36/ 聖と、翠と、費やした時間

  

「はい、柊です。──あ、おじさん」

 

 表面上の姿を、姉は装い続けている。……ように、メイには思える。

 周囲になにも影響を与えないように。

 心配や、不安や。困惑を抱かせてしまわないように──それはきっと彼女が、彼女の大切に思う少年のことをずっと、こころの奥にて自責し続けているからだ。

 あいつを、あんな風にさせてしまって。

 そのうえで、ほかのだれかにまでマイナスを与えてしまいたくない。

 自覚をしているのかいないのか。それはわからない。けれどきっとそういう心理が姉の精神の奥底には巣食い続けているのだと思う。

 

「バイト? ええ、うん、最近ちょっと休んでるみたいだけど──」

 

 オーバーなカラ元気の様相もまだ消えてはいない。あるいはなんとか、少なくとも一番身近にいる、同じ家に暮らす肉親であるメイが再び海外へと行ってしまうまではそうすることで、姉は平穏を保ちやりすごそうとしているのかもしれない。

 だとしたら、そういう偽りを向けられるのはメイは好きではなかった。

 姉妹という、血のつながった関係性なのにそこに偽りを前提として置くなんて。

 遠く離れた場所にそれぞれ暮らし、こうして同じ時間を同じ家で共有できるのがごく限られた、僅かなあいだのひとときでしかなくなってしまったのが、メイ自身の選択によるものだとしても──それは耐え難いことだった。

 

「お姉ちゃんに? ……どうかな、本人のやる気次第だとは思うけど。『憩い』にだって行ってないわけで──うん、伝えてはみるよ」

 

 そう。僅かな時間しかもう、残されていない。

 あと数日と経たず、メイは再びこの家を離れ、日本の地を踏む人ではなくなってしまう。

 どうにか姉のこころを上向かせてはやれないのか。

 自分にはてんで、姉のことをこれまで癒すことはできなかった。せめて今の、姉の気持ちくらいは。そう思う焦燥感がメイのこころにはあった。

 具体的にどうすればいいか。それもわからないまま。時間だけが経過していく。

 その中で受けた、一本の電話。

 

「ああ、おじさんもおばさんも、結婚式に呼ばれて? 名古屋まで? そりゃ人手、必要だよね」

 

 姉を必要とする、叔父夫婦の、神社の手伝い。

 その日を過ぎれば、メイはあと二日しかこの日本に留まることはできない。そんなタイミング。

 

「うん、わかった。訊いてみる」

 

 自分が姉にすべきことはそうではない。彼女のために伝えるべき言葉、するべきことはもっと他にあるはずだ。

 思いながらしかし、断ることも否定することもできず、メイは電話口へと向かい、頷き応じた。

 肝心の姉が今の心理状態で、こころの在り様においてそれを受け容れるか、拒絶するかはメイにもわからないことだった。

 

     *   *   * 


 作家をする父が普段暮らすのは、北欧の、……今は亡き母の生まれであった祖国である小さな国だった。

 その父が今日、帰国する。

 昨夜はあまり寝付けなかった翠である。冴さんとともに家を出るまで、今日この日にいったいどんな服を着ていこう、どんな顔をして会えばいいだろうと、不安と自己疑心は尽きなかった。

 

「翠」

 

 結局選んだのは、余所行きの──そういう場だと自分が認識する際、着衣するように決めている淡いミントグリーン色のブラウスと、落ち着いた色のスカート。おもしろみのない選択なのだろうと、自分でも思う。

 その衣服に身を包んで、空港近くのショッピングモールにいる。

 傍らの書店を見遣れば、父の上梓した作品が一角に平積みされている。その光景を横目に、すぐ隣のペットショップにてそのショーケースを、からからと滑車を回し続けるゴールデン・ハムスターの様子を眺めていた顔を、翠は持ち上げる。

 

「お待たせ。行こう」

 

 白いワイシャツにスラックス姿の冴さん。携帯電話の調子が悪いからと、下の階にあるショップに寄っていた保護者からの声に、翠は頷く。

 もうすぐ、父もこのショッピングモールにやってくる。待ち合わせの時間まで、さほどの間を要することなく。

 先に立って歩きだした冴さんに着いていくように、翠もまたショーウインドーの前から踵を返す。

 

「あの」

「うん?」

「お父さんに話したっていうわたしのこと、どんな風に」

 

 歩幅の大きな冴さんに離されぬよう、歩を速めてその背に近付きながら、気になっていたことを訊いてみる。緊張のせいか、言葉がおかしい自覚もある。

 ときどき連絡を交わしている、冴さんとお父さん。けれどふたりがいったいどんなやりとりをしているかまでは、直接には翠は知ることもなかった。毎回、その様子を目にするものでもなかったし、たとえその瞬間に出くわしたとして、わざわざ横槍を入れて立ち入るようなことでもなかった──……。

 だが今回は少しばかり、事情が違う。

 

「生憎、人間なんてさ、直接聴かされなきゃ他人のことなんてきちんとはわからないもんだ」

「えっ?」

 

 翠が悩んでいること。心配ごと、考えごと、困っていること。それらを知ったうえで、今日ここに父はやってくる。いったいどの程度まで、今の翠を父は知っているのだろう──そう思い向けた問いだったけれど、冴さんの開口一番は翠の想定からは大いに離れていて。

 

「こっちが知ってることなんて翠のほんとうに一部なんだろう。だから細かい点は直接、ちゃんと親子で言葉を交わすように言った。実際わからん部分はわからんとしか言いようがなかったしな」

「──ああ、そういう──」

 

 続き発せられた補足で、理解し頷く。

 冴さんはどこまで気付いていて、知っているのだろう?

 聖せんぱいのことでいろいろと世話をかけたことは違いない。でも、それ以上のことは翠からとくに、彼女はこと細かには問いただしもしなかったし、一方で翠もまた「せんぱいにもいろいろと事情があるみたいです」程度の表現によってしか伝えきれてはいなかった。

 悩んでいる、考え込んでいると翠を冴さんが評したのも、それらの出来事と前後しての、翠を最も身近で見る大人として受けた、このところの翠に対する印象からなのだろう。

 

「翠。ただ、私が言えるのはね──」

「?」

 

 エスカレーターが、ゆっくりとふたりを階下に運ぶ。

 その終着点近くで発した言葉をふと、冴さんは切った。


「──いや、やめとこう。外野があれこれ言うのも野暮だ。あとは直接、水入らずで話しなよ」

 

 下りのエスカレーターを離れ、フロアに数歩の歩幅を進んで。すっと、冴さんは前方を指し示す。彼女の背後から覗き込むように、翠もそちらに視線を注ぐ。

 

「あ……」

 

 行き交う人々の向こう。ワン・コインが売りの雑貨店テナントを過ぎた、休憩用ベンチのところにその姿がある。

 

「お、父さん──……」

 

 翠の父、緑郎(ろくろう)。

 眼鏡をかけた、僅かな顎髭を蓄えた、──翠にその血が間違いなく受け継がれていることのわかる長身が、そこにある。

 

     *   *   * 


 そして落ち合った場所と同じ階のコーヒー・ショップに、ふたりはいる。

 翠と。

 父と。

 ゆっくりしてきなよ、と送り出してくれた冴さんは、別行動をとった。

 

「──あのっ」

 

 正直、ゆっくり、なんて心境ではない。

 父にはコーヒー。翠は紅茶。テーブル上に置いて、向き合って。言葉を切り出せずにいる。

 話したいこと、聴いてほしいこと、相談したいこと。──訊きたいこと。

 ありすぎるほどに、話題となり得る、言葉として伝えたいことは山のようにあるというのに。

 肝心の言葉が出てこない。どう切り出せばいいのか、その会話の始め方に翠は窮している。

 その人との間にあるべきではない、本来あるはずのないのに緊張感を抱き、それが翠を縛る。

 もしかしたら聖せんぱいも、涼斗せんぱいとのあいだにこのような感覚を抱きながら、それでも接し続けたのかもしれない。

 翠は、父へ、家族として。

 聖せんぱいは、涼斗せんぱいへ、恋人として。

 なにも言えずにいる自分と比べて、聖せんぱいは必死に向き合い続けた──強い人なんだと、思う。

 どう言おう。

 なにを言おう。

 どこから、言おう。ぐるぐると、不定形で確立のされないロジックが脳裏に渦を巻いて揺蕩っている。

 

「翠」

「──は、はいっ」

 

 このとき翠は、そのように思考が溢れ乱れて、冷静でなかった。頭の中がいっぱいだった。

 そんな翠に対しひと足先、父が口を開く。

 機先を制された──というのは適切ではなく、年長者、そして親権者としてむしろそれは積極性を持って、娘に寄り添う行為であったといったほうが正しい。

 どきりとしながら、同時に少なからずにほっとする自分がいることを翠も自覚していた。

 殆ど触れ合ったことのない、父。

 だけれどその声音にひどく安心を感じることも事実である。

 間違いなくこの人が自分の父親なのだ──……。

 

「まずは、……まずは、そう。遅くなったけれど。高校入学、おめでとう。もう半年以上も前のことを言うのもおかしな話だが」

 

 コーヒーと、紅茶の湯気がそれぞれにふたりの間に舞う。

 柔和な表情で、微笑とともに父は言った。

 

「今日は、その……どうして?」

 

 それを受けて発した言葉は翠自身にとっても意外な問いで、だけれど話の流れとしてあまりに自然に、当たり前に浮かび発せられた疑問の言葉だった。

 時期を逸している、という風に表現をした父自身の自嘲によって、触発されたせいかもしれない。

 

「ずっと、私も翠から離れていたからね。この機会に面と向かって、直接言うべきだと思ったんだ」

「お祝い、を?」

 

 そして父は首を横に振る。

 

「言って、話して、訊こうと思った。聴かせてほしかった。そうするべきだと──こんなのはあまりにも、今更かもしれないけれど」

 

 私はきみの、父親だからね。そしてきみのお母さんの、夫でもあるのだから。

 穏やかな、声。その雰囲気に気負いはなく、その音色に翠は、包み込むような抱擁感を覚える。

 

「もうすぐ大人の、だけれどきみがまだ子どもであるうちに向き合うべきだと思ったんだ。過去のきみと、今のきみ。過去の私と、今の私が抱いている気持ちと。なにもかも、すべてに」

 

 過去。その言葉に翠は思い起こす。

 母を喪った、あのとき。

 父を深く深く傷つけてしまった、あの日。

 

「立ち向かう決心までに、こんなにも長く時間を要してしまった。ほんとうに、すまない」

 

 それらを超えて、目の前に今、父がいる。ずっと離れ離れだった、その人が。

 

「私は、話して、聴いて。知るために今日、きみのもとに来たんだ」

 

 

          (つづく)

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