第20話素の自分
お母さんは、料理が得意な人だった。
「ママのご飯おいしー!」
「本当? じゃあ今度仁美に作りかた教えてあげるね」
「やったー!」
なんて事のないやりとり。そんなものが、当時の私にとってはすごく嬉しくて、楽しかった。
「ねぇねぇ。今度っていつ?」
「んー、じゃあ今夜教えてあげるね」
優しい口調。お母さんはいつも笑ってる人だった。少なくとも私の前では、笑顔を絶やしたことはない。
「ここはね、こうするの」
クルッとフライパンの上で食材を転がすお母さん。
「わたしもそれやりたい!」
お母さんの持ってるフライパンに手を伸ばそうとするが、お母さんは私の手の届かない位置にフライパンを上げて。
「だーめ。仁美がもっと大きくなったらじゃないと危ないから」
優しく諭すように言ってきて、私は仕方なく手を引っ込める。
「ねぇねぇ。わたしが大きくなって料理が上手になったら、ママは嬉しい?」
「それはもちろんよ。だからいっぱいお料理の練習をして、ママを喜ばせて」
「うん!」
それからある日のこと。私はお父さんと喧嘩をした。
「もうパパなんか知らない!」
お父さんにそう強く怒鳴りつけて、私は初めての家出をした。なんで喧嘩をしたか忘れたけど、多分私がくだらないことに腹を立てたんだと思う。家出をした私は、その時はまだ小さく、一人で遠くへ出かけることももちろんできないから、適当に近くの海辺に歩いて行った。
海に燃え上がるように反射する太陽と、カモメの鳴き声、それから眠くなる潮騒の音。そんな煌びやかで美しい光景を、私は砂浜で体育座りをしながら見ていた。意固地になって、家になんか帰ってやるもんかと強く決意を胸に固めていた。
なのに、お母さんが後ろから私の名前を呼んで、迎えにきてくれた。そのことがたまらなく嬉しくて、私は安堵と幸福の感情から泣き喚いた。
そこにはいつも、幸せな空気が流れてた。優しくて、元気で、料理が得意で、そんなお母さんが大好きだった。あの頃の私にとっては、お母さんが全てだった。こんな幸せな日常が、一生続いていくものだと……思っていた。
私が幼稚園を卒業して、小学高に入学して半年が経とうとしたぐらいの時。お母さんは車で運転中に大型トラックと衝突して命を落とした。
「うえぇぇん。うえぇぇぇ!」
何度も何度も現実が受け入れられなくて、何度も何度もお母さんの棺の前で涙を流した。そんな私の頭を、お父さんは優しく撫でてくれた。それでも泣き止むことはなく、私は葬儀の途中でお父さんに外へ連れて行かれた。その日以降私は、お母さんがいなくなった現実がショックで、失った穴が大きすぎて、情緒が不安定になってしまった。
次の日。お母さんが亡くなって学校へも行きたくなかったけど、お父さんに無理やり連れて行かれて、仕方なく学校へ向かった。
担任の先生からクラスメイトは話を聞いていたのか、学校に来た私に対し、不自然に優しくしてくれた。その優しさが当時の私にとってはとてもうざったく、ムカつくものだった。
「仁美ちゃん。大丈夫?」
優しく声をかけてくれるクラスメイト。そんな彼女の言葉が、私の怒りに触れた。
どこをどう見たら大丈夫なんだと、強く怒りを露わにして。
「うるさい! 話しかけないで!」
私が優しくして欲しいのはあなたたちじゃないと、八つ当たりのような醜い感情を同級生にぶつけた。
子供というのは残酷なもので、何か一つ気に入らないことがあればすぐに集団を組んで排除しようとする。当然当時の私は、そんな彼ら彼女らに敵意をむき出しにされ、いつしか孤立させられるようになった。
大好きだったお母さんは亡くなり、同級生からは忌み嫌われ、学校という機関が嫌いになって、私は短い期間だが不登校になった。行きたくもないし、行く意味もわからないし、お父さんは心配してくれるけど無理して行かせようとはしてこないしで、学校という場所とは疎遠になった。
引きこもっている間は特にやることもないので、ずっと布団の中にくるまってお母さんとの思い出を思い返していた。
どうして私を置いて行ってしまったの? 何で突然私の大切なものを奪い去るの? この時ばかりは神様を本気で恨んだ。それから一年ほど経つと、お父さんに、もう一度学校に行かないか? と言われる。
もちろん行きたくないと答えるが、試しにと何度もお願いされ仕方なく学校へ向かった。私が登校すると、周囲は奇異の視線を送ってきた。
「何しにきたの?」
「なんでいるの?」
周りが全員私の噂をしている気がして、キュッと心臓が止まりそうになった。同級生の視線が怖くて、その人たちの顔を見ると、昔言われた悪口や嫌がらせを思い出し、頭がクラクラして倒れそうになった。
お母さん……。亡き母に縋るよう、頭の中でお母さんの記憶を掘り起こす。ぶるぶると恐怖と混乱で肩を震わせる。そんな時だった。近くにいた女の子が、私に話しかけてきてくれたのだ。
「ねぇ。あなた名前は? 私は〇〇。よろしく」
元気いっぱいで、周りにも友達が多く、そんな彼女を見て私はゆっくりと口を開く。
「あの、七瀬です……」
「下の名前は?」
「ひ、仁美……」
「そっか。仁美ちゃん。よろしく!」
アホそうで元気溌剌な彼女の手を握る。それから私は彼女を観察した。彼女は友達が多くて、悩みもなさそうで、いつも元気だった。そんな彼女に憧れてか、私は彼女の真似をするようになった。
人前で素の自分というものを殺して、彼女のようにいつも元気で誰からも好かれる人間を演じるようになった。そうすると不思議なことに、私はクラスで誰からも好かれる人気者になった。ただ元気なふりをしているだけなのに、周りの私に対する評価は手のひらを返すように変わった。
そして自分を偽ると、もう一ついいことがあった。それは、不安定だった情緒が解消されたこと。嫌なことも全部押し殺し、母さんとの記憶も忘れるように努めると、物事に対して何も思わなくなった。
喜怒哀楽すべての感情を押し殺して生きていく。そういう生き方をすれば、苦しくないと気がついた。
それ以来私は、お父さんの前でも素の自分というものを偽り、そしていつしか本当の自分という存在を殺した。
そのほうが楽で、苦しくないから……。
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