33/ 聖と、翠と、「また」
目の前で起こった出来事は、はじめ翠にとって、なにがなんだか、わけのわからないことだった。
ただ起こったことを羅列するならば、
──涼斗せんぱいが、いた。
紙袋をひとつ、手に。ティーン層向けのごくごく一般的な、大抵どこのショッピング・モールにでも出店しているような低価格帯アパレル・ブランドの袋。
せんぱいはそれを取り落としながら、歩を進めた。一歩ずつ、ふらふらとぎこちなく。ゆっくりと。
目の前の、車道へ行く。行き交う自動車たちの流れの中へ、濁流の河へと入水をしていくかのように。
人々は翠に遅れ、ひとり、ひとりと視線を彼に注ぎ始める。
右へ、左へ走り去る自動車たちはまだ気付いていない。そして──、
「……え」
そして彼は、踏み切った。
陸上競技において人間がそうするのとまるで、そっくりに。
刹那ののちに響いたのは、ヒトとモノとがぶつかりあう、鈍く、不快な音。
悲鳴が。怒声が。瞬間的に広がっていく。
交差点で、それが起こった。起きて、しまった。
翠の、目の前のことである。
一部始終を、翠は目にしてしまった。
ふわり舞い上がった少年と、その瞬間にはっきりと──翠は、目が合った。
いったいそのとき、彼はどのようなことを思い、翠の姿にどのように感じたのであろうか?
ただ翠は、なにもできなかった。
「せん、……ぱい……?」
呆然と立ち尽くして──世界のすべてから音が消失していくような、全身を駆け巡る凍てつく冷たさの感覚に、両腕を抱くだけだった。
「翠」
ざわめきが、続いている。どこからか、交番を飛び出してきたのだろう制服姿の警察官の人たちが、現場となったそこをいつしかめまぐるしく駆け回っていた。
「──翠!」
警笛の音。その鳴り響く中を、甲高い救急車のサイレン音が、遠くから次第に近付いてくる。きっともう、二、三分としないうちにそれはやってくるだろう。
この場所に。出来事の起こってしまった、交差点に。
「あ……葉月、さん……?」
震えるばかりだった翠の肩を、友の掌が掴んで、揺すっていた。
「翠。……大丈夫、翠」
問いながら、しかし同じくその瞬間を目撃したであろう彼女の顔もまたそこに顔色を失い、声を掠れさせていた。
それでも辛うじて翠より先に自失より戻ったのは、葉月さんにとって目の前で起きた出来事を織り成したその人物が、彼女には記号として以上に認識されていない相手であったこともあるのだろう。
だが、翠は──翠にとって、その人物は。
「翠の、先輩なんだろう。あれ」
鼓膜を埋め尽くすサイレンの音。タイヤをアスファルトに軋ませながら、不意にそれが停止する。
ばたばたと路面を駆けていく、救急隊員。その手にはAEDの四角いケースが抱えられている。そしてそれを追うように車輪を鳴らして押されていく、背の高いオレンジのストレッチャー……担架。
「動ける? なら、動こう」
吐き気じみた不安と不快の感情を自ら吐き出すように、葉月さんはそう翠へと語りかける。
じっとりと汗ばんだ掌は、翠の肩を握ったままだ。
「落ち着けるなら、落ち着こう。あたしも含めて。それで、翠の思う、翠が必要だって思うことをやろう」
* * *
だから翠は、今ここにいる。
うす緑色をした通路。明かりの乏しいそこに、葉月さんとともに。
なんの因果か、涼斗せんぱいの運びこまれたその場所は、葉月さんも、翠もよく知る──勝手知ったる、朋花さんの入院するその病院だった。
救急車への同乗を、許されたわけではけっしてない。
そもそもが、なにかしようと思ったところでせんぱいのもとへは殆ど近寄れすらしなかった。人垣と、それを現場から遠ざけようとする警官たちとの両方に阻まれて。
せんぱいが、無事なのか。どれほどの怪我を負ったのか。意識はあるのか、ないのか。それさえ、見て取ることすら、一瞥さえできなかった。
現場を取り仕切る人々にとって、翠と葉月さんは群がる野次馬の一部にしか埋もれて映り得なかったのである。
だから、たとえどんなに翠に、触れた相手の怪我を癒すちからがあっても、そんなの夢のまた夢、という状況であった。
それどころか葉月さんが傍にいてくれなかったら、こうして後を追ってくることもかなわなかったろう。
彼女が手を引いてくれたから。どうにか混乱の中、翠は呼び止めたタクシーの後部座席に身を滑りこませることができた。
あの救急車のあとを追ってください。そう、運転手のおじさんに伝えてくれたのも水ではなく、葉月さんのほう。
誰かのことを心配して、病院に駆けつける──それなら、慣れてるから。
葉月さんは言って、震える翠の肩を隣で抱いていてくれた。言いながらしかし、身を寄せた彼女の鼓動も早鐘を打って、いつもより大きなリズムを刻んでいた。
そんな彼女がそれでも傍にいてくれたから、翠は逃げ出さず、追いかけてくることができた。
震える声で、聖せんぱいに電話をし、ことのあらましを伝えることができた。
「翠。こっち」
十字路の向こう側から近付いてくる足音と人の気配とを察し、葉月さんが翠の袖を引っ張る。
通路と柱の陰に身を潜めたのは、結果的に正解だったのだろう。
案内の看護師とともに現れたのは、スーツ姿の男性。そして品のいい身なりをした中年女性。……会ったことはないけれどその顔立ちや雰囲気から想像できる、たぶん涼斗せんぱいの両親。
動揺し、周囲をきょろきょろと見まわす彼らに姿を見られていたら、せんぱいとほぼ同年代の自分たちがここにいることを不審に思われたろう。そうなれば、どう説明をしたらいいか翠にはわからない。
土埃に汚れ、少しくしゃくしゃになった紙袋を翠は抱く。
なんの偶然か、せんぱいの救急車を追おうとする中でそれは翠が見つけ、拾い上げたもの。
車道に出る瞬間。飛び込むその直前。涼斗せんぱいが手にしていて、そして手放した紙袋を、混乱の中で翠は見つけていた。
置き去りになんかできなかった。──事故の現場保存だ、なんだと考えればそれはけっして褒められた行為ではなかったかもしれないけれど──……。
「──っ、……?」
そして背後に、翠は足音を聴く。涼斗せんぱいのご両親とはまったく、異なる方向からのそれは音であり、気配。
暗がりからやってきたその影はふたつ。大きいほうと小さいほうの並んだ、それは姉妹だ。
柊姉妹の姿を、翠はその眼に見る。
「──翠」
「聖、せんぱい」
「涼斗、涼斗は」
なにを話せばいいかわからなかった。ここに聖せんぱいを呼んだのは、自分のはずなのに。
喉の奥が詰まる。メイさんに背中を抱かれた聖せんぱいの表情にはその時、顔色がなかった。彼女の視線が見るのは、翠が自身の両腕に抱いたもの。
「翠。……それは……?」
汚れ、ひしゃげた紙袋。喧噪の中、翠が拾い上げたもの。残してはおけないと、涼斗せんぱいが手放したそれを。
「あ……これは……」
これは、涼斗せんぱいが。言おうとして、差し出された聖せんぱいの両手にびくりと反応をする。
恐る恐る、身から紙袋を放して、彼女のほうへと差し出す。
紙袋には、喧噪の中どこか、誰かがうっかりそうしてしまったのだろう、踏み潰された靴跡が残っていた。その表面を軽く、なぞるように聖せんぱいは払う。
「これ。歩いてた涼斗せんぱいが持っていたものです。これを放してから、涼斗せんぱいは──その。涼斗、せんぱいは」
決定的な言葉は、言えなかった。どうして彼女に言うことができるだろう。
「そう。そ、っか」
紙袋を、聖せんぱいは開く。取り出したのは、透明なビニール袋に包まれた、潰れたケーキ。クリームもなにもない、シンプルな見た目の。焼き型のとおりに真ん中にドーナツ状に穴の開いた、まるまる1ホール分はあるそれはひしゃげて、不格好にそのかたちを崩している。
「そっか、──私は、『また』」
「せんぱい?」
彼女はそんな崩れたシフォンケーキを抱きしめながら、両膝を折った。
「『また』、なにもできなかった。できてなかった」
「『また』あいつに、置いていかれたんだ」
潰れんばかりに、全身を折り曲げて、ケーキを彼女は抱きしめる。
肩が震え、嗚咽が漏れだしていく。
「わたしは『また』、なんにも──……」
くずおれた聖せんぱいを、翠も、葉月さんもただ、黙って見下ろす以上のことができなかった。彼女の流す涙が、病院の床に雫をぽたぽたと、落としては染み込まずに濡らしていく。
止まぬ嗚咽が、通路に響く。
ケーキは潰れ、
少年は車に身を投げ出し、
少女は崩れ落ちた。
* * *
いつ頃から、彼はそれを書き溜めるようになったのだろう。ちょっともう、具体的な日付だとか、明確な部分であるものは、そうすることを始めた当人自身、覚えてはいない。
主に、みっつの対象に向けての言葉。そうやって分類できるであろうそれらはとめどなく脳裏に滲み出ては溢れて、その処理を困難な心境へと、少しずつ涼斗を苛んでいった。
ひとつには、聖や翠たち、親しい人々に対してのこと。……そうだ。こうやって綴るのを始めた、その段階においては、聖と涼斗のあいだにあった関係性は単なる幼なじみとしてのそれでしかなかった。聖が「それ以上」を望み、そのことを告げてくれたのはもう少し、あとのことだった。
『好きだよ。好きだとも。
僕だって、聖。きみのことが。
だからどうか、責めないでほしい。自分を。
きみの言葉は嬉しかった。少しでも気の慰めになった。
僕が許せなかったのは、きみを逃げ場所にしたいと、
そう言ってくれたことに甘えたいと思う自分自身だったのだから』
もうひとつは、自分が起こした行為による結果の影響を受けるであろう、いくらかの人たちへ。
学校とか、予備校とか。そこに矛先が向けられ責任が追及されるという事態は、涼斗にとって我慢のならぬことだった。
『誰も悪くない。誰のせいでもない。
これはただ自分が衝動に身を任せた、その結果でしかない。
犯人捜しはしないでほしい。あくまでこれは身内の問題だ』
そういった言葉の、文章のひとつひとつが、そこには詰まっている。
奇跡的にというべきだろうか、それともきちんと頑丈につくられたおかげでだろうか、画面に無数の亀裂を刻みながら無事に、落下の衝撃で画面を点灯させた──涼斗のスマートフォン。
白い手袋に包まれた警官の指先が、それを拾い上げる。その中に、彼の言葉が秘められている。
そう、遺書というやつだ。
死にたかったわけじゃない。
そんな能動的なエネルギーを持った、前方に向かって進む意志の結実ではない。
みっつめの対象に向かい、データの海の底深く、文章は語りかける。
走り去った救急車。サイレンの残響が消えていった向こう側に、執筆者本人を遠く見送りながら。
『僕はもう、生きていたくない。死にたいというのでなく、生きるということに無理を感じる』
父と、母に対して。
『生まれてきたのが僕以外であったなら、せめてもう少しあなたたちを満足させられたのだろうか』
伝え、問う。
そして謝罪をする。
『無意味と徒労の、実を結ばぬ十数年を浪費させてしまい、すいませんでした』
『生きるのが自分である必要は、ない』
少年の率直で、抱え込んでいた想い。
その吐露は、あと少しで向けられた人々に知られることになる。
(つづく)
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