第17話由貴の過去
お母さんたちを部屋から追い出すと、私はボフっとベッドに頭からダイブする。
ほんと、なんでいんの……? もう今更顔なんて見たくなかったのに……。色々な感情がぐちゃぐちゃにかき混ざって、スッと目を閉じる。お母さん、私の顔してたな……。目を瞑ると、思い出すのはあの頃のこと。まるで、昨日のことのように鮮明に覚えている、あの、貧しくも楽しかった頃の……。
「由貴〜。今日はどの本を読んで欲しい?」
「じゃあこの本!」
「えーまた〜? 由貴は本当にこの絵本が好きだね」
「うん。何回聞いても面白いもん」
「うふふ。そうだね。じゃあ読むよ」
ペラ、ペラ、とゆっくり絵本の内容をお母さんは読み聞かせてくれる。聞き取りやすくて、落ち着く声。だから私はいつも、必ず終盤らへんで眠ってしまう。でもそれがとても心地よくて、何度も何度も同じことを繰り返してしまう。
「そこで王女様は言いました」
私を楽しませるために、お母さんは読み方に緩急をつけて喋ってくれる。そのおかげで物語に引き込まれて、気づいたら眠ってしまう。ペラ、ペラ、と紙がめくれる音が耳に響いて、私の睡魔を刺激する。物語が進むごとに私の瞼は重くなっていき、そして気がつくと眠りに落ちる。
そんな私を、お母さんはお姫様だっこでお布団の上に寝かせてくれる。そんな日常が、たまらなく幸せだった。
お父さんは物心ついた時から何故か居ないけど、特に気にしたことはなかった。前にお母さんに質問して見たけど、お母さんは難しい顔をして誤魔化した。多分話したくないことなんだと私は察した。だから聞かない。
お父さんなんかいなくても、私にはお母さんがいるから。だから別に、他の人なんかどうでもいい。お母さんさえ居てくれれば、私には十分だった。
「ねえ由貴。今度遠くにお出かけに行こっか」
突然そんなことを言われ、私は舞い上がる。
「うん! 行く!」
「じゃあどこにいきたい?」
「お母さんと一緒ならどこでもいいよ」
「そう? じゃあここにしよっか」
お母さんはパンフレットのページをペラペラとめくり、海の写ってるページで止めると指を差す。
「由貴は海が好きでしょ。だからここなんてどう?」
もちろん断る理由なんてなくて。
「いいよ!」
元気よく返事をする。別に場所なんてどうでも良かった。ただ、お母さんと一緒なら……。
「それじゃあ来週の土曜日に行こっか」
「うん!」
旅行の日程も決まって、私の人生は順風満帆に進んでいた。そう、進んでいたのだ。あの日までは……。
ピリリリリりと家の電話がなって、お母さんがガチャっと受話器をとって応答する。
「はい。斉藤ですけど」
電話越しに話すお母さんの様子を、私は後ろから眺めていた。最初、お母さんは眉間にしわを寄せて、何とも言えない表情をしていた。
でも。
「先生! ご無沙汰してます!」
先生と名前を呼んでから、お母さんの態度は一変して、ペコペコと電話の前でお辞儀をし出した。何をやっているのか分からなかったけど、それだけ大切な人なんだろう。その時はそう思って、深くは考えなかった。それからお母さんは。
「え? 本当ですか!?」
普段私の前では見せないような表情を作って、嬉しそうに喜んだ。その時モヤっと嫌な感情が芽生えたが、それをすぐに取り払う。お母さんはいつも私の側にいるんだから、別にどうだっていいじゃん。私はお母さんのことが一番好きで、お母さんも私のことが一番好きなんだから。
それからお母さんは話を続けている。最初は嬉しそうにしていたお母さんだけど、途中私のことをチラッと一瞥だけして。
「……わかりました」
と答えてから、複雑そうな表情を作っていた。
話が終わり受話器を置いたお母さんは、後ろにいた私と目線を合わせるように身体を屈めて。
「ごめんね、由貴。来週の旅行、行けなくなっちゃった」
重く苦しそうにそんなことを言われるが、別に気にしてなかった。残念だし楽しみだったけど、お母さんに事情があるなら仕方ないと割り切れる。悲しそうな顔をするお母さんを励ますように、エッヘンと胸を張る。
「大丈夫。私は子供じゃないから、気にしないよ!」
私がそんなことを言うと、お母さんはどこか嬉しそうにして頭を撫でてくれる。
「ねぇ由貴。大人な由貴にお願いがあるんだけどさ」
言いづらそうに、言葉を選ぶようにゆっくりとお母さんは話し始める。
「明日からしばらく、おばあちゃんと一緒に暮らす事ってできる?」
いきなりそんなことを言われた私は、当然困惑する。
「え……? それって、私とお母さんがおばあちゃんの家に行くってこと?」
「ううん、違うよ。由貴がおばあちゃんの家に住むの」
「それじゃあ、お母さんはどうするの?」
「お母さんはね。ちょっとこことは違う、遠くに引っ越さなくちゃいけなくなっちゃってね」
「何で? だったら私も連れてってよ!」
「ごめんね。それは出来ないの。でもね、おばあちゃんの家はここなんかよりよっぽど広いから……」
「そんなのどうでもいい! 何でいなくなっちゃうの? 私、お母さんと離れたくないよ!」
突然のことに泣きじゃくる私の頭を、お母さんは優しく撫でてくる。
「ごめんね。でもきっと、すぐに帰ってくるから」
「ほんと? 約束だよ?」
「うん。約束。だからもう泣かないで」
そうして私はその日から、大好きだったお母さんと離れ離れになることになった。
おばあちゃんの家のチャイムを鳴らすと、不機嫌そうな顔をしたおばあちゃんが出迎えてくれた。
「久しぶりに顔を出したと思ったら子守をしろって。随分勝手だね」
「……うん。それはごめん」
「ふん。そう思ってるなら、連絡の一本でもよこしゃあいいんだよ。それより、あの男は?」
「えーと。彼とはもう一緒に居ないの……」
「は? 離婚したのかい?」
「……うん」
「ほれみたことか! あの時あんだけ反対したのに」
「うん」
おばあちゃんは今まで溜まっていたであろう鬱憤を晴らすように、お母さんを責め立てる。そんなおばあちゃんに、お母さんは申し訳なさそうに頭を下げる。第一印象としては、怖いおばあちゃん。
だから私は、お母さんの後ろに隠れる。
「えーと、それで。この子が私の娘の由貴。ほら、隠れてないでおばあちゃんに挨拶して」
隠れていた体を無理やり前に押し出され、仕方なくおばあちゃんに挨拶する。
「由貴です……」
ぺこりと頭を下げると、おばあちゃんは不機嫌そうに。
「なんだい。声の小さい子だね」
ギロっと睨まれ、萎縮する。
「他人と関わるのが上手な子じゃないから、あんまり強く言わないであげて……」
「はぁ。まあいいよ。それで、あんたはいつ頃帰ってくるんだい?」
「それはまだ決まってなくて。まだチャンスをもらえただけだから、もしかしたらすぐ帰ってくるかも」
「そうかい。だったらあんたが失敗することを願ってるよ」
「あはは……」
お母さんの目は笑ってない。
「ねえ由貴」
私がお母さんを心配そうに見上げていると、お母さんは私と目線を合わせて、ゆっくりと、いつも絵本を読んでくれるような声で。
「それじゃあ元気にしてるんだよ」
そう言い残して、車でどこかへ行ってしまった。
それから私は、あまりおばあちゃんに歓迎されずにこの家に住むこととなった。お母さんがいない環境でうまくやっていけるか不安で、いつもお母さんのことばかり考えていた。でもいつかはこの環境に慣れるんじゃないか。お母さんのいない生活でも、苦しくなくなるんじゃないか。
そんなことを思っていたのだが、一向にその気持ちがなくなることはなかった。おばあちゃんに歓迎されない私は、いつも、誰もいない部屋で一人絵本を読んでいた。
顔を合わせるのも食事の時ぐらいで、それ以外の時間はいつも一人で過ごしていた。新しく入った学校でも思うように友達はできなくて、私はより一層お母さんのことを強く想うようになっていった。
お母さんと別れてから半年ほどの時間が経った時、今日はお母さんが来てくれるんじゃないかと期待していた。なぜなら今日は私の誕生日だから。だからお母さんは、無理してでも顔を出してくれると、本気で思っていた。
なのに当日になっても、私の誕生日を祝ってくれる人は誰一人としていなかった。
「あの……」
久しぶりに、おばあちゃんに話しかける。おばあちゃんは嫌そうな顔をして。
「何だい?」
と聞き返してくる。
「今日、誕生日で……」
「それがどうしたんだい?」
「お母さんは、帰ってきてない……ですか?」
「ふん! 本気であの娘が帰ってくると思っているのかい?」
「え……? だって、いつか帰ってくるって……」
「な訳あるかい。あんたは捨てられたんだよ。あの娘にとって、あんたは邪魔だったんだろうね。ほんと、厄介払いを私にしてくるなんて……」
おばあちゃんにそんなことを言われるが、私はそれを否定する。
「そ、そんなはずない。だって、お母さんは帰ってくるって……」
「じゃあどうしてあれから一回も顔を出さない? 娘の誕生なのに顔を出せない理由が何かあるのかい? あんたは一回でもあの娘が出ていった理由を聞いたかい? 聞いてないだろう? つまりはそういうことだよ」
ふん! と言って、おばあちゃんは手元の新聞紙に視線を戻す。否定したいのに出来ない。私は捨てられた? 何で? いらない子だから? どうして誕生日を祝ってはくれないの?
ぐるぐると嫌な考えが脳みそをかき乱して、何もかも嫌になって、そして私は意識を失った。
それから目が覚めると、奇妙で不思議な場所にいた。ここは……。
多少困惑したが、私には見覚えがあった。ここはお母さんによく読んでもらった絵本の中とそっくりの世界だ。じゃあつまりどういうこと? よくわかんない。でももうどうだっていい。
何もやる気が起きなくて、何も考えたくない。それから逃げるように、閉じこもるようにして、私はお城の中に引き篭った。
「ほんと……大っ嫌い……」
掠れるような小声で、そう独り言を漏らすと、私は大好きだった絵本を一人で読み始める。
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