共感チョコレート
豊科奈義
第1話
どこにでもありそうな高校での金曜日の放課後。その高校の廊下を、一人の少女が歩いていた。
腰までかかる艶やかなスーパーロングの絹の如き銀髪。夜空に照らされた海のような澄んだ紺色の瞳。まっさらな肌。百七十センチメートルはある長身。
彼女が一度通れば、周囲の人間は皆彼女のことから目が離せなくなりある種の畏怖の念さえ抱かせるものだ。
「嗚呼、今日も安奈様はお美しゅうございます」
「こ、こら! おまえみたいな下等生物が梛原様の名を口にするな! 穢れられてしまう!」
彼女、梛原安奈の名前は学校どころか周囲の高校にまで伝播し、各学校に梛原ファンクラブができるほどでもあった。それほどまでに彼女は、敬われ、崇められている。
一部の熱狂的信者は彼女が通り過ぎろうとすれば、彼女が通り過ぎるまで土下座を保つ。
ともなれば、彼女と付き合おうとする輩も出るのは必然だった。
「な、梛原氏。た、大切なお話があるでござる……」
梛原の前に立ちふさがる生徒がいた。彼は丸眼鏡をかけた梛原と同じクラスの生徒だった。彼は緊張故か、畏怖しているのか体の動きがサビだらけの機械のような動きをしている。
「今から委員会なんだけど? 明日の朝にでも言ってもらえるかしら。それじゃ」
梛原は相手にもしようともせずに、彼の横を通り抜けていった。
何が起こったのか理解できない彼は、梛原が通り抜けてからしばらくしてようやく自分が取るに足らない生徒であることを自覚する。そして、慟哭する他なかった。彼の友人やらが詰めかけ、諦めろと必死で諭そうとする。しかし、彼は泣くのを止めずただただ廊下を濡らし続けたのだ。そしてそんな彼らを、覗いている二人がいた。
「相当惚れ込んでんな。それにしても、明人。本当にやるのか?」
「ああ、告白するさ。告白を成功させれば、ファンクラブの内でのカーストも上がるしな」
告白を決めたのは篠山明人。どこにでもいそうな目立った特徴のない男である。
彼は、ファンクラブの会員証を握りしめていた。
そんな彼を心配しているのは、江田脩一。身長が高く、顔も整っている。
「道理でみんな躍起になっているのか。でもな、明人。おまえ、流されてないか? 本当に梛原さんのこと、好きなのか?」
明人は、梛原のことを崇拝しているだけではないのか。
そんな考えが脩一にはあった。
「勿論。大好きさ」
明人は軽くそう言う。だが、脩一からしてみればこれほど疑わしいものはない。
とはいえ、親友が告白するのだ。応援しなければという思いもある。
「そうか、なら頑張れ。梛原さんがおまえに揺らぐとは到底思えないが、応援してるぞ」
脩一は呆れながら、明人の肩に手を乗せると反対側の手でグッドサインをする。
「応援してるのかしてないのかどっちだよ」
「一応はしてるぞ。放課後の屋上が誰も使っていないことを調べてやったし、手紙を読んだことも確認してやっただろ」
「そうだよな、ありがとう。脩一……」
明人は、梛原に心底惚れている。当然振られれば失意の底に沈むだろうし、万が一成功したら日常生活は大きく変わってしまう。助けてくれた親友に何の恩返しも出来ないのだ。
「良いってことよ。さあ、今のうちから屋上に言って準備してこい。俺は帰るがな」
「帰るの?」
「ああ、忙しいからな。それじゃ」
何が忙しいのかは聞かない。告白の前に余計なことなどしたくないからである。
脩一は静かにその場から去っていった。
「よしっ」
明人は両頬を手でたたき気合を入れる。そして、親友の協力を無碍にはすまいと明人は屋上へと向かった。
放課後の学校の屋上で明人は、緊張していた。
なぜなら、今まさに明人の好きな相手に告白という一世一代の勝負に出るようとしている最中だからだ。緊張していないわけがない。
明人は緊張により手足が震え、まるで生まれたての子鹿のようだった。そして、相手が来るのを今や今やと待ち望んでいる。
あまりの緊張故に吐きそうになったのか、手で口元を押さえ無理にでも緊張からする吐き気を飲み込む。そして、緊張をほぐすために大きな深呼吸をし終えた時だった。学校の三階と屋上を繋ぐ階段への扉がゆっくりと開いたのは。
梛原は、明人の前へと立った。
「で? 伝えたいことってなんなの。明人くん」
梛原は明人が吐き気を催すほどに緊張しているともつゆ知らず、何の躊躇いもなく言ってみせる。
明人は深呼吸をすると、一歩前へと出る。そして覚悟を決めた。
「梛原さん! 好きです。僕と付き合ってください」
明人は逃げるように頭を下げた。告白した相手の顔なんて怖くて見れないからだ。
だが、梛原はすぐには反応を見せずに、ただ時間だけが過ぎる。一瞬ではあったが、明人からしてみれば長く苦しい時間だったに違いない。
「あなたのこと、そういう目では見れないの。ごめんなさい」
彼女は未だに頭を下げ続けている明人に対して一瞬だけ会釈をしたかと思うと、そのまま走って屋上から立ち去ってしまった。
カラスの無慈悲な鳴き声が響き渡ると、明人はようやく頭を上げた。
もう、笑うしかなかった。初めて恋というものを知り、必死の覚悟で挑んだ結果がこれである。
しかし、明人は引きつったような笑いしか出すことができなかった。その上、それ以上に絶望の感情が心の奥底から湧き上がってくる。
もう、どうにでもなれと思った時、夜の帳が静かに下りた。
明人は雲が淀み雨が降る中、傘もささずに商店街を進んでいた。そんな明人の姿に、道を行き交う買い物客は心配そうに目を配る。だが、篠明人から出る絶望のオーラを感じるとなぜか近づくことができなかった。
「そこのお兄さん、寄っていかない?」
商店街にはいくつもの路地がある。その中の一つに差し当たった時、明人は声をかけられた。ボロボロのフードを身にまとって胡散臭そうな女だ。明人も一々反応する気などない。平然と無視して進もうとする明人。だが女は、明人の肩をしっかりと掴んだ。
「なんですか?」
失意の底に沈み、あらゆることが億劫に感じていた明人は喜怒哀楽が抜け落ちた顔で渋々聞いてみる。すると、女は笑った。
「お兄さん。なにか悩んでいるでしょ。恋の悩みかな。そんなお兄さんにこれ。チョコレート。運命を変えてくれる貴重な代物だよ」
女は銀箔の包を明人に押し付けた。だが、明人はまるで受け取ろうとはしない。無視をしようとする明人に、女は銀箔を破ると欠片を明人の口に入れた。
「苦い」
まるで明人が味わった苦しみをそのまま再現したような苦さであった。
「そうだろそうだろ。苦しみを噛み締めなさい。イヒヒヒ……」
女は童話に出てくる悪役のような声で笑った。だが、それすらも明人には届いておらずただただ雨が降る中を進んでいる。無視されたというのに、女は何とも上機嫌であった。
翌日、学校に向かうと校門の前に梛原が誰かを今か今かと待ちわびていた。もじもじと体を動かし、真っ赤な顔。恋人を待っているのではないかと噂されている。「一体誰が梛原を射止めたんだ?」と、校内は梛原の話題でつきっきりである。
明人は梛原を一瞥すると誰もいなかったかのように校門を一直線に突き進む。
「なぁ。明人、梛原に告ったんじゃねーの?」
絶望を引きずったまま歩く明人に、友人の脩一が話しかける。
「告ったよ。そして振られたよ。あの時点で恋人はいないはずだったんだけどな。すると俺が玉砕した後に彼氏か何か作ったのか。元々そいつと決まってたなら俺の手紙なんか無視すりゃよかったのに。そうすれば俺もいくらか割り切って──」
脩一は不思議で仕方なかった。明人の瞳は、虚空を見つめ焦点がまるで定まっていない。決して今言っていることは嘘ではないのだろうと思えた。
「やっぱりな。でも、こういう経験がないと人は成長しないものよ」
脩一は明人に豪語してみせる。
「脩一はどうなんだ?」
「よく振られるさ……。年の差なんて些細なことじゃないか……」
最後の方は嘆きになっているが、どちらにしろ脩一も同じなのだと明人は安心する。校舎へ向かおうとするも、脩一に引っ張られる。
「なんだよ」
「嘘つけ。あの子こっちに来てるじゃないか」
「え?」
脩一は無言で、指を指した。その方向にいるのは梛原だ。だが、先程と様子は違う。
梛原は明人を見るなり嬉しそうな顔をして明人の方へ小走りにしているのだから。
その明人の声もまた、脩一にとって何のタネも仕掛けもない本当の驚きのように思えた。
そして、明人が振り向く間もなく梛原は明人に抱きついた。受け止める準備をしていなかった明人は、何が起こっているのかすら理解できずそのまま倒れ込んだ。
「あぁ……。明人くんの匂いだ……」
明人の腰の上で恍惚としている梛原は、どこからどう見ても恋する乙女に他ならない。密かに梛原の様子を見守っていたファンクラブ会員は、電撃を受けたかのようにそのままショックのあまり倒れ込んだ。運動部のイケメンなら理解できるが、なぜ明人なのだと。
「え? 梛原さん!? どうして」
昨日振られた相手が、翌日に校門で自分を押し倒している。そんな摩訶不思議な状況に明人は、ろくに整理がついていなかった。
「何って、告白してくれたじゃない。私ね、考えたんだ。振っちゃった後、考え直してみたら急に明人くんのことが愛おしくてたまらなくなっちゃって振ったのは間違いだって気づいたの。だからね、私と付き合って……。いや、結婚しよう! 明人くん!」
「え?」「今の聞いたか?」「さすがに冗談だよな……」
さまざまな声が聞こえる中、そんなこと明人は一々気にしていられない。それよりも、一つ確実だと言えることがあった。何かおかしいと。以前の彼女はなんでも見通すような目をしていた。しかし、今は違う。ただただ明人のことしか目に映っていないのだ。
「と、取り敢えず梛原さん。下りてもらっていいかな?」
「なんで?」
全く明人の意図を汲んでおらず、何が悪いのかと言わんばかりの発言だった。
「ところで、結婚してくれるよね?」
「いや、だから、梛原さ──」
「ね!」
「……。は、はい」
梛原からの圧力に、明人は耐えられなかった。
冗談だと思った。こういっておけばどうにかなるだろうと思っていると、ようやく梛原は明人の上から下りた。
「じゃ、教室まで一緒に行こうっか」
さも平然のように梛原は明人の手を繋いだ。
「う、うん」
周囲からの羨望、嫉妬、驚嘆というさまざまな視線に晒されているというのに、梛原は全く気にせずに明人よりも前に進む。一方の明人はすっかり周囲からの視線に怖気づいてしまい、一緒に歩いているというよりかは明人が梛原に引っ張られているというように見えるだろう。
教室に入ると、ほぼ全生徒が梛原の方を向きそして明人の方を向く。
ある人は考えられないような組み合わせに口を開けたまま二度見。否、三度見や四度見をして固まっている者も居る。
「じゃ、じゃあ梛原さん。俺ここの席だからまた後でね……」
席に座れば逃げられるのではないか。そんな考えが脳裏を過り、そそくさと席に座ると遠回しに梛原を拒絶する。
「うん」
梛原は明人に微笑みかけると、自身の席へと戻り身支度を始めた。やっと肩の荷が下りたと思い明人は安堵のため息をつく。
だが、身支度を終えた梛原はすぐに明人の元まで戻ってくると平然と明人の膝へと座った。
思ってもみない美少女の積極的な行動に、どうして良いのかわからず明人は頭が沸騰するかのように熱くなった。
「明人くん? どうしたの、具合悪い? じゃあ一緒に保健室行く?」
梛原は明人の額へと手を当て、体温を確認している。
明人は瞬時にまずいと思った。こんな状態で保健室などにいけば、間違いが起こってしまうと。
しかし、そうこうしている間にも梛原は明人の左腕を自らの首に回し明人の頭を支える。
「じゃあ行こっか。保健室」
「え? う、うん」
美少女が、自分のために動いてくれるのだ。おかしいとはわかっているが、やはり年頃の少年としては唆られるものがありきっぱりと断ることが出来ずにそのまま保健室へと向かった。
「失礼しまーす」
上機嫌な声で保健室の扉を開けるが、中には誰もいない。ただ真っ白なベッドが置いてあるのみである。梛原は明人をベッドへと寝かすと、そのまま明人の全身を舐めるように見た。
「あのー。梛原さん?」
もしやと思い、明人は冷や汗をかいた。だが、その不安は正しかった。
梛原は蠱惑的な目で明人を見つめると、徐々に体を明人の体の上へと移動した。そこに至るまでの動作に生気がまるで感じられず、意識せずにやっているのかと明人が疑問に思うほどだった。
梛原は自らの左手を、そっと明人の頬へと触れさせる。まるで繊細な豆腐を扱うかのように。
「明人くん……」
そう恍惚としながら呟いた梛原は、息を切らしていた。なぜかはわからない。いや、明人にとってはわかりたくすらなかっただろう。
明人は本能的に一歩後ずさろうとした。しかし、梛原が上に乗っているいるため動けない。仮に動けたとしてもどっちにしろ逃げることなど出来ないのだが。
「私ね、もう我慢できないよ。シていいよね……?」
梛原は明人に返答を求める。しかし、返答を求めるよりも前に梛原の手は明人の下半身へと向かっていった。
「ちょっと待って! 成績優秀で品行方正なんだから、こんなところで授業サボっちゃったらいろいろと失墜しちゃうよ」
「私ね。気づいたの。勉強が出来ても、こんな幸せなことには巡り会えないって。それに、他人からどう思われようとも別に良いよ。明人くんが居ればね」
そう言って、梛原の手が明人の下半身へと到達する寸前だった。明人は意を決して脱出を試みどうにかして保健室の固い床へと飛び込んだ。痛かったが、そんなこと気にしていられなかい。あのまま行けば大変なことになるし、いろいろと状況が狂っている。
明人は必死で逃げながら考えた歯車が狂った理由を。
「……チョコレート」
ふと、明人の脳裏に胡散臭い女性から無理やり食わされたチョコレートがよぎった。その時あの胡散臭そうな女性は、笑いながら明人の口にチョコレートを食べさせた。何か面白い結果になるからこそ、無理やり食べさせたのだと明人は結論づけた。
そして、授業時間だというのに一目散に昇降口から商店街へと走っていった。
「はぁ……はぁ……」
息を切らしながら明人は全速力で逃げる。こうでもしなければきっと梛原は追いかけてきてしまうだろうから。
商店街へ入ると、記憶を頼りに胡散臭い女性がいた路地へと駆け寄った。
胡散臭い女性はまるで明人を待っていたかのように座っており、明人が目の前まで来るとまたもや童話の悪役のような笑い方をした。
「やあ、待ってたよ……」
期待している映画を見ようとしているような口調ではない。人を嘲笑するときの口調であった。
明人はつい手を握りしめてしまうが、こんなことしている場合ではないとすぐに手を緩める。
「おまえが食わせたチョコレート。ただのチョコレートか?」
もしこれが勘違いだったら、明人はただのおかしい人間と思われてしまう。けれども、通行人にいきなりチョコレートを食わすほど変人でもないと明人は思っている。
けれども明人はほぼ確実視していた。カカオアレルギーや牛乳アレルギーもあるのだから、通行人から訴えられればほぼ確実に負けるだろう。そもそも、そんなリスキーな行為を商店街側は許可しないだろうしこんなに人の往来が激しい中で運営元から隠し通せるとも思えないからだ。
「そうさね、フェアトレードで手に入れたカカオさね。大企業が販売している搾取されたカカオとは違うのだよ。後は……そうだね、武器軟膏って知ってるかい?」
「武器軟膏……?」
なぜ軟膏の話なのだろうとは思ったが、話の流れからして少なからず関連があるのだろうと明人は思う。しかし、明人の脳内に武器軟膏なる言葉など存在しない。
「軟膏って普通傷口に塗るだろ? 武器軟膏ってのは傷口ではなく傷をつけた武器の方に塗るんだよ。馬鹿らしいと思うだろ? でも当時は科学的とまで謳われたんだ」
女性は笑ってのけるが、明人からすれば笑える要素など一つもない。
「へ、へー……」
ただ無抑揚の相槌を打つのみだ。
「でだね、そのチョコレートはそれと似たような理屈さね。そのチョコレートには、共感作用があるのさ。あんたが誰かのことを思っている状態でそれを食べると、体内で共感が起こりそれが想い人へと伝わり影響を及ぼすさね」
意味不明な説明に、明人は頭を抱えた。武器軟膏の説明はわかったが、続くチョコレートの説明が理解できないのだ。明人は、校内でも決して頭が悪くない方だと自負している。女性の説明が難しすぎるのか、或いは女性の説明が的はずれなものであるかだ。
「つ、つまり。梛原さんがああなったのはおまえのせいなんだな」
明人は女性を呼び指した。だが、指差した少年の体はどうにもぶれている。
「ええ、そうですがなにか? それに、お兄さん。嫌がってないでしょ?」
「……」
明人は咄嗟に本心を言い当てられたことに心が大きく揺れ動いてしまい返す言葉もなかった。
明人自身、そうは思ってはいない。思ってはいけないのだと心の中で抑圧してしまったのだ。だが、言い当てられてしまった以上抑圧されていた気持ちが急激に勢力を拡大。人間としての尊厳と激しくせめぎ合っているのだ。
「強いて言うなら、もう少し穏やかでいて欲しいかい?」
またしても、明人の心が大きく揺れ動いてしまった。
「……できるのか?」
考えるよりも先に、明人はそんなことを口から零していた。すぐにとんでもないことを言ってしまったことに気がつくも、既に女性の顔は不気味なほどに口角が上がり笑っている。
「できるともできるとも。このチョコレートを食べるんだ」
女性は銀紙に包まれたチョコレートをこちらに翳した。
梛原さんの本心を踏みにじることなどしたくないと明人は思っている。しかし、一歩女性に向かって脚が進んでいる。歯を食いしばり、拳をきつく握りしめた。
「いいじゃないか、美少女に迫られる生活。一体何が不満なんだね。尊厳なんて捨て去ってしまえばいいのに……」
女性は明人を唆すように、耳元で囁いてみる。不快だと言うのに、明人は内心大きく揺れ動いてしまった。
「今、そうしようって思ったでしょ。ククク……。まあいい、これを食べなよ」
女性はチョコレートを明人に手渡した。そして、明人はチョコレートを束の間見つめると躊躇いも少なく口にした。
「苦っ」
味は前回と変わらない。でも、慣れなのか多少甘く感じられた。
「明人くん!」
今聞きたくなかった声が突如明人の耳に響いた。先程の梛原の姿が鮮明に映し出されるも、声を聞く限り先程と違い異常さはない。少なくとも明人には感じられていない。
本当に性格が変わったのではと思い梛原の方を振り向いた。
「梛原さん……」
明人が見たものは、先程見たのとは打って変わってしおらしくなった梛原の姿だ。どこか恥ずかしそうに悶ている。
「その……。ごめんね。学校でちょっと興奮しちゃって……」
そう言って梛原ははにかんだ。ちょっとどころではないと明人内心突っ込みを入れつつ、明人もだいぶ良識になってくれた梛原を改めて見渡す。今朝は正確に非常に難ありだったとはいえ、性格が矯正された今。見た目の可愛らしさも相まって明人の目の前に佇むのは完璧な美少女そのものだ。
「もしかして、私を嫌いになったり……? でも今朝の私、はしたなかったし明人くんが嫌になったら私は構わないよ……?」
梛原は瞳に涙を潤ませている。身長の差もあるため、梛原が明人に上目遣いをしているとも取れる。わざとなのか無意識なのかはわからないが、その行動に明人は慌てふためいたように梛原を抱きしめた。
「ち、違うかっ」
明人は拙い語彙力を駆使し否定の言葉を述べるとそのまま梛原を力強く抱く。
「いいの? ……こんな私で?」
梛原は随分と自分を卑下しながらも確認する。
「勿論」
明人がそう言ってのけると梛原が瞳に貯めていた涙がダムの決壊の如く流れ落ちる。梛原は明人の服に顔を埋め、シャツがスコールに出くわしたかのように濡れ果てた。
「ご、ごめんね、明人くん」
梛原はすっかり瞼を腫らしてしまった。
「別にいいよ。それよりもさ、一緒に帰らない?」
明人は梛原に右手を差し出した。目の前に出された手にどうすればいいのかわからなかった梛原は数秒かかりようやく意図を理解すると、左手で答えるように手を握った。
「はい」
梛原は明人に恍惚しているのか、薄っすらと頬を紅潮させていた。
「ねぇ、明人くん……」
翌日の昼休憩。梛原は、明人の席の前から話しかけてきた。しかし、様子がおかしい。梛原は紅潮し明人と目を合わせようとはしておらず、何より何かを背中に隠していた。一瞥はするものの、すぐそっぽを向いてしまう。椅子に座っている明人からは、梛原の足がどうなっているかなどわかりはしない。ただ、見える部分からは足を組んでいるということはわかった。
「その……さ」
周囲を見ると、不思議そうに梛原のこと見ていた。昨日あれだけ人目も憚らずイチャイチャしていたのに、今さら何を恥ずかしがっているのかと言わんばかりに。
「お弁当……作ってきたよ?」
目の前に大きなやじろべえがあるのではないかと思えるほどに、梛原は重心が左右に移動している。昨日の梛原であったら、否応なしに梛原の手料理を口に詰め込まれていたことだろう。
安堵と同時にどこか寂しささえ感じる。そもそも、昨日の時点で弁当を作ってくると言ってきたのは梛原の方だ。今さらになって恥ずかしいと思えたのだろう。
「ありがとう、じゃあ食べようか」
「う、うん……」
梛原の口角があがる。それを確認すると明人は立ち上がった。さすがに、この好奇の視線に晒されているこの状況で呑気に昼食を食べられるほどメンタルは強くない。
「屋上で食べよう」
「うん……はい、これ」
明人は梛原から弁当を受け取る。そして、周囲の視線を浴びながら屋上へと向かった。
屋上は、誰もいない平和な場所だ。ただ、明人も名を知らない何かの機械が設置されている程度。日光浴にもなる場所だ。
二人は屋上の柵に凭れ掛かると、二人同時にランチクロスを外す。そして、明人は弁当を開けた。
「おお……」
明人は感嘆した。
決して豪華ではない。量が多いわけでもない。高級食材はなく、あるのはスーパーで売ってそうなものばかり。形だって完璧じゃない。崩れているものもある。
「その、嫌だったら残していいから……」
これが昨日の梛原だったらさぞ大変なことになっていただろう。少しでも気に食わなかったら作り直しして家庭の財政を破綻させそうですらあった。
「せっかく作ってくれたんだし、全部食べるよ」
最初に目に止まったのは卵焼きだ。焦げ目がついていて、形も決して上手ではない。だが、食べたい気がしたのだ。
「いただきます」
合掌を終えると、箸で卵焼きを掴み口元まで持っていく。
卵焼きはほんのり塩味だ。庶民的ではあるものの、どこか落ち着く美味しさだった。
「おいしい……」
「本当? よかった」
拙い語彙力だと言うのに、梛原は嬉しそうに明人を眺めた。
そして、他の料理も食べ弁当を完食した。
「ごちそうさまでした」
米の一粒まで口に入れ、合掌をする。
「ねぇ、明人くん。もしよかったらさ。また、作ってもいいかな……?」
不安混じりの表情だ。断られることを恐れているようにも思えた。
「もちろん」
明人はそう言ってあげると不安混じりの表情が嘘だったかのように花ひらく。
「ありがとね、明人くん。あと私、トイレ行ってくるね」
梛原はその小さな手で明人に手を振った後、小走りで校舎内へと戻っていった。保護欲を唆られる梛原を見て夢心地だった明人も校舎内へ戻ろうと屋上を降りる。
そんな時、ふと他クラスの女子たちが目の前を過ぎていった。明人には全く目もくれず、与太話に夢中である。明人もそんな無価値な話を聞く必要性を感じず、通り過ぎようとする。
「梛原さ、どうしちゃったんだろうね? ここ二、三日で変わりすぎだろ」
「わかるー。でもなんか、生気が宿ってないっていうかさ……。盲目的に明人と付き合ってるっていうか、調教されてるっていうか……」
彼女らはスマホの画面を見ながら喋っていた。実際、何気ない会話だったのだろう。だが、明人にはこの他クラスの女子の会話がどうにも引っかかった。
クラスに戻ると、梛原はクラスの女子たちと楽しそうに会話していた。チョコレートの影響を受けているとは言え、やはり本質的なところは変わっていないだろうと明人が思っていると梛原が明人に気づいた。
彼女は、会話の途中だと言うのに立ち上がり明人の方へと近づく。突如立ち上がった梛原に、会話していた女子たちは不信感を顕にした。
本当にこれで良いのだろうか。そんな考えが一瞬脳裏をよぎってしまう。
「どうしたの? 明人くん」
「いや、なんでもないよ」
悩みを悟られぬように上辺だけの笑顔を繕う。これで幸せなんだと、自分に言い聞かせながら。
「元の状態に戻したい?」
放課後、明人は胡散臭い女性の元に向かうなり胸の内を伝えると、女性は訝んだ。
「そりゃまたどうしてかね」
歯を食いしばっているであろう明人は少し間を置くと口を開いた。
「辛いんです」
「ほう?」
「周りから疎まれる梛原さんが。僕は梛原さんが好きです。だからこそ、卑怯な手でも良いから付き合えた時嬉しかったです。でも、僕のために盲目的になって、他人と話しても僕を見つけると寄ってきちゃって。最初は心地よかったけど他の生徒が梛原さんの悪口を言い出して。そこで、本当に梛原さんのためなのかなって思ったんです。意識してからは、ずっと苦しかった。だから、元の状態へ戻してください」
明人の決心に、女性は「若いのに感心だね……」と驚嘆している。
「もしかして、戻せないんですか?」
なかなか答えを口にしない女性に、明人は考えうる最悪の可能性を口にする。
「いやいや、戻せるよ。普通に」
女性はあっさりと答え、明人は安堵した。
「だがね、本当にいいのかい? お兄さんは勿論として、お姉さんのことも」
「どういうことですか」
「そのまんまの意味さね。付き合って数日だろ。別れたとなればその梛原さんとやらにも迷惑はかかるだろう。恋に夢中になり、お兄さんを見ると友達との会話もすっぽかす人が別れたからといってまた会話に混ざる。私だったらそんな人殴ってるがね?」
その言葉を受け、明人は再考せざるを得なかった。視線を女性からそらし、梛原のことを考える。好きな相手に、不幸になってもらいたくはない。
「なぁ、脩一。相談していいか?」
明人と脩一が連れションしている時、明人は零れ落ちるように口にした。
「なんだ?」
「彼女ってどうやって守ればいいのかな?」
「心配しなくても良いだろ。あの梛原さんならな。というか、何から?」
「んまぁ、いろいろ」
「ふーん……。なあ、明人。おまえさ、本当に梛原さんのこと好きなの?」
「え?」
「何かあったときさ、好きじゃなかったら守れる気がしないだろ。そして、本当に好きだと思えたなら、俺は命がけで守れる。でも、明人からはその熱意がまるで感じられない」
そう言って脩一は洗面台へ向かうと石鹸を使い手を綺麗に洗いハンカチで綺麗に拭う。そうしてトイレから華麗に立ち去っていった。
一方の明人はそんな綺麗好きではない。軽く手を濡らすだけでトイレから出ていった。
「つまり、俺は本当は梛原さんのことが好きではない……?」
明人もトイレを済ませて梛原と一緒に帰ろうとした時。ふとスマホが震えた。何事かと思い、明人はメッセージを開く。そこには『委員会で一緒に帰れない。ごめん。先に帰ってて』と書かれていた。
一緒に帰れない残念さに襲われつつも『わかった。一人で帰るよ』とメッセージを送る。
スマホをしまい、外に出ると校門を出ると見慣れた人物がいた。脩一である。脩一は校門を背にスマホをいじっていたが、すぐに明人に気がつく。
「どうした? 明人。梛原さんとは一緒に帰らないのか?」
「今日委員会だから先帰ってだって」
「そうか。じゃあ一緒に帰らね? 久しぶりにな」
「……ああ」
脩一と一緒に行動するのはいつぶりだろうか。そんなことを明人が考えていると、長い横断歩道を渡っている少女の姿が目に入った。部活でもしていたのか、大きなスクールバッグを持って疲れていそうだ。見た感じ中学生と言った所だ。
「なぁ、明人。あの車おかしくないか?」
「え?」
明人は何事かと思い脩一が指差した方向を見る。そこには、蛇行しながら爆走している自動車が見えた。前を走っている車を一瞬で抜いたことから、並々ならぬ速度で走っていることがわかった。そしてなにより、このまま行けばあの少女にぶつかってしまう。
一方の少女は、スクールバッグの重さに気を取られているのか自動車に気づく様子もなくゆっくりと歩いていた。
──まずい。このまま行けば、撥ねられる。
そんな思いが明人の中で浮かんでくるが、所詮は他所様。助けにいって自分も被害に合うかもしれないということを考えると、助けようなんて思いは出てきやしない。ただ、声掛けくらいはできるかなと言った所だ。
同意を求めるべく、脩一の方を見る。だが、脩一は隣にはいなかった。
脩一は即座にガードレールを飛び越えると、一心不乱に少女の元まで駆け寄り強引に歩道へと投げ入れる。
暴走自動車はそのまま加速し、校門へと突撃する。しかし、幸いにも周りに人はいなかったようだった。
そのことを確認すると、明人は脩一の所まで向かう。
「その、ありがとうございます」
少女は、脩一にお礼を言っていた。
「良いって良いって。じゃあな」
そう言い残し、明人の肩に手を置いた。
「さ、帰ろうぜ」
「ああ」
何もなかったかのように行動する脩一に、明人は少し疑問を感じつつも脩一に歩幅を合わせた。
「なぁ、脩一」
「なんだ」
「どうして、あの子を助けたんだ。所詮は他人だろ」
「ああ、他人だ。でも、目の前に困っている少女がいるのに助けるのは紳士として当然だろ。……男はどうかしらんが」
「お前すごいな。……ロリコンじゃなければな。でも、俺にはそんな命をかけれる自己犠牲の精神なんてありやしない。……俺、梛原さんと釣り合ってないよね」
「……別に良いんじゃないか。相手は何も言ってこないんだろ」
「うん。でもさ、他の人が言うんだよ。釣り合ってないって。俺もつねづねそう思うんだ」
「そうか、なら釣り合わせればいいじゃないか。別に命をかける必要なんてない。ちょっとでもいいさ。覚悟を決めてさ……」
ああ、イケメンとはこういうのを言うんだ。明人はそう確信した。そして、羨ましく思った。
少しでも、彼のようになれるなら──。
「梛原さん。大事な話があるんだ」
放課後、明人は教室で梛原に宣言した。室内にはまだ生徒が大勢残っており、彼らは皆突如奇声を発した明人の方を向いて固まっている。
「ど、どうしたの? 明人くん」
梛原は、困惑しながらも明人が何を言うのか気になっているようだ。
「他に好きな人が出来た。だから、別れてくれ」
その言葉に、教室は静まり返った。そして明人を見ていた多くの生徒は視線を梛原へと移す。
梛原は、一瞬何を言われたのかわからなかった。聞き間違いなのだと疑いつつも、動揺が隠せない。
「えっ……。 嘘、だよね」
「本当だ。好きな人が出来た」
恥じることなく冷酷非道なまでに明人は淡々と梛原に告げ、梛原もそれが事実なのだとようやく理解することができた。
「そ、……。そっか……」
好きな人ができたなら仕方ない。そう思い踏ん切りをつけようとしているのだが、梛原に心の整理などできるわけもない。
「わ、私帰るね。じゃ」
梛原は、誰もが作り物だとわかる笑顔を明人に見せた後逃げ出すようにクラスを去った。その後しばらく、クラスの中は静まり返っていた。
「お、おい明人──」
いくらなんでもあれはないんじゃないか。ひどいんじゃないか。
そんな声が聞こえてくるのは想定内だ。それでも、彼女を守るためには人前で振る他なかった。
だからこそ明人は何一つ躊躇うことなく、他生徒の声に反応することもなく教室を出ていった。
明人がやってきたのは女性の所だった。女性は明人に気がつくと、覚悟を決めた明人の顔を見て思わずおおと唸る。
「その様子じゃ、準備はすべて終えたようだね。でもいいのかね? お姉さんの名誉を守ろうとした挙げ句、お兄さんの名誉を犠牲にしたんだろ?」
「ああ、でも後悔はしていない」
「わかったよ、ほれ」
女性は銀紙に包まれたチョコレートを手渡した。
「……明人くん?」
銀紙を開き、いざチョコレートを食べようとした途端最近聞き慣れた声を感じ取りその方へと振り向いた。
「梛原さん……」
明人は彼女を見るなり、そう呟いてしまった。もう二度と面と向かって見ることがないだろうと思っていたからだ。
そして、彼女は何かおぞましいものを見るかのように引きつっていた。一歩一歩後ずさっており、チョコレートを指差した。
「そ、それ。共感チョコレートだよね……」
「共感チョコレート?」
正式名称なのだろうと思い、明人は女性の方を振り向く。女性は何かを弄ぶようにまたしても笑っていた。
「ああ、そうさね。あんたはよく知ってるだろ?」
その言葉が梛原に投げかけられたのだとわかるのに、明人は数秒を用した。
「梛原さん? それってどういう──」
明人が梛原へと視線を移す。だが、絶望に打ちひしがれたような顔をしている梛原がそこにはいた。立つ気力すらないのか、その場に倒れるように座る。目からは、涙がとめどなく溢れてくる。
明人は口を噤んだ。
「私から話してあげようさね。彼女には元々好きな子がいた。残念だけど、お兄さんじゃないよ」
余計なことは言わんで良いとばかりに、明人は女性の方を睨むがその光景すらも愉快なのだろう。見事に笑っている。
「そんな彼女が見ていられなくてね、わたしゃチョコレートを作ったよ。バレンタインに送ればそう違和感がないからね。でも、失敗だった。送った相手は食べてくれさえもしなかった。学校のゴミ箱に捨てられていたよ。彼女、失恋のショックで喉も通らなくてね。さすがに動かないとと思ったよ。幸いにも、彼女を好きな人がいた。だから唆して共感させて、少しでも失恋の痛みが減るならと。でも、それすらも失敗だったんだね……」
梛原は、失恋して大いに落ちこねしまった。だが、このチョコレートのおかげである程度失恋のショックは紛らわせたのだ。
つまり、このチョコレートを食べるというのは再び梛原が失意の底に沈んだ生活を送るということになる。
あれだけ悩んで、覚悟して決めたはずなのに。明人は躊躇ってしまう。
「──食べて」
「え?」
「早く食べて!」
明人には、梛原が心の底から叫んでいるように聞こえた。
だが、梛原の言う通りすぐ食べることはなかった。なぜなら、梛原は泣いていたのだ。
「梛原さん? だいじょ──」
「早く……食べてよ……」
早く食べろと言われて、本当に食べる人はどのくらいいるのだろうか? そんな悠長なことは考えなかったが、少なくとも梛原の言う通りにする決心はとうに潰えてしまった。
「──辛いんだよ、こっちは……。私はもうそのチョコレートのせいで心はめちゃくちゃなの。例え明人くんを想う心が偽物で、作られたものだったとしても、私は明人くんのことが好き。だから……。終わらせてよ」
梛原は、チョコレートには勝てないのだ。プログラムのように決められたことだけを成すチョコレート。一個人が真実を知ったところで、却って心苦しいだけだった。
わかった。ただ一言明人は梛原に言う。梛原は明人のことなど滲んでろくに見えていないだろうが、気にしない。銀紙を破ると、チョコレートに明人は齧り付いた。
──甘い。
切ないというのに、かつて二人の関係が作られたとは言え円満だった頃のように一切苦味のない甘みだった。
「で、梛原さんとはどうなったんだ?」
「別れた」
学校までの通学路で、明人は脩一に別れたことを告げた。
「そっか……」
脩一は驚きはしない。元から不釣り合いだったのだ、すぐにこうなることも予見できていたのだろう。
そして、明人を見つめる不愉快な視線も減少していた。慣れてきたということもあるが、梛原と一緒に行動することがなくなって安心したということなのだろう。
明人は何事もなく教室へと入る。一瞬梛原と目線があうものの、すぐに梛原の方から目線が逸らされる。
だが、今までしてきたことを考えれば仕方ないことだった。明人は梛原から嫌われたという事実を何の抵抗もなく受容し、静かに席につく。
そして、窓を見上げた。窓から見える外の景色は、曇り空。だが、窓の隙間から入ってくる風は強いものではない。心地よいものだ。
やがて授業を終え帰宅の途につこうと靴箱を開けたときだった。
「あれ?」
入っていたのは一枚の手紙だ。
梛原のファンクラブから人格否定の手紙でも入っているのかと思いつつ手紙を開いてみる。人格否定の文言が入っていたときはそのときはそのときだ。明人自身、梛原の人格を踏みにじったようなものだ。反論する気もない。
そう考えると、どんな内容だったとしても気軽に手紙を開くことができた。
『屋上に来てください』
一言だけ。そう書いてあった。
「そっか」
明人に笑みがこぼれた。だが、決して嬉しいわけではない。呼び出してどうなるかは目に見えている。梛原のファンクラブ辺りから、ボコボコにされたり詰問されるのだろうと。
予想通りすぎて、笑いでもしないとやってられないのだ。
そして明人はすべてを諦めて屋上へと向かった。屋上の扉を開くと、屋上にはいたのは一人だけだった。
隠れていると思い探してみても、目の前の人以外に誰もいやしないのだ。
「久しぶりだね、篠山くん」
「梛原さん……」
何かを図ったような、自信満々なつぶらな瞳が明人を見つめる。
「ねぇ、責任取ってよ」
何を言われているのか、わからなかった。だが、とても真剣な面持ちで有無を言わさないということはわかった。明人は固唾を呑む。
「どういうこと?」
「とぼけないでよ。元から友だちなんていなかったんだけどさ。君と付き合ったおかげでますます誰も話しかけてこないんだ」
梛原は、気味が悪いほどに落ち着きながらさも怒っている時に言うような文章を述べている。そして、明人に向かって一歩一歩ゆっくりと歩み寄る。
「私とさ、付き合って」
告白だというのに、それは最早ロマンのかけらもない。
明人は、呆然とする他なかった。
あらゆる動きに躊躇いを覚えている明人の意向を無視するかのように、梛原は明人の手を取る。
「いいでしょ?」
さも肯定することを前提とした問いかけ。今までの非礼を考えれば、首を横には振れない。
「わ、わかった」
「じゃ、復縁したということで。その方が、明人くんにとっても良いでしょ?」
「な、何? 言っておくけど……」
彼女は紅潮した。
「最初みたいに、ベタベタする気はないからね!」
そう強く言い切ると、梛原は明人に目線を合わせることなく早々に立ち去った。
そんな梛原に、明人は胸を撫で下ろすと急いで梛原の元まで向かう。
「梛原さん、一緒に帰ろ?」
「ヤダ」
「えぇ……」
明人と梛原の本当の恋愛はここから始まった。
共感チョコレート 豊科奈義 @yaki-hiyashi-udonn
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