35/ 聖と、翠と、父への気持ち

 

 姉の元気な姿を見るのが、メイには辛かった。

 

「できたよー、ごはん」

 

 今晩の献立は、豆腐のかにかまあんかけと、ほうれん草のおひたしと。お肉屋さんで買ってきた、コロッケ。

 本来、出来合いのお惣菜には殆ど手を出さない姉である。そのくらいに料理好きだし、得意だということも妹としてメイは知っている。お肉屋さんにはお肉屋さんの、家庭には家庭のコロッケの美味しさがそれぞれにあるにせよ、どちらが食卓に上ったとて満足させうる腕前を、姉は間違いなく持っているはずだった。

 そういった点からも、わかる。

 鼻歌交じりの夕食の準備の中にある、ぎこちなさも。

 つくる以上によく食べる性質の姉が自身の茶碗によそった白米の量が、少食のメイと比べてさえ、僅かであることも。

 そしてお惣菜に頼らない性質のはずの彼女が夕食の一品をそれに甘えていることからも──、だ。

 姉の見せる元気が。立ち居振る舞いが、カラ元気にすぎないということ。

 血のつながった妹として、わからないメイではない。

 

「お姉ちゃん、あのさ」

「ほら、食べよ食べよ。日本にいる間はいっぱい、メイの好きなものつくってあげるからね」

 

 そしてきっと、気取られてしまっていることを姉自身もまた、察している。気付かれたくないと、気付かせたくないとメイに対し思いながら。

 もうすぐ欧州に戻ってしまう妹を送り出す姉としての様相を崩すまいと、そうあろうとして。

 

「お姉ちゃん、そんな無理しなくたって──」

「無理なんかじゃ、ない」

「あ……」

「私が今、なにかしてあげられるのはメイに対してだけだから。無理なんか、してないよ」

 

 交わした言葉は、苦笑とともに向けられていても、発した彼女自身への棘を隠しきれていなかった。

 涼斗にできなかったぶん、せめて──そんな枕が言外に、文頭にのっかっているようですらあるように、メイには感じられた。

 

「メイのお姉ちゃんでいることを。お姉ちゃんらしくやらせてよ。私が今やれることを……お願い」

 

 姉はあの事故のあと、二日間だけ学校を休んだ。そしてまた何事もなかったかのように、日常に戻りつつあった。学校でのその様子は翠さんや氷雨姉からメイは時折聞いてはいたけれど、表面上はさほどショックは見せていない、とのことだった。

 でもだからこそ、とふたりは姉を評して言った。

 あり得ないことだ。おかしくなっていないことが、おかしい。

 ひどく無理をしているのではないか──それは姉の最も近しいふたりからの、共通見解。

 涼斗というひとりの少年のことを、引きずっていないわけがないではないか。

 未だ彼は入院をしている、容態や、連絡といったこともなにも報せが舞い込むこともなく。もしかすると姉の携帯には直接なにか、一報が届いているのかもしれない。

 だがそれも、メイから敢えて踏み込んでゆくにはあまりにも勇気を必要とすることだった。だから姉の見せるカラ元気にいったい、事故の一件がどれほど深い爪痕を残していったのかも想像や推測の範疇でしか考え得なかった。

 

「──大丈夫。涼斗からはあれから、なにもないから。先生や友だちからも、なんにも知らされてない」

 

 本人からも、外野からも──そういう事情をたった今、姉自身の口から耳にするまでは。

 

「もう、いいんだ。私はなんにもできなかった……求めて、もらえなかった。きっとこれって、ふられたようなものだからさ」

 

 つとめて明るく聞こえるよう声をつくる姉の表情にはしかし、それらの言ひとつひとつを紡ぐたび、鈍痛じみた苦みの色が差す。

 よくなんて、ない。気にしていないはずがない。けれど彼女は、気にしないようにしようとしている。

 

「私の言葉じゃ止められなかった。私が贈ったものは、一緒に連れて行ってもらえなかった。ひとりでああすることが涼斗には一番、正しいことだったんだ。──そこに私は、いない」

「お姉ちゃん」

「だからお願い。ここには、いさせて。メイのお姉ちゃんに。なにかしてあげられる存在で、いさせてほしいんだ」

 

 それは一種の逃避行動でしかない、のかもしれない。

 学校に戻っても彼女はけっして、少年の座っていた机に目を向けることはないのだという。

 そしてバイトも、少年が夢を追う最前線であった文芸部の活動場所、彼女の本来勤務する食事処『憩い』という場所も──あの日以来、シフトを断り、欠勤をし続けている。

 彼の残り香を避けるような、それらは行為である。

 姉は、傷ついている。間違いのないことだと、メイはそれを理解する。

 生きてるなら、はやくお姉ちゃんに連絡の一本くらいよこしなよ。涼斗兄。

 あんたのことを、想って、想って、想い続けて──こんなにもうちのお姉ちゃんは傷ついてしまったんだもの。

 

「恋人なんでしょ──そんくらい、してあげてよ、涼兄から」

 

 味噌汁のおかわりを注ごうと席を立った、……無論、メイのぶんのおかわりだ、姉の背を見遣りながらメイは思う。

 

「お願い。お姉ちゃんにこれ以上なにかを、諦めさせないで」

 

 幼なじみで、恋人なら。どうか、お願いだから。

 そうなるにふさわしいとか、ふさわしくないとか関係ない。

 深く繋がっていたいと願ったのは、お姉ちゃんのほうなのだから──勝手な都合で、拒まないで。

 どうか、戻ってきてよ。

 

     *   *   * 


「なんか、さ。すごく、静かだよね」

 

 アルバイトの、シフト時間がもうすぐやってくる。

 そろそろ着替えて準備をしなくては──座敷から腰を上げかけたとき不意に、氷雨せんぱいが言った。

 

「ついこないだまでいなかったやつが戻ってきて、それであらためていなくなっただけなのに。それと、キッチンからウチらを見守ってくれてた子がいない、たったそれだけなのに」

 

 それでも四人中、ふたりいないわけだから。半減にはなるわけか。

 せんぱいは、自分の言葉に自分で回答する。夜の営業前の『憩い』には、今は店長も休憩中で席を外しているから、翠と氷雨せんぱいのふたりきりだ。

 事故のあと、入院を続けている、……その身の安否すら正確なところは定かではない涼斗せんぱいはもちろん、来ていない。来れようはずもない。

 もうひとり、聖せんぱいの姿も今、ここにはない。

 あれから数日間、二日か、三日か。学校を休んだ聖せんぱいは、学校には出てくるようになった。けれどバイトは欠勤を続けている──「ごめんね」の短いメッセージを翠もまた、アプリ越しに受け取っていた。

 だからひとり、翠はこの『憩い』のアルバイト要員として、ここ数日、彼女の穴を埋めるべく立ち働いている。

 はじめは不安だったけれど。ひとりになったその状況下でもなんとかお仕事をこなしていける程度には、聖せんぱいは十分な作業のやり方やそのために覚えておくべきことをこれまで一緒に勤務してきた日々の中で、翠に対し教え込み、身につけさせてくれていた。だから、なんとかなった。

 

「ああ、ほんとに。アタシはこんな風になってほしくて、ふたりをくっつけようとしたわけじゃないんだけどなぁ」

 

 頭をがりがり掻いて、氷雨せんぱいは天を仰ぐ。

 

「こんなんじゃ……傷つくだけじゃん。こやまん自身も、柊ちゃんも──背中を押したから、こうなってしまったみたいに」

 

 くっつくべきふたりだと、思った。だから、背中を押したのに。

 その、背中を押したというその行為自体が、誤っていたのだろうか?

 

「──今日、学校でさ。柊ちゃんがぽつんと言ってたんだ」

「聖せんぱいが……?」

「うん。休み時間、開け放った窓。風がけっこう強く入ってくる、それに吹かれながら──ウチら、窓際だからさ、席。『私じゃ、ダメなんだよ』って」

 

 深い息を吐く氷雨せんぱい。彼女にとっての親友の、そう発した諦めの言葉はどれほど苦く、心苦しく思えたことだろう。

 

「『精一杯がんばってみたつもりだったけど。きっと、たぶん。あいつにフラれたんだよ、私。言葉じゃなくって、行動で。本質的に』──ってさ」

 

 それは翠たちは知らずとも、聖せんぱいが自らの至った心境として、友だけでなく妹にも伝えた結論。ひとあし先に、妹の耳に届いた言葉。

 

「ほんと……ふたりを傷つけるために、背中を押したんじゃないのに。なにやってるんだろうな、アタシ」

 

 前髪を持ち上げて、座椅子の背もたれにせんぱいは体重を預けた。

 そう、あの出来事が傷つけたのは、ただ涼斗せんぱい本人だけじゃない。聖せんぱいも、ふたりのことを応援していた氷雨せんぱいでさえ──……。

 そんな、大切な人たちの表情が翳る中で、……やっぱり翠は、翠の魔法はなんにもできない。事態に変化を、影響を与えられない。

 

「雪村ちゃん?」

 

 その気持ちの沈殿に、意識せず俯く翠があった。様子に気付いた氷雨せんぱいから呼びかけられ、傾けていた目線を上げる。

 

「雪村ちゃんまで、そんな暗い顔しないの。全部、こっちの話。あいつらの話と、アタシの話なんだから。悪いね、気を遣わせちゃって」

「あ──いいえ。そんなことは」

 

 と、否定をしきれず、翠は視線を惑わせる。目に入ったのは、店の壁の柱に掛けられた、大きなカレンダー。今日の日付と、そして。

 

「あの、せんぱい。明後日はわたしも、ここにこれないです」

「明後日? ああ、祝日だもんね? ま、予定とかあるだろーしね。アタシはどうしよっかな」

 

 父と。この世で唯一血のつながった肉親と相対し、言葉を交わす日。

 ひとりで考え込んでしまうことも多いだろう氷雨せんぱいを、この文芸部で独りにしてしまうことへの疚しさもあった。それでもその日だけは譲れない。

 うまく話せるかどうかなんてわからない。自信もない。

 怖い、という緊張もある。親子は、親子としてともに過ごしてきた時間は殆どなくて、あまりにも短い時間の共有しかこの十数年間になかったのだから。父の姿を思うだけで、鼓動が早くなる。

 けれど、やっぱり今、それと同時に強く思うのははっきりと『会いたい』という父への気持ちだった。

 会いたい。

 話したい。

 会って、言葉を交わしたい──。

 話したいこと。話してほしいこと。

 訊きたいこと。聞いてほしいこと。

 今の翠だからこそ、いっぱい、いっぱいある。

 

「行ってらっしゃい」

 

 せんぱいの声に頷いて、翠は席を立った。

 ふたりしか存在しない『憩い』は未だひっそりと、静まり返っている。

 

 

          (つづく)

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