32/ 聖と、翠と、衝動

 

 

 柊宮神社での、巫女のアルバイトは久しぶりだった。

 いや、アルバイトというか……手伝いというか。

 もともと、宮司をつとめる叔父夫婦のスタンスとしては気の向いたとき、手の空いた身であればという風に、ごく限られたものとしてかまわないというもの。

 どうしても必要なときには──それこそお盆やお正月だとか──呼ぶからと、そのような類のものだった。

 そんなわけだったから、聖は涼斗を神社に呼び出した。彼のために焼いたシフォンケーキを、当の涼斗自身へと渡すために。

 境内において待ち合わせた涼斗は、聖の差し出したシフォンケーキの紙袋に、喜びとも、すまなさとも。感謝とも、困った風にともとれるような曖昧な表情とともに、小さく「ありがとう」を言った。

 そうした以外、とくになにもなかった。

 特筆することのない──恙ない時間が、神社での、社務所でのあれこれをやっているうちに流れていった。

 

「──メイ」

 

 その、巫女装束のまま。上着だけを羽織って、スーパーの買い物カートを押す。

 ひと足ごとに、ちりん、と、横髪に挿した髪飾りの鈴が鳴る。そのたび、今朝のメイの様子を思い返していく。

 涼斗には言えなかった。言えば心身疲弊した彼に一層、自分や周囲とのことを気にさせてしまうだろうことが想像に難くなかったから。

 彼は変わらず無口で、その表情に明るさはなかった。

 言ってほしい、話してほしいと思いながらしかし、聖にはそれが彼の重荷となってしまうことが恐れられて、立ち去る彼を見送るだけだった。

 いや、彼から言葉を発してほしかっただけじゃない、ほんとうは自分も、メイのことや、私のこと。いろんなことを涼斗に聴いてほしかったのかもしれない──。

 

「私も……ヨーロッパに?」

 

 連れていくつもりだったと、メイは言った。

 口調や言い回しは、メイ自身の意志でという風ではなかった。きっと家族はひとところにいたほうがいいのだろうという、両親の考えにそれはよるもの。

 言われてみれば、今の家族の状況が奇妙なのは間違いのないことなのだ。

 娘ふたり、その片割れだけを日本に残して、ほかは皆海外にいる。それはなかなかに起こり得ない構造では、たしかにあるのだろう。

 

「──でも、行くなんて」

 

 そんなの、考えもよらぬことだった。

 最近の聖はほんとうに、涼斗のことばかりで必死で、頭がいっぱいで。自分がどうする、どうなるかなんて、到底思考の中にありはしなかった。

 だって──あいつはあんなにもボロボロで、傷ついていて。放っておくなんてできなかった。

 聖は、まがりなりにもあいつの「恋人」なのだから。

 なんとかしたい。してやりたい。そのことが考えの大半を占めることはきっと、おかしなことじゃあない。

 

「──違う」

 

 そう、違う。そんな「恋人」かどうか、記号やお題目によることではない。

 手に取った、里芋の袋を握りしめる。ごつごつした手触り──聖の腕力なんかでそれが潰れるなどということは到底ない。

 頭がいっぱいだったのは、理屈じゃない。私がそうしたかったからだ。

 好きなやつが元気がなくって、それが嫌だったんだ。あいつのことをなんとかしたかった。方法も、策もないままそれでも、涼斗に元気を出してほしかったんだ。

 だから、そうして必死になるばかりで。

 メイにあんなことを言わせてしまった。思わせて、しまった。

 でもそれは違う。誤解だ。──誤解なんだよ、メイ。

 

「メイを嫌いに思ったことなんか、ない」

 

 苦手なのはメイじゃない。私が苦手なのは、メイと向き合ってなにも誇れるものがない、私自身だ。

 メイの眩しさと比べた時の、自分のありきたりさ。それが嫌で、苦手で、どうしようもないんだ。

 癒したかった──治ってほしかったといってくれたメイのことを想う。

 聖は、メイの魔法のちからを知らない。翠の持つものと同質のちからを妹が持っていること。だから純粋に、妹が自身のかつての重傷を厭い、治癒を信じ、またその才能を信じてくれているのだと、ただそれだけを認識している。

 医者がどうこう言うなんて関係ない、いつかきっと怪我なんて治る、また野球に打ち込むことができれば姉は立派にやれるのだと──そう信じてくれている、と。

 だがメイの納得していない自分自身のありきたりさをしかし、聖は嫌というほど自覚してしまっている。聖にはわかっているのだ。

 あの怪我がなくたって、自分の愛した野球という競技について、自分の才はごくありふれたものにすぎなかったということ。

 選手として、以前の問題として。体格・体力面で一枚劣る、競技の経験こそはたっぷりあれど、同年代の「少女として」ごくごく平凡な、野球を好きというだけの存在でしかなかった。

 怪我のせいで、とメイが思ってくれるのは嬉しい。けれどそれは買いかぶりだ。

 どのみち私の。柊 聖の、競技者としての賞味期限は──……。

 

「ごめん、メイ」

 

 そうやって妹の抱いてくれる希望を、現実や客観といった感覚をもとに握りつぶそうとしている自分に、年長者の、姉としてのいたらなさの罪悪感を聖は感じずにはいられない。同時、それに立ち向かうガッツのない自分もまた知っている。

 思い知っているから──覆しようのないことをわかっているのだ。

 それは聖には自覚し得ぬことではあったけれど、涼斗の絶望を構成する諦めと相通ずる部分のある達観であった。自分の無力、抗いようのない現実、状況。聖と涼斗に違いがあったならそれは認めてしまったタイミングが単独であったことと、そのために受け容れ受け流し得た聖に対し、何重もの高波に薙ぎ払われるように自身の容量を圧倒的に超えてしまった衝撃が破壊していった、涼斗のこころという差異であった。

 

「私、話をしなくちゃ。メイとも」

 

 悲しい気持ちを引きずらせたまま、ヨーロッパに帰していくわけにはいかない。それでは送り出せない。

 

「私はメイの──お姉ちゃんなんだ」

 

 久しく、……いつからだろう、涼斗の笑顔を見ていない。

 好きな人だけでなく、実の妹の笑顔までもを翳らせて、消してしまって。そのままでいいはずがない。

 そんなの、嫌だ。

 恋人として、なにもできなくても。

 姉としてならできることはきっと、あるはずだ。

 大切な、愛する者へと。

 

     *   *   * 

 

 それまでのすべてが砕けてしまったこころというのは、あまりに脆く、不安定なものだ。

 人間が生きていくうえでそこにエネルギーを通電させねばならないし、送ったその活力に、こころそのものを反応させねばならない。

 にも、かかわらず。深く傷つき、破壊されてしまったこころというのはただその表層に元気と呼べるものを流してやったところでごく微量の感覚しか生じさせないし、反応をしない。当人が望むにしろ、望まないにしろ──あるいは壊れてしまった本人は、自身が元気であることを望むか否かさえ、わからなくなる。

 無理もない。自己という不安定な存在が在った、こころという足場そのものが砕けてしまっているのだから。

 そこに、噛み合わない、幾重にもぐちゃぐちゃに重なった自責と疑念と贖罪意識と自暴自棄とが絡み合う構造がかたちづくられていく。

 否、かたちなんか成していない、ただ澱みあっているだけ──……。

 そうなったとき、誰よりどうしていいかわからず、

 誰より苦しみ、

 誰より重荷に苛まれるのは、そのように壊れてしまった本人である。

 なにかがおかしい、苦痛と感じながら──壊れていることを納得しきれない、認めきれないからなお一層、それは降り積もる。

 

「あ……涼斗せんぱい?」

 

 支えてくれ、いたわってくれる周囲の人々に感謝とすまなさを抱きながら同時、自分が「そうなってしまった」原因を飽くことなく脳裏に何度も何度も、重ねてフラッシュバックさせていく。

 それを責めるでなく、「自分がどうすればよかったのか」「自分がどう間違っていたのか」に絶えず繰り返し、思いを馳せる。

 そして、辿り着いてしまうのだ。否定と衝動に。

 自分が「生きている」ということ。「生きていなくてはいけない」こと。

 死にたい、ではなく。

 生きていたくない。

 生きているべきではない──そうする積極的な理由がない。そんな答えにすら、支配される。

 

「翠。どうしたの?」

「ああ、いえ。葉月さん。あそこ、うちの部活のせんぱいが──」

 

 そのとき翠は、父と会うことについて悩み、葉月を呼び出していた。

 待ち合わせの、交差点。文芸部の先達である少年を、視界の隅に見つけた。

 一見、少年の様子はこのところのものとなんら、変わらなかった。車道を隔て、横断歩道の向こう側の距離である。少年の内面がどのように渦巻いているかなどと、翠には知る由もない。

 

「──せん、ぱい?」

 

 少年のこころには、無力感があった。罪悪感があった。逃げ出してしまいたい気持ちが、あった。

 繋ぎとめていたのは、翠たちとともに綴る小説と、

 逃げ場所になっていい、好きだと言ってくれた聖だった。

 それを彼が自ら意識をして、かなぐり捨てたわけではない。蔑ろに思い不要と断じたのではない。

 少年は自認することなく、壊れていた。

 つらい、苦しい。逃げ出したい、なくしてしまいたい、なくなってしまいたい。そのほうがきっと楽だ──「それが正しい」。その感性が溢れ出る状態が、彼本来の平常であるはずがない。

 だが彼自身はそれらを思いながら、認めていなかった。

 また彼の両親もまたそのような感覚を正面から認める性質を持ち得なかった。だから彼の感覚はそうやって育った。

 悪しきことではない。感覚が、そうだったのだ、皆。

 父母は、叱咤以上の術を知らなかったし、彼自身、己が加療を必要とするような状態であると思いはしなかった。発想が、なかった。

 言葉に応えねばならぬ。

 応えられぬ自分を嫌悪した。

 

「え……」

 

 だからそれは起こるべくして起こったこと。そして、突発だった。

 芽生えても無理のなかった、衝動なのだ。

 想う人たち。小説への想い。かけられたあたたかさ。それらを彼方に忘れ去ったわけではない。

 こころの片隅に、間違いなくあった。

 だがそのひとときだけは、上回ってしまった。瞬間的な、衝動が。

 このほうが、いい。

 このほうが、早い。──と。

 翠の視界の先、交差点を自動車が行き交う。

 横断歩道はまだ、信号を紅く灯したまま。

 誰もこんな状況で、歩を進める者なんていない。おとなしく、待っている。

 そう、シフォンケーキの入った紙袋を提げた、彼以外は──……。

 

     *   *   * 

 

 今夜は妹のことだけを考えるのだと、決めていた。

 思いつくかぎり、メイの好きな料理を。ありったけの好物をテーブルの上に並べてやるのだと、気持ちを固めていた。奮発して、食材も買い込んできた。

 スモークサーモンを添えたキャロットラペ。マカロニサラダ。既に完成して、食卓に並んでいる。

 鍋の中ではくつくつと音を立てて、手羽元と煮卵の親子煮が甘辛い醤油の出汁の味を吸っている。

 あとはエビのチリソースをつくって。炊き込みご飯が炊けるのを待つだけ。

 料理にも、キッチンでの並行作業にも慣れきった聖である。そうして準備を万全に整えて、リビングにメイが入ってきたのを視界の片隅に捉えたところだった──傍らに置いていたスマートフォンが、着信をした。

 

「……なに、それ」

 

 浮かび上がるのは、翠の名前。画面をフリックして通話をした彼女の声は、聴いたことのないものだった。

 

「なんの、冗談。やめてよ」

 

 声が、震えている。

 翠も、聖も。

 姉の見せた異変に、メイも怪訝そうな表情をこちらへと向けている。

 

「そんなの、あるわけないじゃん」

 

 すべての音が、遠くなっていた。貧血のように、視界に不快な光が瞬いていた。

 立っているのが──ただそれだけで吐き気を催すようで、その場にへたりこんでしまいたかった。

 翠からの、電話。その震え声は、涙と混乱に包まれている。

 聖自身もまた、己の聞いた言葉が、返し発した声がまるでわけのわからないものに思えて、「嘘だ」以外の感情を抱けなくなる。

 嘘だ──なにを、言っているの。

 

「涼斗が、自動車に、飛び込んだ、って」

 

 ほんの数分間、飲み物を口にしていない程度でありながら、喉の奥は既にパサパサに乾いていた。

 ごくりと、嚥下した唾を、その擦過に痛みを感じるほどに。

 人とは。人間とは一瞬の情報や感情でこれほどまでに変化をするのか──……。

 

 

          (つづく)

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