37/ 聖と、翠と、ふたつの罪
今もあいつは、独りぼっちなのだろうか? ──聖は、そのようなことを思わずにはいられない。
「私は、」
なにもしてやれなかった、少年のこと。
愛した、大好きな。傍にいたいと願った相手。
だけれど自分がその、なにものにもなってやることのできなかった、その男の子のこと。
「私はあいつの、なんにもなれない」
きっと今もあいつは、独りなのだろう。ほんの数瞬前に抱いた問いに、そうしてすぐに聖は自答する。
脳裏に描くのは、病室の少年。
自分はまだ、そこに赴いたことはない。
そうすることも今後きっとないだろうし、またその行動をとる資格もないと、自覚している。
神社の境内。雲の疎らな晴れ空を見上げ仰いで、そんな自分の立場を思う。
「私じゃ、ダメなんだ」
そんなことはないと、否定する者もない。
聖自身がそれを否定、し得なかった。ほかの誰にだって、彼女がそうできなければ可能とする者はいないだろう。
彼女自身わかっていない。
聖「では」、涼斗の──彼の傍にいられなかったのではない。
聖「だから」、彼が彼自身に、聖の傍へといてはならぬと禁じたのだ。
それは涼斗もまた何度も、同義の言葉を聖へ向かい発してきたことだった。けれど残念ながら聖にもそれを本質的に理解するほどの冷静さと余裕が、彼と対面をするなかで欠如していたのである。
一緒に、行けなかった。一緒でいられなかった。そのことに少女は拘り。
少年はしかし、少女を『一緒に連れていくべきではない』『自身にその資格はない』とそれゆえに、少女を拒んだ。
聖がいかに理由を、自身への非難を脳裏に探そうと、そこにはけっしてなく。
涼斗自身の内側にしか、聖を拒んだ理由は存在し得なかったのである。
聖は境内に、ただひとり。
少年もきっと今、たった独りの時間を過ごしている。たとえ他者がその身辺に、近くいたにせよ。──こころは、独りぼっち。
「私は、涼斗を、……好きになっちゃ、いけなかったのかな」
妹のこと。家族のこと。聖が想うべきことはいっぱいあった。考えるべきことは無数に、あったのだ。だけれど聖はこうして独りになるとやはり、涼斗のことを考えてしまう。
生憎として、静寂に満ちた、人の気配のない神社には聖のみがただぽつねんと佇むばかりだった。
縁日もない、なにか行事ごとや祝いの日と重なっていたりもしない平時の、小さな神社など、そういうものだ。だから、聖は独りで今、在り続ける。
涼斗がいない、という孤独をかみしめ続けて、いる。
彼女にそうさせる静けさの残酷は、まだもう暫くのあいだにはそれを変化させることは、なさそうだった。
──社務所に置いた、鞄の中。
一瞬点灯した画面が告げた、メッセージの受信。その存在に気付くまでは。
小山 涼斗の名を不意に提示され、目にするまでは──……。
* * *
亡き母の名は、エメリアといった。
父・緑郎との出会いは学生の頃。
高校で募集をしていた一か月間のホームステイ、それによって訪れた北欧ではじめて、父はのちに結ばれるその女性と出会った──その頃はまだ、高校生であった父より更にふたつ年下の少女であった。
彼女は高校生であった時分の父が留学に際し逗留をした、ホーム・ステイ先の家のホストファミリー……ではなく。その同級生のひとりが滞在したその家に暮らすひとり娘だった。
幾たびか、そのために両者は顔をあわせ、その存在を知り、気付いてもいた。不思議に互いを印象に残してもいた。しかし関係性はそれ以上のものにはなり得ず、男女がともにティーン・エイジャーであったそのときには、帰国の空港でちらとそれぞれの姿を見遣り目に留めたそれきりに終わるものでしかなかった。
「彼女とふたたび出会ったのは、私が大学三回生──失礼、三年生のときだ。未成年であった年代よりは歳も重ねたとはいえ、それでも成人式をその年、終えたばかりのそんな頃だった」
三回生、という特殊な言い回しに、翠は父がかつて通っていた大学が、関西のものであったことを知る。逆を言えばそれまで、翠は父のそのような些細な情報すら知り得ていなかった。ただ、冴さんと同じ大学だと、そして母と冴さんが同級生であったと、そのことだけは聞き及んでいたけれど。
「留学をしてきた彼女と出会った。ほどなくして、あのときの少女だと知った」
サークルの後輩だった冴の紹介だった──友人で、同じ専攻で、同じ基礎講義の受講生だと。
そこまで聞いて、そういえば、と翠は思う。
冴さんと父の電話でのやりとりを傍らで幾度か耳にしたことはある。しかし先輩後輩の間柄にしては、冴さんは父のことを『アンタ』だとか、『ロク』とか、対等な友人としての色濃く、呼んでいたっけ。それだけ父も、亡き母も、冴さんもその三人のあいだにしかない濃密な友人関係、三者の関係性を築き上げてきたのかもしれない。
ついこの間まで、葉月さんという友人を得るまでそういった存在を持ち得なかった翠には、そんな父たちの繋がりが眩く、羨むべきものに思えた。
そういった、三者の結びつきで再会をした父と母はやがて結ばれ、そして──、
「そして、きみが生まれた」
もうその頃には双方、肉親と呼べるものはなく、それゆえにはじめてできた「新しい家族」であり、「ふたりから三人へと変わった家族」。
出産をした母親も。
それを見届けた父親も。無論のことながら、心の底からの喜びにあふれていた。
と、述懐をした父は翠の前で双眸を閉じる。
過去を懐かしむように──美しく、安らぎに満ちたその記憶の余韻を脳裏に深く深く、焼き付けるように。
「私がきみにしてしまったこと。してこれなかったことは変えようもない。だがきみが生まれてくれたことは、私とエメリアにとって祝福であり、救いだった。きみの誕生はほんとうにそういうものだったんだ。そのことはどうか信じてほしい。どうか胸の片隅に前提として、抱いていてほしい」
「お父さん……」
誕生という祝福。その喜びを夫婦ふたり、長くともに分かち合い続けることはかなわなかったけれど。
「きみが生まれて、二年目の秋だった。母さんはそれまで、趣味であった登山を、きみが生まれてからぱったりとやめていたんだ。母さんなりの、母親としての責任感としてだったのだろう」
吶々と語る父の声に、表情に陰りが差す。
娘の誕生という獲得から、紡ぐ言葉が映すものは彼の体験した喪失へと移り変わっていくから。それは無理なからぬこと。
「あれはただ、彼女の母国への里帰りと小旅行を兼ねた、ただそれだけのことのはずだった。私も彼女の癒しのちからを知っていたし、そんな彼女に万が一が起こるなんて思いもしなかった」
ただ、母国を、故郷を訪れた彼女が旧い友人からの誘いを受け、いい機会だからとそれを望み、また夫もそれを勧めることで、状況は形成されていった。
「けっして険しすぎるほどではない、ごく一般的な登山のはずだったんだ」
天気もよく。
気候も厳寒期にはほど遠い。
トレッキングやハイキングから、一歩先に進んだ──それらにほんの少し毛の生えた程度の、友人からの遅い出産祝いとしてのなんでもない登山行。
「あっけない、連絡だった。すべてが終わってから私は、起きた出来事を知ることになったんだ」
知ったとき、そう、この世で最も愛した女性は、この世の人では既になくなっていたのだ。
「愛するものの死に目にすら私は、立ち会うことができなかったんだ」
行かせてしまった私は、永遠にそれを喪った。
生まれたばかりの幼いきみに、母親というかけがえのない存在を喪わせてしまったんだ──……。
「お父さん。お父さんはなにも──」
なにも悪くない。悪くないよ。父の言葉をそう言って返し、否定しようとした。
それはしかし、かつて既に『抱いてしまった』今更変えようもない父の想い。そのとき今よりずっと遥かに幼く、なにひとつとしてなしうることかなわなかった翠がここで否定をしたところで、それになんの説得力も有効性もない。
言おうとして、気付いて。口を噤む。
自分はここでもやはり、なにもできない。できないのか。幼き日、父に対しそうであったように。今この年代を、翠のまわりを取り巻く、いとおしむべき多くの人たちに対して進行形で、そうであるように。
「いいや、私は明確に、罪を犯しているよ。娘である翠、きみに対して」
「えっ?」
「かつてと、今。ふたつの罪はあまりに許しがたいことだ。きみに許してもらえなくたって、仕方のないことだとさえ、思う」
「お父さんが、わたしに?」
罪。……罪、だって?
言われた言葉に、翠は戸惑いを覚える。お父さんがいったい、わたしに対しなにをしたというのか。
罪があるというのなら、それは翠の側にこそあるはずのものだ。
幼さゆえの無邪気の残酷で、父を傷つけた。
この世で最も愛した女性を喪った、その人を。傷つけたのは自分だ。
「ひとつは、きみの前から逃げ出したこと。父親としての責任を捨てて、立ち去ってしまったこと」
そう、だからそれは翠自身が原因なのであって、けっして父が責められるべきことでは──……、
「そしてもうひとつは、すべてについて是正をする勇気を、今日まで持ち得なかったことだ。私の弱さにも、きみとの距離も、……きみの、誤解も。なにもかも」
「──誤、解?」
弁明や言い訳をする風でもなく、こちらに責任を向かわせる意図もけっしてそこに感じさせず、父はただ、その「誤解」という二文字を発声した。
わたしの、誤解。──父への?
「きみにあの日、あのとき。きみ自身へと抱かせてしまったそれを、私は私の責任として、解きほぐさねばならないのだと思う。たとえそれが手遅れの、今更のことだったとしても」
それまで、父の目は伏されがちだった。しかし今は違う。
まっすぐにこちらを見て、やさしさの──ほんとうに「父親」としての色を湛えているかのように、翠をその瞳に映している。
「弱く、愚かな父親だった。こころのすれ違いを生んだことに気付くことすら、冴に指摘されるまでできなかったほどに。私はダメな父親だよ」
包まれるような感覚が、翠の身を覆っていく。
今、お父さんは。目の前にいる父は、これまで殆ど交流のなかった娘に対し、せいいっぱいのつとめを、なにかを果たそうとしてくれている。
きっとそれは、救いになることだ。
父にも。翠にも。あるいは両者にとってとても苦しいことかもしれないけれど、それでもその先には拓けるものがある。そう、信じられる。
「私はあの日、ほかの誰に対してでもない。私自身の罪深さと、不甲斐なさに打ちのめされたんだ」
父の言葉を、待つ。
紡がれたそれらを──翠もまた、受け止めなければならない。
「ゆるぎなく、言える。あの日、きみがはじめてみせたちからの光は、ほんとうにやわらかくて、あたたかくて。──救いの、赦しの光に見えた」
まるで、こんな私をさえも励まし、導くかのように──……。
神々し、かった。
(つづく)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます