31/ 聖と、翠と、行く者、来る者

 

 

 シフォンケーキを、焼いている。

 

「──お姉ちゃんは、ほんとに一生懸命だね。涼兄ちゃんに対して。涼兄ちゃんに、ついて」

 

 それは聖の記憶する、聖のつくる料理の中で最も、彼が──涼斗が「おいしい」と言ってくれたもののひとつ。

 メイプル風味にしようと、少しだけメイプルシロップを入れた生地。ほんのちょっぴり、うっかりそれに触れた指先からは、覗き込んだオーブンから漂うのと同じ、甘いふわりとした香りが軽く広がる。

 

「ずるいよ」

 

 彼の様子は変わらない。なにも。

 口数少なく、無気力に。ただ小説だけは書いている。学校には、来ている。すべてに身が入っていない──そんな様相。

 自分が彼になにをできているのか、わからない。

 なにをしてやれるか──なにを、したらいいのか。

 ほんとに恋人だって、これでいいのか。

 このケーキを焼いたからって、なにかが具体的に変わる予測なんてない。彼を喜ばせることができるかどうかすら……それこそ、無理に「ありがとう」とぎこちない笑顔とを強要するだけになるかもしれない。

 ただ聖は、じっとしていられなかったのである。涼斗のことで必死で、頭がいっぱいで。

 

「メイは、家族なんだよ。お姉ちゃんの、妹で。……お姉ちゃんがメイのこと苦手なのわかってる、だけど」

「──メイ?」

「少しくらい、メイも見てよ。お話、してよ」

 

 背中から不意に投げかけられた妹のそれら言葉に、ハッとした。させられた。

 泣きそうな、そのように聴こえた、切れ切れの、声。

 意識して厭うて、遠ざけていたわけではない。しかし彼女の帰国以来、優先順位としてけっして上位にはなかった、最も近しい肉親。メイの声音は震えていて、悲痛を帯びて。

 会話をまったくしてこなかったわけでもない。毎朝、毎晩。きちんと食事を一緒にして。ふたこと、三言、言葉を交わして──当たり障りなく。なにかを掘り下げるでもなく。

 どこにでもいる、ごくふつうの家族としての他愛のない、当たり前の浅いやりとりくらいはやっていた。そのつもりだった。

 避けていたわけではない。そのつもりは、なかった。

 

「いっぱい、伝えたいこと。あったよ。話さなきゃってことをずっと、考えてた」

「メイ。私はべつに──そんな、苦手、なんて」

「メイはお姉ちゃんを癒したいのに。なんにもできない。お姉ちゃんがお姉ちゃん自身を、顧みてくれない」

 

 そのために、メイは帰ってきたんだ。左右の瞳を伏せて頭を振りながら、妹は聖へと告げる。

 

「涼兄よりも、お姉ちゃん自身を大事にしてよ。お姉ちゃんだって失ってる。打ち込むものがあった頃のお姉ちゃんを、思い出してよ」

 

 言い置いて。そうして背を向け、居間を出ていこうとする。

 スリッパの音が、二度、三度。響いて立ち止まる。ツーテールが背中に揺れて、深く息を吐いたメイは──自分の内側から爆発しそうな感情を極力抑えようと、試みていたのかもしれない。

 

「メイ」

「──来週、戻るよ。ヨーロッパに。ほんとはメイは、お姉ちゃんを連れて行かなくちゃいけなかったんだ。お母さんたちはそうするつもりだった」

「え……」

「でもメイは嫌だった。嫌だったし、もっとしたいって思うことがあった。だから言えなかったし、……言い出せなかった」

 

 だから、話そう。話そうよ。

 

「姉妹らしく──さ。今夜。ごはんのときにでも、いいから。一緒に、さ」

「メイっ」

「嫌なんだ。もう、こういうの。うちの家族のかたちが」

 

 扉を開き出ていった妹は、あとにスリッパの音と、衣擦れの音。そして後ろ手に閉じたぱたんという音を残していく。

 聖はその後ろ姿を追えぬまま、立ち尽くす。

 普段、そこは日常生活を送る、当たり前に勝手知ったる自分の家の、居間のはずなのに。

 不思議なほど、独り取り残された寂寥感を感じていた。

 広い、広い、どちらがどの方角かもわからないなにもない砂漠に、まるで置き去りにされたように。

 前を歩いていた妹の背中が不意、視界から一瞬にして消え失せて、道標を見失ったかのように──、だ。

 

     *   *   * 

 

 涼斗せんぱいの書く物語には、いくつもの翳が差していた。

 意図的なものだろうか。無意識によるものだろうか。それとも、意識しながらあふれ出してくるその雰囲気を自分ではどうしようもなく、抑えきれなかった結果なのだろうか?

 就職浪人と、プロレスラー志望の青年のお話を読むのはずいぶん、久しいことのように思える。「すまない」「読んでほしい」と言って渡されたプリンタ用紙の束は、そこに千々に乱れたといっていい文章を躍らせている。

 

「『──ケンは言った。おれにはもう無理だ、どうにかなってしまいたい。消えてなくなりたいんだ』」

 

 そう、かつての彼の文章とはどこか異質で、ズレを翠は感じていた。

 

「なんだか、せんぱいの文章じゃないみたい」

 

 それでいて同時、今のせんぱいの状況を鑑みれば──これがにじみ出てきたというのもわかる。

 手を抜いているわけではない。むしろ、執筆のための必死さ、苦難さという点ではきっと、彼自身の体感は今まで以上のはずだった。

 彼が『憩い』での三者三様の執筆の情景に戻ってきて以来、何度も見ていた。手を止めては悩み、その行為に苦戦をしている様を。

 だがそれでも、今こうして読む彼の文章は、以前にそうであった緻密さをどこか欠いているように思えてならなかった。

 散文的で、とめどなくて。よくいえばとめどなく溢れたものを綴り──悪くいえばまとまりに欠ける。そんな文の流れが、川の流れのようではなくあちこちから入り乱れる沖の海の波のように紙面に広がる。

 それでいて絞り出すように、悲観的な雰囲気が。必死の言葉が文面に続いている。その空気が作品全体を包み込んでいる。

 そうなるくらい未だ、出来事がせんぱいのこころに影を落としているのだと、翠は思う。

 

「聖せんぱいなら──でも」

 

 涼斗せんぱいのこころのどこかが、今はぽっかりと穴が開いてしまっている。恋人になった聖せんぱいなら、それを埋められるのかもしれない。たとえそれが代替行為でしかないにしても。

 

「それはきっと、聖せんぱいにも大変なことで」

 

 もちろん、涼斗せんぱい自身にも。

 ふたりがどうか、うまくいってくれればいいと思う。

 同時、不安や疑念を抱かずにもおれない。

 涼斗せんぱいの抱えたことは果たして、涼斗せんぱい自身や、聖せんぱいだけに背負いきれるものなのだろうか、と。

 大人のひとたちに助けてもらうべき領域にもしもそれが踏み込んでしまっているのだとしたら──もしもそうならば、いったい誰が涼斗せんぱいを助けるべきなのだろう? 誰が、助けられるのか?

 家出までをした、涼斗せんぱいを。家族は──せんぱいの両親は、彼らが発端だとするなら、その立ち位置から救うことができるのだろうか? ……いや、そもそも彼の抱えたものに気付くことができるのだろうか?

 ときとして家族の言葉は、行動はほかのなにより、その人を傷つける。傷つけたことのある翠だから、思わずにはおれない。

 

「翠。ちょっといいか」

「冴さん?」

 

 ふと、ノックが。冴さんの声が部屋の扉の向こうから響く。

 椅子の背を鳴らして、どうぞ、と返したところに、部屋着のジーンズ姿の冴さんが入ってくる。

 

「翠。明後日の祝日なんだけど、予定は空いている?」

「祝日? ──はい、『憩い』のバイトも入っていないですし」

 

 スケジュールの確認──ということはどこか、お出かけだろうか。多忙な日々を送る冴さんにしては珍しい。土・日・祝日関係のない類のお仕事だから、そうそうないことだ。

 そのように思った翠だったから、脳裏に描いたカレンダー通りになにげなく、素直に返したのだけれどなぜだろう、そこから少し、冴さんの歯切れが悪い。

 

「そうか。……いや」

「冴さん?」

「──その、なんだ。翠、以前にお父さんと会ったのは、いつだった?」

「お父さん、ですか? それなら、えっと。たしか──」

 

 そして急な問いを投げかける。

 父と直近で顔を合わせたのは、たしか……翠が中学の一年へと進学をしたときのこと。その頃であった、と思う。

 以来、中学の卒業のときも。ついこの間、高校に進学をしたときも。父は海外にいて、会えはしなかった。──それでも祝いのメッセージをくれたことが、けっして無視をされなかったことが彼の中での翠自身の必要性を感じ、自分から父に望むものとしては十分なくらいに満たされたことだった。

 

「会いたいと、思う?」

「え」

 

 そりゃあ、会いたいか否かで、会いたくないほうを選ぶような拗れた関係性ではない。親子なのだから──まして、親ひとり、子ひとりの家族構成で、そのふたりが日本と海外とに離れて暮らしているのだ。拒絶し会いたくないわけではけっしてない。

 翠には翠の、そしてたぶん、父には父の負い目がある。だからすれ違って、会えずにいるだけ。そう、翠は理解している。

 

「一昨日、電話で話したんだ。で、そのときに翠の近況も私の知る範囲で話した」

 

 そうなのか。

 自身のプライベートを冴さんが父に話したとて、それについて勝手だ、プライバシーの侵害だとどうこう思う翠ではない。

 冴さんは保護者であり、自分はそうされる側。その立場を翠なりにわきまえているつもりだった。親である父へと、折に応じて翠のことを報告するのだって当然の行為である。冴さんがきちんとしていればいるほど、必要なこととして行われることだろうと理解している。

 

「明後日の午後に、日本に戻ってくるそうだ。ほんの一日にも満たない滞在ではあるそうだが」

「え……」

「いろいろと、心配ごとや考えごとも多いようだ、と翠のことを伝えたら、心配していた。こんな甲斐性のない父親でよければ──なんて情けないことも口走っていたけれど、話をしたいと言っていたんだ」

 

 腕組みをして、冴さんは扉に背中を預ける。

 

「お父さんが──わたしを? わたし、に?」

 

 すべてが当たり前で。だから、想定外のそれは提案だった。

 仲の悪い親子というのは、当たらない。

 尊敬も。遠さも。その距離感ゆえの、事務的に収まりがちな関係性とやりとりも。抱くすべての感情に、負の感情はそこにない。

 翠が抱くマイナスは自分の、自分からの、父への負い目だけ。

 うまくいっていないとは思っていない。でも、互いが傍にいないことが当たり前の親子で、冴さんの告げた言葉は想定の外にあったもの。

 

「お父さんに、会いに行かないか。翠。多少、顔を合わせるのがぎこちなくても。やりにくくても──お前が、嫌でないのなら」

 

 頷きは、冴さんの言葉のとおりにぎこちなく、ひと呼吸遅れたものだった。

 伝えたいこと。

 聞いてほしいこと。

 相談に乗ってほしいこと。

 思えば思うほどにこんなにもあったのかというくらい、その瞬間にひとつひとつ、脳裏をかけめぐっていく。

 お父さんに、会える。

 その高揚が、翠のなかにはたしかにあった。

 

 

           (つづく)

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