歩きつづけた末に
金の斧と銀の斧、それから普通の斧を持った木こりは、今日も木を切りに行きます。いつものように名前のない鼻歌を歌って、せっせと木を切ります。週末になると、たきぎを背負って町へ売りに行きました。あいかわらずたきぎは高くでは売れませんが、いつもにこにこと愛想よくしていたので、町の人からも好かれていました。
木こりは全部で三本、斧を持っていましたが、普通の斧しか使いませんでした。女の人からもらった斧は、なんだか使うのがおしい気がしたのです。それに、返してもらった普通の斧も、ていねいに磨けばまだまだ使えました。金と銀の斧も、毎日欠かさず磨いていました。そうすると、女の人と出会ったあの日のことを、ありありと思い出せたからです。
そして彼は毎晩ベッドの中で、木のすきまから見える星空をながめながら、もう一度会いたいな、そう思って眠りについていました。
*
木こりは女の人と出会ってから、ときどき池の近くまで木を切りに行きました。そうすれば、また女の人と会えるかもしれないと思ったからです。けれど、女の人が姿を現すことはありませんでした。そのたびに、彼はがっかりしてとぼとぼと家に帰りました。いつしか木こりの心の中で、女の人はとくべつな存在になっていたのです。
ある日、木こりはふと、斧を池に落とすことを思いつきました。彼があの日のように、えいや、と腕を振り上げると、斧はするりと木こりの手を抜け池に飛びこみました。ばしゃん、と派手な音がして、木にとまっていた鳥たちがいっせいに羽ばたきます。そうして、静まり返った森の中にそよそよと風が吹いて、木こりの髪をさらいました。
彼が風に目をほそめると、ふいに池のまんなかが波打って、女の人がすうっと姿を現しました。木こりはその美しさに思わず目をみはります。波が止んで、鏡のようになった水面に姿が映りました。
「あなたが落としたのは金の斧ですか?それとも銀の斧ですか?」
女の人は、鈴のような声でそう尋ねます。まるで初めて会ったかのように言う女の人を見て、木こりは、覚えてないのかな、と思いました。けれど、会えたことが嬉しかったので、そんなことはどうだっていいように思えました。
「いえ、どちらも違います」
木こりが少し声を震わせて答えると、女の人は「そうですか」と言いました。そして同じようにうなずくと、女の人はまた池へと戻っていきます。木こりは心臓をどきどきさせながらそれを見守りました。もう今度は驚くことはありません。もう一度池から顔を出した時、女の人は木こりが思った通り、彼の落とした斧を持っていました。
「それでは、あなたが落としたのはこの斧ですか?」
「ええ、その斧です」
木こりはうなずきます。すると、女の人はにっこりと彼に笑いかけました。
「あなたは正直者ですね。正直者にはすべてさしあげましょう」
女の人が斧からそっと手を離すと、ふわふわと漂って木こりの前にやってきました。そして、金と銀の斧を取り出すと、女の人はまた目の前に浮かべました。
「あの」
木こりは勇気を出して声をかけました。
「なんですか?」
「僕、この斧はいりません。落とした斧を返してくれただけで十分です」
木こりがそう言うと、女の人はびっくりしたように目を見開きました。
「本当にいらないのですか?切れ味がとてもいいですよ」
「はい、自分の斧だけで十分です」
「……そうですか。あなたは謙虚な人なんですね。それでは、私はここで失礼しますね」
女の人はそう言うと、木こりが引きとめるより先に池の中に戻っていってしまいました。木こりは少しがっかりしましたが、もう一度会えたことが嬉しくて、顔をほころばせました。
*
それからも、木こりはときどき池の近くへ木を切りに出かけました。あいかわらず女の人と会えることはありませんでしたが、池のまわりに行くだけで彼は元気が出るようでした。
そんなある日、木こりが池の近くへ出かけると、一人の男がふちにたたずんでいました。木こりはなんとなく不思議に思って、木のかげにそっと隠れました。彼の素朴な色合いをした服が、うまいぐあいにその姿を隠します。木こりは幹から顔をのぞかせると、男の様子をうかがいました。
すると、水面がすうっと割れてあの女の人が姿を現しました。木こりは思わず声を上げそうになるのをぐっとこらえ、じっと見つめます。
「あなたが落としたのは金の斧ですか?それとも銀の斧ですか?」
女の人は木こりに聞いたように男に尋ねました。
「はい、俺が落としたのは金の斧です」
ふいに訪れた沈黙が森をおおいます。女の人は少し眉をきゅっとよせると、息をはきました。
「……あなたは嘘つきですね。嘘つきには何もあげません」
「おい、そんなのないだろ!せめて俺の斧ぐらい返してくれたって」
「それはできません。嘘をついたのはあなたです。その罰だと思いなさい」
そう言うと女の人は池の中へと戻って行きました。男はお母さんが聞けば絶対に怒るような言葉をはきすてると、荒々しい歩き方で帰って行きます。木こりは、目の前を男が通る寸前、なんとか身を隠すと太い幹に背中をあてました。
男が去ってから、木こりは池のふちに立つと自分の斧を落としました。彼には、さっきの女の人の悲しそうな
けれど、待てども待てども女の人は現れません。木こりは暗くなってきた空を見上げると、明日また来よう、と小屋へと帰りました
*
次の日、木こりは落とした斧の代わりに銀の斧を持って、池に出かけました。その周りに生えた細めの木を一本切りたおしてたきぎにすると、またその斧を池に落としました。
ばしゃん、と音が鳴って波紋が円をえがきます。だんだんとおだやかになる波を見つめながら、彼は鳥のさえずりに耳を澄ましました。
しかし、今日も女の人は現れることはありませんでした。
*
そしてさらに次の日、木こりは最後の斧を持って池に出かけました。太陽の光をあびて、金の斧がぴかぴかとかがやきます。その反射した光に、木の葉にまぎれたリスが目を細めるほどでした。
昨日と同じように木を一本切りたおすと、斧を池に落としました。音がやんで静かになった森の中に、木こりが息をする音だけがひびきます。さあっと吹いた風が、汗ばんだ彼の顔をそっとなでました。まるで、この世界に彼しかいないと思いそうなほど、静かでした。
けれど、真上に上っていた太陽が傾いても、女の人は現れそうにありません。木こりは地面に下ろしていた腰をわずかに上げると、池をのぞきこみました。
鏡のような水面に彼の顔がうつります。その顔は、言葉では言い表せないような複雑なものでした。
嫌われてしまったのかな。木こりはそう思いました。この前の男も、同じ木こりでした。だから、女の人に「木こりは嘘つきだ」と思われても仕方ないと、彼は思ったのです。
水面にうつった自分の顔が揺らいで、ぼやけます。それを見て木こりは、自分が泣いているのだと気が付きました。涙を流すなど、何年ぶりでしょうか。長い間、幸せに暮らしていた木こりにとって、その涙はびっくりするほど塩からいものでした。
すると、涙で立った波をうち消すように波が寄せて、池のふちについた彼の手をうちました。はっと顔を上げると、水面に、女の人が立っていました。
「――あなたが落としたのはこの斧ですね?」
「……はい」
木こりがうなずくと、女の人はなんとも言えない笑みを浮かべました。
「この金の斧と、銀の斧も、そうですね?」
「はい」
「どうして、私があげたものまで落としてしまったのですか?」
「あなたに、会いたかったんです」
――木こりは正直者でした。嘘をつく、ということさえ思いつかない、正直者でした。
「……あなたは正直者ですね。あなたには私も嘘をつけません」
そう言うと、女の人は泣きそうな顔で笑いました。
「私も、あなたに会いたかった」
「――え?」
「あなたのような正直者には出会ったことがありません。私もあなたのことが好きです」
驚いたような、困ったような顔をして見つめる木こりに、女の人はすうっと近づくと、その手を彼の頬にあてて涙をぬぐいました。
「あなたは正直者です。すべて、顔に書いてありますよ」
きょとんとした木こりに女の人はくすくすと笑うと、冗談です、と言いました。それを聞いて木こりは女の人の手に自分の手を重ねて、一緒になって笑いました。
「――貴女は池から出られないのですか?」
「私はこの池の女神です。ですが、出ることはできます。でも――」
「それなら僕と一緒に来てくれませんか」
言いかけた女神をさえぎって木こりはそう言いました。女神はふせていた目をあげると、木こりは見たことがないくらい真剣な
「でも?」
「……でも、この池を出てしまえば、私はただの女です。もし今度また貴方が斧を池に落としてしまっても、拾ってあげることができません。それどころか、貴方の仕事の手伝いすらできません」
木こりはそれを聞くと、ふっと優しく女神にほほえみかけました。
「そんなこと、関係ありません。僕はただ、貴女と一緒にいたいだけです――だから、僕と一緒に来てくれませんか?」
「本当に、いいのですか?」
「もちろん。二人でいれば、なんとかなりますよ」
不安そうに見つめかえす彼女の手を、木こりはにぎると、「さあ行こうか」と言いました。
「ほら、もうすぐ日が落ちてしまう」
こくりとうなずいた彼女は、もう完全に木こりにお似合いなかわいらしい乙女でした。吹き抜ける風が、すこし冷たくなってきています。
二人は、繋いだ手をそのままに、夕暮れの赤が染める森の中へと帰って行きました。
めでたしめでたし。
落とし物は何ですか? 涼月 @R_moon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます