28/ 聖と、翠と、涼斗への気持ち 1

 

 

 食事処『憩い』の、建物としての構造は少し、独特である。

 単純な階数だけで言えば三階建て、ということになるのだろう。その二階部分から上が、ただ階上に進んでいくというものではない。

 一階。キッチンと、客席。飲食店の店舗として営業をする、ごくありふれた、当たり前の部分。そこはとくにこの場合においては論じる必要はない。

 倉庫兼事務室として使われているのが、階段を上がった二階部分である。ちょっと埃っぽくって雑然としてはいるけれど、それでも必要十分なスペースはそこに確保されている。

 

「涼斗はここまで上がってくるの、はじめて──だよ、ね」

 

 そしてその二階から、片隅の小さなスチール製階段を、中二階や屋根裏部屋に上がるように、階段部分だけをくりぬかれた天井へと進んでいくと、そこにカーペット張りの更衣室兼休憩室としての、三階が待っているのである。

 ふたり、ないしは三人。そのくらいの人数が横になれるだけの範囲に、丸い座卓がひとつ。壁の棚に荷物は置いて、貴重品は各自で管理するきまりだ。

 体力仕事の、アルバイト先の職場としての住環境には十分すぎるくらいだろう。なんなら店長は時折、ここで昼寝をしていることだってあるくらいだ──。

 

「……そりゃあ、従業員じゃないからね」

 

 連れ立って『憩い』を訪れた聖と涼斗が、怪訝そうに、そしてなにやら汲み取ったかのように表情をつくった店長から促され腰を下ろすことになったのが、この屋根裏の休憩室だった。

 生憎、今日はいろいろ忙しくてね。かまっていられない。

 使うなら客席じゃなく、休憩室を使ってくれ。コーラくらいは奢ってやるから。

 ──そうして、栓だけ抜いた瓶のコーラをそれぞれ受け取って、甲高い足音を残す金属の階段をふたり、ここに至るまで上ってきたわけである。

 

「いつもここで、聖はすごしてるんだ?」

「え……あ、う、うん。休憩時間とか。シフトの時はだいたい」

 

 ストッキングの両膝を曲げて、スカートの裾を気にしながら座る。座卓の向かいに座った涼斗はひと口、コーラを呷ってからふと、そんな問いを向けてくる。

 

「そう。聖の、居場所なんだ」

「──涼斗?」

 

 それだ。その『居場所』というワード。それを失ったと彼は悲嘆を消すことができずにいるし、そこにこだわり続けているように聖には思える。

 付き合おうと言った自分は、彼に寄り添いたかった。だけれどそのこだわり方が故に、彼は聖を拒絶してしまった。自分には寄り添われる資格などないと──なのに彼はここにいる。もう一度、聖の前にきてくれた。

 逃がせない。このときを。

 訊かなくては、きちんと。彼が戻ってくるに至った経緯を、あれから彼とその周囲に、なにが起こったのかを。

 

「──怒られたよ」

「っ」

「三日目にふらっと戻ったんだ。……これといった、確固とした戻る理由はなくて。ただ、連絡もこなくなったから、なんとなくそうしなきゃいけないのかなって思える瞬間が増えてきて、だから」

 

 だから、戻った。居場所のない、場所に。

 涼斗のそれら言葉はまとまっていない。時系列や順番だって、結果のあとにすぐに冒頭がやってきて、めちゃくちゃ。それはきっと、彼の中でもまだ整理がされていないことだからなのだろう。

 

「親に恥をかかせるな、みっともない、恥ずかしいだろうって。怒られた」

「え?」

「なにも言わなかったこととか。出てって心配をかけたこととか。連絡をしなかったことには、なんにも言われなかった。──恥をかかせたって、そう思わせたことがダメだったみたいだ」

 

 涼斗の両親は、「涼斗が」心配をさせたのではなく。彼を心配していたからということは言わずに──自分たちが学校に、世間に恥をかいたことを、否とした。

 

「なんで。子どもが家出なんかしたら。急にいなくなったりしたらふつうは不安だったり、心配だったり」

 

 少なくとも涼斗はそういう風にせめて「叱られ」たかったはずだ。

 両親の、両親のための理屈や感情ではなく。親から子への叱咤としての言葉を少なくとも、望んでいたに決まっている。

 ドラマなんかでよくあるじゃあないか。

 

 ──「親にあまり心配をかけるものじゃない」。

 ──「心配かけてごめんなさい」。

 

 こういうことって、叱られ、諭されてそのうえで、そうやって地、固まるものなのではないのか。

 そんなありふれたやりとりがなく、ただ彼はもといた場所に戻った。否、あるいはそのような光景がありふれているのはもしかすると絵空事の世界でしかないのかもしれないけれど──……。

 親に、親の都合のために怒られて受け容れられる子どもなんていない。

 責められるのなら、子どもはせめて、親に「叱られ」たい。そういうものだ。

 ただでさえ、誰だってそうに決まっている。それなのに、……最悪だ。

 今の涼斗に、その行為は絶対的に嚙み合わない仕打ちだと、聖には思えた。

 

「俺は。俺の価値は、父さんたちの恥や世間体、以下らしい」

 

 ああ、ほら。言わんことじゃあない。思わず聖は目を伏せ、深い息を吐く。

 涼斗は今、自分自身の居場所に、己の持つ価値というものにひどく懐疑的になっている。──なって、いた。彼の両親が彼にそうした仕打ちは、火に油を注ぐものにほかならなかった。

 懐疑であったものが、強く明確な否定へとマイナス方向の昇華を果たしてしまうほどに。

 どんな言葉を吐いたところで、どう触れ合ったとしても、子のことを大切に思わない、心配しない親なんていない。なんて、お題目のようにありきたりで飽きるほど思春期の子と親とのあいだに繰り返されてきた理屈なんて、なんの救いにも解決にもならない。

 親にとっては敢えて伝えるまでもない前提であったとしても、子にはそれは前提ではない。絶対であり、伝えてほしい言葉なのだ。

 彼に対し両親は、彼のことを思い心配するのならばそれを示すべきだった、少なくとも涼斗は意識してかあるいは無意識にか、そうされるのを望んでいた──連絡をとることをあきらめず、投げ出さず。自らの必死さで連れ戻すべきだった。そして連れ戻した彼を「叱る」べきだったのだ。

 自らに価値を見出せなくなっていた彼にはそれが必要だった。心配をされるだけの価値がある己を自覚させ、自らが必要であること、両親にとって意味があることを納得させるために。残念ながら彼の両親はそれを怠ってしまったけれど。

 両親と、涼斗の精神的な距離の遠さがあまりに遠くて、その遠さに聖は慄然とせざるを得なかった。聖自身、両親に対し肉親としての近しすぎる距離感を抱く関係性を構築できてはいなかったし、物理的な距離を今は国内と国外とに分かれて遠く隔てている──それでもこんなに、……こんなにもあんまりだなんて。

 同じ子どもとして、親の側の立場より涼斗にシンパシーを感じる自分の依怙贔屓をわかってはいる。だがそれも自然な感覚だ。子どもには子どもの、親に対する理屈がある。まして聖は涼斗の居場所になりたいと、付き合おうとさえ投げかけた幼なじみという存在だ──どちらの側に立つかなど、自明の理だ。

 

「涼斗。……泣いたの?」

 

 彼は結局、両親と向き合えていない。この騒動を通じてさえ、なお。

 

「泣けるなら、泣いたほうがいいよ」

 

 立てた膝の上に肘を載せて、くしゃりと前髪をかきあげた彼は見えるか見えないかわからないくらい微かに首を左右へ振る。

 

「いいんだ、そういうのは」

 

 声も、消え入りそうで。

 空っぽな彼が、そこにあった。

 

     *   *   * 

 

 そんな彼に、自分ができること。それを聖は探し、考える。

 いや、違う。最初から自分に選択権なんて殆どない。できることなんてきっと、限られている。

 翠や氷雨のように、彼が捨てようとしているものを拾い上げて、同じ方法で、同じように向かっていくこともできない。

 彼の両親が彼に与えた絶望を、その両親がそうすることがやり得たように直接的に取り払ってやることもできない。

 なにより彼が聖と結ばれることを、彼自身望んでいない。その資格を彼自身に認めていない。

 好きだと言ってくれた彼は、その気持ちを聖と繋げあうことを、自分自身に許していないのだ──。

 

「泣きたいとかじゃ、ないんだ。なんかもう、ほんとに」

 

 ほんとに自分が、ぽっかりと空っぽになったみたいで。

 わからない。わからないんだよ。変なんだ、自分自身が。

 覇気のない彼の声に小さく頷いて、受け容れながら。聖は一度降ろした腰を持ち上げる。

 屋根裏も同然の部屋である。けっして高い天井ではない。すぐそこに、屋根の梁がある。長身の翠などは、アルバイト終わりの着替えのときなんかには今にもすれすれで、ぶつかるのではないかというくらいに、低くそれがある。

 身を屈めるようにしながらゆっくりと、へたりこむように座り続ける彼のもとへ聖は歩み寄る。

 

「いいよ、涼斗はそれで。──言ったでしょ、好きだよって。付き合いたいって」

 

 私が居場所になってやる、なんて偉そうなロジックは使えない。それはけっしてすべきではないし、そんな立派に胸を張り続けられるほど、聖は大層な人間ではない。

 

「私はなにも、そんな重すぎることを涼斗に望んでるわけじゃないんだ。……少なくとも、私の中では」

 

 涼斗に対してじゃない。

 涼斗へとこうありたいという、自分自身に対してそれを、望んでいる。

 こうしたい、と願った。

 だから、こうする。それだけのことだ。

 

「私は、涼斗が好き。幼なじみだから、理屈じゃなく、当たり前に。私にとってはそれだけの価値が、涼斗にあるんだよ」

 

 居場所が、自分の価値がわからないという少年が、だけれど聖には大切だった。

 絡めた両腕を彼が振りほどこうとしなかったのは、そんな聖を受け容れたからではない。わかっている。彼にそうするだけの心理的余裕も、気力もなかっただけのことだ。突然の出来事に戸惑い、対処をしかねただけだ。

 それでも聖は、涼斗を抱きしめた。

 両腕の中に、ぎゅっと。

 涼斗の居場所がどこか、なのではない。

 ここに涼斗がいる。だから、彼の居る場所で、彼を聖は抱きしめた。

 

「なん、で」

 

 聖が涼斗を失いたくないと、思ったからだ。

 なにをしてほしいわけでもない。なにを求めてもいない。

 ただ自分がそうしたかっただけ。繋ぎとめたかった。消え入りそうな涼斗を、そのままにしたくなかった。

 

「私の居場所は、涼斗の隣だよ」

 

 彼の、それが見つからなくても。

 自分の居場所はそうでありたいと思った。

 幼なじみ、なのだから。

 互い、物理的にや精神的にそれぞれの肉親と距離を隔てたふたり。一番近しい存在はこうして向き合う両者なのは間違いのないことだった。

 

「また、言うよ」

 

 涼斗の居る場所に、自分もいたい。その気持ちがただ、あふれて。

 

「好きだよ、涼斗」

 

 彼が、かけがえない。

 

「だから、望ませて。その希望を、私に捨てさせないで。私のことなんだ。持っていて、いいでしょう」

 

 彼に、自分の前で泣いてほしい。笑ってほしい。

 これまでと変わらず、共有し続けていきたい。幼なじみ、ただそれだけのままでもいい。

 

「涼斗がどんなになっても、私が今、そういう気持ちなのは確かだから」

 

 涼斗を放したくない。霧散させたくない。

 聖から涼斗への、それが心からの気持ちだった。

 

 


          (つづく)

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