第2話 呼び声は何処から

 小学3年生の時、体育の授業で鉄棒をやらされた。与えられた課題は逆上がりだ。

 最初こそできる者は少数だったが、当然それは回を重ねるごとに増えていき、いつのまにかクラスメイトのうちの9割以上が逆上がりを習得していた。

 俺は、残った1割未満のうちの1人だった。そりゃあもうとんでもなく悔しかった。体育の先生や9割のクラスメイトが心の中で自分のことを馬鹿にしているかもしれないと考えると、夜も眠れなかったほどにだ。

 それから俺は毎日、放課後に近所の公園の鉄棒で特訓をした。手がマメだらけになり、それが破れて皮膚の下が剥き出しになっても、特訓を続けた。


 練習を始めて2、3週間経った頃。

 ついに俺は成功させた。ぴんと伸ばした腕がひとつの棒を軸に伸びる俺の身体を支える。視界が開けた。先生。友達。青い空。映る視界が先程までとはまるで違った。

 回れた瞬間に本当に涙が出たほど嬉しかった。これでようやく皆と同じ、対等な位置に立てる。そう思った。

 しかしその思いはすぐに打ち砕かれた。俺が逆上がりひとつに手こずっている中、他の人たちはどんどん新しい技を成功させていた。足掛け回りだの前方支持回転だの、よく分からん技を次々とこなしている。先生に逆上がりが出来たことを報告しても、『今更かよ』という表情が返ってきただけだった。


 この時だ。俺が自分の要領の悪さを自覚し始めたのは。俺が1のことに手を焼く隙に、他の人間は30のことを片付けている。

 分かっている。自分が出来損ないだということは、ちゃんと分かっているんだ。


 それでも俺は変に負けず嫌いだった。

 俺から『勝ち』を奪った相手が、悔しがる俺を心の中で嗤っているかもしれない。そんなのは心底耐えられないのだ。何かで誰かに負けた時は、次こそは何としても勝とうとする。体力を削り睡眠を削り、膨大な時間を費やす。どんなことでも惜しまない。しかし結局____俺は、いつも勝つことができないのだ。


『……くそっ』


 白いため息をひとつつく。11月の頭とはいえ、もう夜はすっかり冷え込む時期である。俺は上にパーカー1枚しか着てこなかったことを後悔した。 

 夜の住宅街を、ただ歩く。ボーッとしながら歩いている。基本を下を向き、時々ふと顔を上げる。空は少し曇っていたが、そこに浮かぶ満月はとても綺麗だった。


『……肉まんみたいだ』


 月を見て。下らないことをぼそりと呟く。その時、腹がぐぅと音を立てた。


『……そういや、晩飯食ってなかったなぁ』


 携帯は忘れてきたが、財布は持っている。俺は小腹を満たすため、駅前のコンビニに行くことにした。



* * *



 時刻は21時。駅前は、仕事終わりの人たちで溢れかえっている。俺は人と人の間をすり抜け、駅の入り口のすぐ隣にあるコンビニに着いた。

 店に入る前に財布を開け、残金を確認する。肉まんなら4個は買えそうだ。再び財布をズボンのポケットにしまい、俺は店の自動ドアをくぐろうとした。



 その時、だった。


『…………イ…………』


 かすかだが、声が聞こえた。俺は店の入る寸前で立ち止まり、後ろを振り返る。だがそこはスーツを着た人々の群れが流れるように闊歩しているだけで、特に気になることも無かった。

 気のせいなのか。そう思った瞬間。


『…………ゴ……イ…………』


 再び聞こえてきた。か細くはあるが、頭がキンキンする響きを持つ声。何を言っているかは分からない、だが聞き間違いや気のせいじゃない。確実に、声だ。何かの、誰かの声だ。

 でもおかしい。俺以外の人たちが、誰も気づいている様子がない。視界に入っている者だけでも軽く100人はいそうだが、誰1人としてそれらしい反応を示していないのだ。


『…………ゴ…………』


 まただ。どこか奇妙で、不快な声。黒板を針で引っ掻いた時に出る音のように、気持ちの悪いもの。鳥肌が立ち始める。だが変わらず、俺以外は誰も気にしていない。

 ……そんな馬鹿な。気づかないのか? こんなにはっきり聞こえるのに。


 気がつけば俺はコンビニには入らず、声のする方角に向かっていた。よく分からない。説明はできない。だが確実に、何かおかしなことが起きている。怖くはあるが、それを上回る好奇心。腹の虫の処理は後回しだ。


『…………イ…………』


 歩いている最中、何人もの人とすれ違う。だが依然として、声に気づいた素振りを見せる者はいない。

 どういうことなんだ。……俺だけ? 俺にだけ、聞こえている? そうなのか……!? 


『…………ン…………』


 歩き続けると、少しづつだが声が大きくなっていく。どうやら方向は合っているらしい。ビル街を離れ、古い団地を通る。


『…………メ……イ…………』


 橋を渡り、川沿いを行く。


『…………ゴ……ナ…………』


 団地を抜けて、田んぼ道。


『…………ン……サ…………』



 かれこれ40分ほど歩き、辿り着いたのは竹藪だった。かなり深そうだ。街からかなり遠いところまで来てしまったので、周囲に街灯といった灯りの類もほぼない。暗すぎるせいで竹藪は全体の輪郭しか見えず、それはまるで針山のようだった。

 藪の中は完全な闇。好奇心に流されるがままにここまで来てしまった俺だが、これには流石に戸惑った。しかし__


『…………ゴ……サイ…………』


 不快な声は間違いなくこの竹藪の中から聞こえてくる。はっきり聞こえすぎて吐き気がこみ上げてくるほど、確実に聞こえている。俺しか認識していないらしい声の主が、すぐそこにいるのだ。


『……確かめてやる……!』


 俺は藪に足を踏み入れた。



 冬も近づき、湿度が低くなっている。そのため竹藪の中の地面は乾燥しており、意外にも歩きやすかった。虫もほぼいない。今が夏でなかったのはラッキーだった。でなければ泥濘ぬかるんだ地面に足を捕われ、蚊だのハエだのといった虫の集中攻撃を受けていたに違いない。

 が、いかんせんあまりにも暗すぎる。密集している竹を手で触りながら進んではいるが、5歩ごとにつまずきそうになり、目の前にある竹に気づかずにぶつかる。頼りになるのは、奥から聞こえる声だけ。携帯がありゃ、明かりを点けられたのに。

 それでも歩くことはやめない。ナメクジに近いスピードではあるが、確実に藪の奥へと進んでいく。


『……ゴめ……サイ……』


 いよいよ声が鮮明になる。近い、すぐそこだ。


『……めンナ……い』


 もう着くぞ。その正体を暴いてやる。


『ご……ンなさい……』


 いるのはなんだ。何者だ。


『……ごメん……なさい……』


 え? 今、なんて____




『……ごめんなさい……』




『どわっ!!』


 俺はすっ転び、鼻を地面にぶつけた。地面から頭の先っぽを覗かせていたタケノコに足を突っかけてしまったらしい。


『いぃっでぇ〜! くそォ!』


 両手で鼻を押さえ、俺は地面にうずくまる。手が生暖かい。鼻血が出たようだ。地面にも赤い雫が数滴、落ちているのが見える。ちくしょう、今日はとことんイヤな日____


『……え?』


 瞬間、俺は我に帰った。

 赤い、だと? この竹藪の真っ暗闇の中で、赤いだと? 俺が、色を認識できているだと? 

 俺はおそるおそる顔を上げ、それと同時に愕然とした。

 そう。周囲が明るかったのだ。ほんの3秒前までは10センチ先すらも見通せなかったのが、今では自分の腕毛まではっきりと認識できる。

 光が届いている。なら光源はどこだ。そう思った俺が首を左に向けると____


『……な……!?』


 いよいよ異常という他なかった。俺が今いるのは少しひらけた場所、竹が生えていない空間である。そこの空中、地面からおよそ 1メートルの位置に、直径80センチほどの光の球が静止していた。

 そこから発せられている光は、かなり強い。普通ならこれほどの光を直視するなど不可能であり、それどころか目も開けられないはずだ。だがなぜか、その光からは全く眩しさを感じなかった。


『どう……なってんだ……!?』


 俺は頭をフル回転させ、考える。鼻血はまだぽたぽたと垂れているが、そんなことを気にする余裕はなかった。


 これはなんだ。電球? ……違う。こんな大きな電球なんて見たことないし、電力供給用のコードらしきものも全く見当たらない。

 じゃあどういう原理で光っているんだ。い、いや、問題はそんなことじゃあない。……これ、浮いてるよな? 浮いている……どうやって!? 

 そもそもこの光の球、いつからここにあったんだ。こいつから出ている光……これほどの強さなら、竹藪の外から見えてもおかしくないはずだ。……突然現れた? 俺がここにきた瞬間に? そんな! それこそどんな仕組みだよ!


『ああ〜ちくしょう! 分からん!』


 俺は頭を抱え、そして、もうひとつの奇妙な事態に気づく。


『そういえば……声が聞こえない……』


 耳をじっとすましてみる。しかし、こんなところまで俺を連れてきたあの声は、さっぱり聞こえなくなっていた。


『でも……声を辿っていたら、ここに着いたんだ……。そしてこの光の球……』


 2つを無関係だとするほうが不自然。俺はそういう結論に至った。

 どうするか。光の球は舐め回すように見たが、結局なーんにも分からない。声も聞こえなくなってしまった。と、なれば……。


『……触ってみるか?』


 危険である。例えるならなんの知識もない素人が、山の中で見つけたよく分からない野生のキノコを食べようとしているのと同じだ。

 触ってどうなるのか分からない。熱くて火傷するかもしれない。手がかぶれるかもしれない。ビリビリに痺れるかもしれない。下手すりゃ、爆発するかもしれない。でも……。


『ちょっとだけなら……』


 好奇心に抗えない。俺は右手をおそるおそる、球まであと1センチのところにまで近づける。この時点で、熱や冷気といったものは一切感じられなかった。


『よ、よし。もうちょい……』


 球まであと5ミリ。4ミリ、3ミリ。そして、あと1ミリまでいったその時____


『へっ!?』


 突然俺の右手が、球に向かって引っ張られたのだ。物凄い吸引力で、手は球にぴったりとくっついてしまう。____否。くっついているわけではなかった。


『お、俺の右腕が! 球の中に引き摺り込まれている!?』


 腕だけではない。吸い寄せる力はどんどん強くなり、ついに首から下の全てが球の中に飲み込まれてしまった。残った頭も、ジリジリと引っ張られていく。


『な、なんだ! なんなんだよ! なにが____』


 その時だ。

 声が聞こえた。あの声だ。頭痛がするほど軋んだ声。吐き気がするほど不快な声。だが先ほどまでとは違い、明確な感情がこもっていた。罪悪感にべっしょりと浸ったような、強い哀しみが。



『ごめんなさい……』



『……え……? お前……』


 再び声が聞こえなくなるのと同時に、俺の頭は飲み尽くされてしまった。



 

 


 



 

 





 

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