分の部屋じゃないところで寝るなんて。俺の部屋の天井は真っ白だからな。えーと、じゃあここはどの部屋だ? 俺の家で天井が黒い部屋といえば____
……ちょっと待て。無いぞ。俺の家に、天井が黒い部屋なんて無い。寝ぼけて思い出せないだけか? いや、違う。生まれて16年も過ごして来た家のことを、寝ぼけた程度で忘れるはずがない。だいたいタイルなんて小洒落たモンを貼っつけた部屋なんて、俺の家にあるわけない! じゃあここは何処だ!?
俺は意識を完全に取り戻し、慌てて身体を起こす。が、そうして目に映った光景に、また意識が固まりかけた。
今俺がいるのは、とにかく真っ黒な部屋だった。天井だけではない。壁、床、扉。その全てが艶やかな黒色だ。
そこまで広くはない。せいぜい8畳から10畳くらいだろう。壁には等間隔に照明が設置されているがその光は弱く、部屋は薄暗かった。窓は無い。それどころか、何も無い。家具とかそういう話ではなく、人が日常的に生活しているような感じがまるでしなかった。
『な、んだよここは……』
俺が立ち上がろうとした、その瞬間。
『ぐっ!』
激しい頭痛がした。アイスキャンディーを慌てて食べた後にくるヤツの痛みを、3倍にしたものだ。俺は足をふらつかせ、再び地面にへたり込む。
『う……ぐ』
頭だけじゃない、全身が痛え。耳がこもる。目がチカチカする。何があった? いったいどうしたんだ俺は……。
『起きたな』
突如、背後から声がした。女性の声だ。俺は驚いて振り向いた。
『すまん。びっくりさせたか』
『は!?』
俺は、再度驚いてしまう。
そこにいたのはやはり女性だった。
年齢は30代あたりか。浅黒い肌をしたかなり大柄な女性だ。椅子に座ってはいるが、おそらく身長は俺より高い。この部屋に敷き詰められたタイルのような、艶やかな黒髪。それをいわゆるポニーテール状にまとめている。がっしりとした肩。引き締まり、血管の浮き出た太い腕。細くは無いが、ギラリとした鋭い目つき。その瞳は真っ白だった。
服装は実にシンプル。タイトなデニムに、革のブーツ。黒のタンクトップの上に、薄手かつ半袖の白い上着を着ている。
だがここで重要なのはそんなことじゃない。俺が驚いている理由は、この人は俺のすぐ後ろにいたのにも関わらず、全く気配を感じさせなかったからだ。
何より、雰囲気が異常だ。この人はただ座っているだけなのに、俺は今、脊髄を鷲掴みされているような感覚に襲われている。気がつけば全身汗だくになり、シャツの下に着ているインナーが背中にぴっちりとくっついた。鼓動が早まる。呼吸が苦しい。脚の震えが止まらねえ。
『そんなに怯えてくれるな。別に何もしやしない。ただ話がしたいだけだ』
そう言うとその女性は煙管を懐にしまい、椅子から立ち上がった。やはりデカい。身長は180以上ありそうだ。
『私の名前は、サザデー。君の名を聞かせてもらえないか?』
サザデー……そう名乗る女性は、表情を変えないまま話しかけてきた。彼女の言ったことは聞こえていた。頭にもちゃんと届いている。しかし、俺は声が出せなかった。
『あ、え……』
『……おい。まさかその耳はただのアクセサリーだっていうんじゃないだろうな。言葉も分かるだろ? 君が、起きた直後に1人でぶつぶつと喋っていた時のと同じ言葉のはずだ。いいか、もう1度聞く。君の名前はなんだ?』
僅かながらも彼女の凄みが増したのを感じ取った俺は、必死に声を振り絞る。
『ゆ、雄弥。雄弥、です……っ!』
『ユウヤ、か……。なるほど、覚えやすくていい名前だ』
彼女は俺に歩み寄ると、俺と目線を合わせるようにしゃがみこんだ。2人の距離は20センチ未満。その視線を至近距離から浴びせられた俺は、いよいよ意識が飛びそうになる。
『ユウヤ君。君のその頭痛や目眩、痙攣といった症状は、次元の狭間を生身で越えたことによる副作用だ。だが心配はいらない。じきに落ち着く』
いや、身体が震えているのはアンタのせいだよ! なぜかは分かんないけど、アンタが怖いんだよ! だから頼むから離れてくれ! 窒息しそうなんだ! だいたい次元の狭間を越えたくらいで、こんなふうになるわけないだろ!? そう、次元の____
『……は?』
素っ頓狂な声が出た。2秒ほど、考えるのをやめた。そしてたった今自分が心の中で叫んだことを、改めて思い返してみる。
……じげん? じげんの……なに? 狭間? 時限の狭間? なんだそりゃ。ただの休み時間だろそれ。なに変なこと言ってんだ俺は。……違うよ、言ったの俺じゃないよ。目の前にいるこの人だよ。さっきから俺の顔をまばたきもしないで睨み付けてくる、この女の人が言ったんだよ!
『……あの〜、今、え〜っと……』
『すまん、説明の順序を間違えたな』
俺が言葉に詰まっていると、再び女性が口を開いた。
『先に言っておこう、ユウヤ君。私はまだるっこしいことが嫌いだ。だから、事実のみを単刀直入に話させてもらう』
そして彼女はようやく1回まばたきをし、話を続ける。
『ここは、君が生まれ育ってきた世界とは別の世界。君はこの世界の魔術によって次元を飛び越え、ここに転移してきたのだ』
…………な〜にを言ってんのさ、この人…………?
俺は、固まった。比喩ではなく、本当に開いた口が塞がらなかった。
そのまま1分ほどが経過。いつのまにか身体の震えはぴたりと止んでいる。
……まじゅつ? 魔術か? 魔術ってあれか? シンデレラとかの? 次元? 別の世界? 転移? ……はい?
頭の中はごちゃごちゃだった。なんなんだこの人。初対面の相手に、いくらなんでも突拍子がなさすぎる。呆れるなんてもんじゃないぞ。
俺は散らかった頭を落ち着かせ、1度冷静になる。そしてそこから10秒程考えたのち、この状況とこれまでの会話から、ひとつの結論を導き出した。
……さてはこの人、頭おかしいタイプの宗教団体の人間か……!?
そうだ、それしか考えられない。この気味の悪い部屋もそれなら説明がつく。ここはその団体の本部か何かだ! 最初にこの人に感じていた恐怖のような感覚は、イカレた奴を目の前にしたことで防衛本能的なアレが働いたせいだろう……! この人が言う魔術だの次元だの転移だのって話は、俺のことを誘拐してやった、という意味で、さっきまでしていた頭痛は、頭を殴られて気絶させられたせいに違いない!
まずいぞ……! こういう奴らを下手に刺激するとなにをされるか分からない……! なんで俺が誘拐されたのかは知らないが、逆らうのはダメだ! 話だけでも合わせておこう……!
自分なりに把握したこの状況に、俺は再び冷や汗をかき始める。それでも、さっきよりは多少冷静だ。発する言葉に細心の注意を払いつつ、俺は口を開き始める。
『べ、別の世界ですか……! なぁ〜るほど! 確かに元いた世界よりも、空気が美味しい気がしますよ! そ、それに魔術でしたっけ……? よかったんですか〜? 俺なんかにそんな凄い力使っちゃって……! い、いや〜それにしても、こんな貴重な体験をさせてもらえるなんて、ホント俺って幸せ者だなぁ〜! あははははは……!』
冷静って、なんだっけ。
____黒ずくめの部屋の中に、深い沈黙が走る。俺は笑った顔のまま固まり、動けないでいた。
……やっちゃった、のか? いくらなんでも大袈裟すぎたか……?
汗が止まらない。俺はおそるおそる、目の前にいる女性の顔に目を向ける。彼女は依然、表情を全く変えていなかった。
おい、なんだよそれ! 逆に怖えよ! 頼むから、早くなんか言ってくれよ!
俺が焦りまくっていると、やっと彼女は口を動かした。
『……まぁ、想定内さ。何もあんな言葉だけで信じてもらえるとは思っていない』
げっ! ば、バレてる! 俺の心が読まれてる!
『し、信じますよ! 信じていますとも! 疑いの気持ちなんてこれっぽっちも____』
俺が喋り終わらないうちに、突然、彼女は立ち上がった。
『ひいっ!』
俺はいよいよ怒らせたのだと思い、恐怖のあまり変な声をあげてしまう。
しかし彼女は俺に背を向け、部屋の出入り口に向かって歩き出す。そしてその扉を開け、また俺の方を向いて一言。
『ついて来い、ユウヤ・ナモセ君』
* * *
幅の広い螺旋状の石階段。俺は3段先を歩くサザデーについていく形で、そこを
あの真っ黒な部屋を出てからこの階段までの道に、窓の類はひとつも無かった。どうやらここは地下のようだ。
俺は焦っていた。これだけ本格的な施設を持っているとなると、どうやら相当規模の大きい団体らしい。しかもここは地下で、今はそこからさらに下に向かっている。もし最下層に幽閉でもされれば、地上と連絡を取ることは永遠にできなくなる。本当は今すぐにでも逃げ出したい。でも下手に動いたらその場で殺されるかもしれない。俺は前を歩くこの女についていくしかなかった。
そもそもなぜ俺はこんな奴らに拐われたんだ。ここに連れてこられる前……俺は、何をしていたっけ?
必死に記憶を辿るが、全く思い出せない。覚えているのは、20時半くらいに外出したということだけだ。……そういえば家を出る少し前、親父が帰って来ていた。その時親父がつけたテレビでニュースをやっていたな。うろ覚えだが、たしか……ここ2ヶ月で20人以上もの行方不明者がでている……とか言っていた気がする。まさか……こいつらの仕業か?
『あ、あの……』
俺は、前を歩くサザデーに話しかける。彼女は歩いたまま、振り向きもせずに答えた。
『なんだ』
『俺みたいにその……「転移」させた人って、どのくらいいるんすか?』
神経を逆撫でしないよう、慎重に尋ねる。
『この世に異世界の者を転移させたのは君で2人目だ。最初の者は、500年前にやって来た』
……ダメだ。まるで話にならない。くそっ…! せめて誘拐された時のことさえ思い出せば……!
俺が頭を唸らせていると、サザデーが立ち止まった。
『着いたぞ』
そこには、巨大な鉄扉があった。高さ、幅ともに5メートルほどの、正方形の鉄扉だ。そのいかにも厳重な雰囲気を前に、俺の焦りは頂点に達する。この中に閉じ込められたら出られる気がしない。
俺は我慢ができず、階段を昇って逃げようとする。しかしダメだった。すぐさまサザデーに左腕を掴まれしまった。
『気持ちは分かるが、取り敢えず入ってくれ。このままでは話が進まないのでな』
声色こそ穏やかだったが、左腕を握る彼女の握力はとても女性とは思えないものだった。腕がへし折られそうだ。
サザデーは右手で俺の腕を掴んだまま、左手でその鉄扉を押し開けた。厚さも20センチはありそうなその巨大な扉を、彼女は片手だけで開けたのだ。彼女に引っ張られるように、俺は扉をくぐった。
中に入ると、そこには鉄格子の空間____牢屋があった。俺の不安は止まることを知らない。
『俺を……どうする気ですか……!』
『なんもせんと言ってるだろうが。動揺するのも無理ないが、いくらなんでも被害妄想が過ぎるぞ』
サザデーは呆れたと言わんばかりに、俺の左腕を離した。そしてその鉄格子の扉を開け、牢屋の中に入った。
『……それに、ここにはもう住人がいるんでね』
彼女は俺も中に入るよう手招きしてくる。おそるおそるその扉をくぐり、中を見渡す。広い牢屋だ。天井まで10メートル、奥行き20メートルはありそうだ。
そして、気づいた。その牢屋の中央に、何かがある。薄暗くてはっきりとは見えないが、大きな影が確かにあるのだ。大きさは2メートルほどだろうか。
『あれが君に見せたいものだ。来い』
サザデーについて行き、その影に近づく。よく見るとその影から無数の鎖が伸びており、床に繋がっている。いや、影から鎖が伸びているというよりは、鎖でその影を床に拘束しているようだった。
影まであと3メートルのところまで近づく。その時だ。
がちゃり、という音がした。鎖が揺れたのだ。俺は歩みを止めた。
がちゃがちゃと、次第に揺れが激しくなる。よく見てみると、揺れているのは鎖ではなく、影だった。影が蠢いているのだ。
『な、なんだ……!?』
身構える俺をよそに、サザデーはその影の右横側の壁に触れる。そして、そこにある牢屋内の電灯のスイッチを入れた。
一気に部屋中が明るくなる。急な明かりに目が眩み、視界が一瞬白くなる。少ししてからまぶたを開く。そして、目に入ったのは____
『グルゥアァァアアアァアァアアアッ!!!』
全身を何本もの鎖でがんじがらめに拘束された、醜い化け物だった。
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