29/ 聖と、翠と、涼斗への気持ち 2
ふられた、という彼女の発したその言葉を飲み込むまでに、いったい何秒の時間がかかっただろう。
「──え。……え?」
その時点での理解が遅れたぶん、そこから先に続いたいくつかの言葉もまた、認識がじわりと遅れてやってくる。彼女の。氷雨せんぱいの胸に抱いている、その気持ちだとか。願望だとか──。
「驚いた? 言ってなかったもんね。……ていうか、誰かに言うのはじめてなんだよね、これ」
知っているのは氷雨せんぱい自身と、拒絶をした涼斗せんぱい。当事者のふたりきりだけ。だったと、いうことらしい。
「けっこう自分の中では一大決心だったよ。すっごく心臓バクバクで。あれ、こんなに小心者だったっけな、って思うくらいに緊張した」
かつてを懐かしむ表情で、そこに寂しさはあっても既に悲しさの影を落とすことなく、せんぱいは言う。
まあ、初恋だったからね。でも安心してよ、もうそんなには引きずってはいないから。──いや、多少は引きずってるか。わざわざこやまんと柊ちゃんとに、ふたりきりの時間を用意してあげるくらいなんだし。
苦笑すらそうやって、口許に浮かべながら。眼鏡の中で懐旧の光をその瞳に、せんぱいは揺蕩わせる。
「なんでメイたちに、そんな大事なこと」
「だって、伝えたほうが納得しやすいでしょ。今の状況。なんでアタシがわざわざこうしたのかって。手っ取り早いし、受け容れやすいと思って」
「そりゃ、そうだけど──ねぇ?」
「ええ、それは……そう、なんですが」
自分たちなんかが聞いてしまっていいことだったのだろうかと、翠も、メイさんも思わず顔を見合わせる。他人の色恋沙汰なんてそうそう、首を突っ込んでいいようなことでは──……、
「あ」
「首、突っ込んでるでしょ。もう十分、ウチら三人とも」
翠たちが思い至ると同時、一本とったり、という風に笑う先輩のしてやったり顔があった。
「──ま、ほんとにもう、気にしたり落ち込んだりはないからさ。大丈夫だよ。少なくとも自分が「こうなるべきだ」って思ったことにそれを利用できるくらいには納得も割り切りもできてる」
「……いいの?」
「いいも、なにも。相手のあることだから。そんで、その相手が柊ちゃんなら、仕方ないかなって」
勝てなくても仕方ない。
あのふたりの関係性なら、そこに割って入れなくても無理はない。
「そりゃそうだよね、って思ったから。あのふたりを見てたらそうならなくちゃ嘘でしょ、って今は思うから」
だからアタシは、あのふたりの背中を押す。
こやまんを、柊ちゃんのほうへ。
柊ちゃんを、こやまんの胸の中へ。
「そうなるべきだ。そうなるのが自然だって、思うんだもの」
恋と、失恋。ふたつの経験を重ねたぶんだけ、きっとせんぱいは、年齢の一年という差以上に、翠より大人なのだろう。
向き合わなくてはならない現実と、向き合ったぶんだけ。
誰かを好きになって。
その誰かが、ほかの誰かを好きで。
それがふさわしいと思ってしまう自分を、知ってしまったのだから。
あるいは聖せんぱいより、涼斗せんぱいより、彼女はずっと大人びているのかもしれなかった。
* * *
「俺は。……僕は、こんなにも、なさけない」
彼が自分自身を「俺」ではなく。「僕」と一人称するのを、聖は久しぶりに耳にしたように思う。
いつからだったろうか、彼の、彼自身への呼称がそうなっていたのは。気づけばそうだった──それが、昔に戻ったようだった。
そして、耳元で囁かれるその声が、言葉がなにより、彼のものとして聖には自然なものに感じられた。
「聖がそうやって僕になにかをしようとしてくれている。なにか、してくれているのに。僕からはなんにもない。なにもできない。なのにこっちからだけ求めるなんて、間違ってる」
「──いいんだよ。求めてるのは私のほうなんだから。なにかをしてほしくって、望んでいるんじゃない」
それでもなお、彼は自身を責めようとしている。認めずに、いる。
彼自身の問題じゃあない。彼を求めているのは今ここでは、こちら側。聖のほうなのだ──どうか、そのことをわかってほしい。
「僕は、聖が怪我をしたときになにもしてやれなかった。僕はなにもできなかったんだよ、聖が一番つらかったときに」
そんなの──そんなの、決めつけだ。
「あのときが人生で一番つらかったかどうかなんて、まだわかんないよ。それに涼斗はなにもしてなくなんかない。変わらずずっと、一緒にいてくれた。傍にいて、同じ歩幅で隣を歩いてくれた」
かつてそのとき、口数が少なかったのは聖自身のせい。彼が聞こうとしなかったわけじゃない。彼は聖のぽつりぽつりと漏らす言葉、ひとつひとつを同じ時間を共有するあいだ、ともに過ごすだけの中できちんと聴いてくれていた。
なんにもしなかったなんて、そんなの違う。
「一緒にいてくれた。見守ってくれていた。それだけで、じゅうぶん私は涼斗にいろんなことをしてもらっていたよ」
抱き寄せる聖にしかし、涼斗は抱きしめられるがまま、彼の側からその両腕が持ち上がることは未だなかった。
その気力を聖は、けっして求めてはいない。今の彼にどうしろ、こうしろというのが酷であることを聖も、理解をしていたから。
「そういう涼斗が、好きだったよ。嬉しかったよ。あったかく、なれた。──だから私も今、涼斗をあったかくしたい。ほんとうに、それだけなんだ」
だからつらいというのなら、今だってつらい。
ちからになりたくて。
でも、それを涼斗は望んでくれなくて。
ちからに、なれていない。
「ずっと、好きだったよ」
「……その言い方は少し、ずるいよ」
「かもね。──涼斗だって、もっとずるくていいと思う」
「え……」
そんな、生真面目じゃなくていい。
「私を居場所にして、なんて言わないよ。言えない。そのくらい真剣に思い悩んできた涼斗の気持ちを、外から無理やり引っ張って自分のほうに持ってこようなんていうのは、私だって違うと思うよ。だから。だから、ね」
こちらが勝手に望んでいることなのだから。
彼のなかにある本流になれなくていい。それが、聖の思ったこと。
一緒でいたい。繋がっていたい。だけれど、彼の絶対的な中心でなくてもかまわない。彼にとって今、最も重要で、意味があって。最もこだわらなくてはならない部分があるのなら。
自分と彼とのあいだに変わらぬ繋がりがあるのならば。自分は傍流でいい。
彼が目を背けた先で、待っていたい。
「私は、逃げ場所でいい。涼斗がしんどかったり、つらかったときに。私とそういうときに、一緒にいてほしい」
居場所でなく、逃げ場所。つらさを薄められる場所。
ほんとうに涼斗がほしい居場所が手に入らなくて。見出せなくて。それを得られないなら。せめて自分を逃げ場所にしてほしいと思う。
居場所がないと嘆くなら。それが苦しいなら。逃げたって、いい。私のところに逃げてきて、ほしい。
「そんな。それじゃあ僕は……軟弱で。卑怯者じゃないか」
「人間誰だって、多少は賢しくて、ずるいものなんじゃないの?」
涼斗はこれまで、自分にできることを、自分にできる範囲で精いっぱいやってきたのだと思う。それ以上を求めることで苦しむのなら、べつに求めなくたっていいじゃないか。
「話を聞いてもらって、甘えて──そんな一方的な関係性」
「一方的に望んでるのは、私だよ。……いいんだよ。いいの」
医師を目指さなくてはいけない。
作家という夢も打ち捨てられ。
自分にできた精一杯も、無意味とされた。
そうやってぼろぼろになった彼をこうして抱いている。彼を抱いていたいと願ったのは、聖のほうなのだ。
「私はここにいる。涼斗のところを離れない。涼斗が、好きだから。──私のところに逃げてきていい。今が、しんどいなら。私はただ、涼斗と一緒にいたいだけ」
見返りなんて求めない──なんて言ったら、恰好をつけすぎだろうか?
でも、ほんとうにそうなのだ。
涼斗が苦しんでいる。そのことについて、聖はほんとうに、彼の逃げ場所になりたいと思った。彼を抱きしめたい、守りたいと。
そこに涼斗の意志は別問題。ただ聖がそうしたいと願っただけ。それすら涼斗に拒まれても、それは仕方のないことだと思う。
願うだけならば──聖のこころのままにあるべきことだろう?
そう。願いは、聖が望むこと。
受け容れるかどうかは、涼斗が決めること。
ふたつはそれぞれ、独立している。
噛み合わなくていい。ただ聖は願い続ける。そうすることをただひたすらに変えずにいればいい。
「──聖。僕、は」
それまで、聖に抱き寄せられるだけだった涼斗の両腕が、少しずつ。ほんの少しずつだけ、彼の意志と繋がって、力を帯びていく。持ち上げられ、彼に密着をした聖の腰を、背中を包んでいく。
まだ、ぎこちない。不器用に、力もたどたどしい。
強く強く、抱きしめるというそれには程遠い。
「僕は、……僕だって、聖が好きだ」
「──うん」
「だから、どうするのが正しいのかわからない」
聖を受け容れたい。その言葉に甘えてしまいたい誘惑と。
惚れた相手だからこそ、こんなにも格好悪いところばかりを見せる自分を──涼斗はそう感じている──恥じて、これ以上見せたくないという嫌悪感とのあいだに葛藤をしている。背反しながら両者が、涼斗自身のなかにある。
……わかる。わかるよ、涼斗。今、聖自身もそうだから。
自分の願いと。その願いそれ自体が涼斗を追い込んでしまうのではないかという不安とに揺れ動いていた聖だから。わかる。矛盾しながらたしかに胸の内にあるふたつの感性というものが、成立しうること。
「ずるいよ、聖」
そう、呟きながら。その両腕に込められたちからが聖を抱きしめた。
矛盾も、葛藤も孕んだそれはけっして、聖に対して、あるいは涼斗自身に対しての全幅の、欠けたるところの微塵もない類のイエスを示したものではないのだろう。
正しいなんて自信、きっとどこにもない。
それでも涼斗が踏み出した恐る恐るの一歩、その発露でしかない。
「聖。……こっち、」
寄せていた頬を持ち上げる。視線と視線が、絡み合う。
もしかしたら彼は泣いているのであろうか、と思った。しかしまっすぐに見た彼の双眸は、やはり不安や迷いの光に揺らいではいたけれども、けっして涙の雫に濡れてはいなかった。
情けないと自分を評した彼の、「好きな女の子」の前での「男の子」の部分がその点においては譲らなかったのだと思う。
泣かなかった彼の強さを褒めるべきか、
泣けなかった彼を憂うべきか。
そのように評価をしようとする資格それ自体が聖にあるのかも、わからない。
なにもかもわからなくなった彼と同じに、聖もまた正解なんてわかりはしない。
ただわかったのは、彼の瞳が今、聖に伝えようとしたこと。聖とのあいだに結びたい行為がある。言葉より雄弁なそれを聖は理解し、重ねた視線をそっと、瞼の奥に閉じた。小さく、頷いた。
繰り返す。
すべてが祝福や納得に満ちていた瞬間ではない。
涼斗にしろ、涼斗をそうしてやれなかった聖にしろ。これは、ハッピー・エンドの帰結ではない。絵空事のように日々というのはたった一瞬、ひとコマだけを切り取って完結などしてはくれない。
ただ聖は涼斗の逃げ場所となることを──たとえそうであったとしても彼と繋がりあうことを、離れないことを望み、
涼斗は双眸を閉じた聖の唇に、唇を重ねた。
そうなることを予期した瞬間から、聖は受け容れていた。
少年と少女の、それはつたないはじめてのキスである。両者、いずれもが望むにせよ望まぬにせよ、それ以上に進むことはないし、たったそれだけがふたりにとって十分すぎるものだった。
聖からの、「好き」という感情。
涼斗自身の「好き」という感情。
いずれをも、少年が肯定し受け容れた、その結果だった。
抱き合い、唇を重ねあう。たったそれだけが──ふたりの、精一杯だった。
こうしたいと願った、それぞれに向いた気持ちに、ただふたりは従った。
(つづく)
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