第1章 魔術の世界と平凡な青年

第1話 不条に揺らぐ

雄弥ゆうや! ちょっと来なさい!』


 自室のベッドに寝転んでうとうとしていた俺は、階下からの母親の呼び声で目を覚ます。

 窓の外はすでに真っ暗。携帯電話で確認すると、時刻は20時を過ぎていた。学校から帰ってすぐにベッドに倒れ込んだから、かれこれ3時間は寝ていたらしい。


『雄弥! 聞こえないの!?』


 寝ぼけて朦朧としていた意識は、母親からの2度目の呼びかけで完全に覚醒する。


『聞こえてるよっ! 今行くから!』


 母親の用件は分かっている。とうとうこの日が来た。今回は、大丈夫。自信を持って見せられる。俺はベッドの脇に置いていた通学カバンから1枚の紙を取り出し、部屋を出た。



 階段を降りて、リビングに入る。


『呼んだらすぐ来なさい。私も暇じゃないのよ』


 そこにいた母親はスーツ姿のままだった。どうやらたった今会社から帰ってきたらしい。部屋に入ってきた俺の方を見向きもせず、髪を整えたり鞄の中を整理したりしている。


『……ごめん、ちょっと寝てて。今日は早かったんだ』


『またすぐ会社に戻るわよ。人手が足りなくてね。それより早く見せなさい。返ってきたんでしょう』


 母親は相当疲れているらしく、その口調はかなりの苛立ちを含んでいる。いつもであればこれは最悪の状況だが、今回に限ってはそうではない。

 俺は右手に持っていた紙を広げ、母親の背中に向けて差し出した。

 それは、先月の全国統一模試の個票だった。母親は振り返り、個票を奪うように受け取る。そして鞄から取り出した縁の細い丸眼鏡を掛け、個票を睨め付けるように見始めた。


 俺の通う高校では、1年生は2ヶ月毎に模試がある。そして今回の模試は、俺の過去最高の出来だった。全教科の合計点数は先月のものを50点も上回り、校内の学年順位は18位から3位にまで上がったのだ。

 前回の模試の結果をこの人に見せた時のことは、思い出したくもない。「自分が学生の頃はこんなものではなかった」だの「将来成功する奴はお前と同じ高1の頃から死に物狂いで受験勉強をしている」だの、3時間にわたって説教をされ続けた。挙句にそれが終わった後は、お前のおかげで3時間も無駄にしたなどと言われる始末。いくらなんでもあんまりだった。

 それから2ヶ月間、俺はそれこそ死ぬ気で勉強した。毎日学校の自習棟に夜9時まで残り、帰ってからも日付が変わるまで勉強を続けた。ひどい寝不足にはなったが、学校の授業中に寝ることは絶対にしなかった。

 友達と遊ぶことも禁止。食事も1回3分とかけずに済まし、毎日1日の半分以上を勉強に費やした。そして今、その努力の結果が出たのだ。文句のつけようがない、完璧な結果がだ。

 俺は母親をちらりと見た。個票を凝視するその目元には深いシワがよっている。

 どうだ見たか。俺の奮励の結晶を。文句があるなら言ってみろ。驚け、喜べ、褒めちぎれ。

 俺は口元がニヤケそうになるのを必死に堪え、母親が反応を示すのを待った。


『雄弥』


 やっと母親は個票から目を上げ、俺の方を見た。その口から発せられる次の言葉への期待がはちきれそうになる。


 ____しかし。母親の言葉は、俺の期待を塵も残さず消し去った。


 

『……呆れたわ。よくもまあこんな無様な結果しか出せないくせに、昼寝なんかする余裕があるわね』



 そう吐き捨てると、目元にかかった前髪を鬱陶しそうに払った。

 瞳の中には失望すらも浮かんでおらず、それはもはや軽蔑の域だった。


『……え』


 ちょ、ちょっと待て。違う。そうじゃない、そうじゃないだろ。あんたが言うべきなのは、そんなことじゃあないだろ。もっと他に、あるはずで……それなのに、今なんて言った? 無様、だと?


『な、なにが駄目なんだよ! 点数は50点も伸びたんだぞ!? 50点だぞ!?』


『ええそうみたいね。でも全体の平均点も前回より20点上がってる。重要なのは素点じゃない、偏差値よ。あんたね、今もう11月よ? 模試で見るべきポイントくらいいい加減に覚えなさい。それにここ』


 母親はズレかけていた眼鏡を正す。


『この単語。前回間違えたのと全く同じものじゃない。こんな単語ひとつ覚えられない人が他に何を覚えようってのよ。あなたこの2ヶ月間いったい何をしていたの?』


 何をしていた、だと……?


 母親は目の前で話しているが、俺の意識はすでに凍り付いていた。なんなんだ、このとんでもない気分の悪さは。


『ッでも、校内順位は3位に上がって__』


 かろうじて反論を絞り出す。だがそれを聞いた母親の表情は、いよいようんざりとしたものになる。そして舌打ちをしつつため息を吐き、俺の言葉を遮るように喋り始めた。


『あのね……! あなたが大学受験で争うのは同じ学校の人だけじゃないのよ!? 敵は全国にいる10万人の同級生なんだから! 大体あなたの高校での3位なんて全校レベルで見たら有象無象に過ぎないのよ! 見なさい、これを!』


 彼女は冷ややかな視線を俺に向けたまま、個票を手でばしんと叩いて続ける。


『確かに校内順位は上がっているけど、全国順位は前回より140位も下がってるじゃない! あなたが井の中でいい気になっているうちに、本当の強者はどんどん海に出て行くのよ! 分かったら、もういい加減に自分のやるべきことをしっかりと自覚することね! そんな甘ったれたことじゃ一生負け組のまま!』


『……な、な……』


目の前が真っ暗になる。なに、なんだよ、なんだってんだよ。そこまで言わなくてもいいじゃんか。そりゃあ探せばいくらでも悪いところは見つけられるよ。あんたの言ってることは全部正しいよ。……でもよ。ちょっとくらい褒めてくれたって__

 その時、俺の背後にあるリビングの扉が開いた。

 

『なんだ、何を騒いでいる』

 

 父親だった。両眼の下には濃いクマをつくり、かなりやつれた様子であった。


『あら、あなたも帰ってきたの』


『専務に少しでも休めと言われてな。お前はまた戻るんだろう?』


 母親は個票をテーブルの上に投げ捨てるように置き、何事もなかったかのように父親と話し始める。父親に至っては俺のことなど眼中にもなかった。視線すら交わそうとせず、俺の真横を素通りする。


『そうだ、テレビを見てみろ』


 父親はテーブルの上にあったリモコンをとり、リビングの角にあるテレビをつけた。


「____次のニュースです。都内に住む浅野美緒さん、32歳の行方が、2日前から分からなくなっています。浅野さんは国内最大手の医療器具メーカー、黒井コーポレーションに勤めており、この2ヶ月でこの会社の社員が行方不明になる事件が23件起きています。警察は、今回のものを含めた一連の事件を同一犯によるものとみなし捜査を進めていますが、依然、手がかりは掴めていません____」


『うそ……! またうちの社員……!?』


『ああ……。いったいどうなっているんだ。犯人どころか、消えた者の足跡すら全く見つけられていないらしいし……』


『……今朝、うちの部署の樋口さんが退職届を出してきたばかりなのよ』


『なに、またか……! くそっ、怖がって辞める社員も増える一方だし、かと言って会社の業務を止めるわけにもいかん……! 1人1人の負担ばかりが、どんどんデカくなっていく……!』


 深刻な雰囲気で話す両親をよそに、俺はリビングを出た。部屋に戻り、制服を着替える。無地の白シャツに、黒いタイトなズボン。革のベルトを腰に巻き、藍色のパーカーを羽織る。そしてまた階段を降り、玄関から静かに外へ出た。

 






 

 


 

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