27/ 聖と、翠と、戻ってきた涼斗 2
メイさんは、口を尖らせる。
「あのね、メイ言ったんだ。お姉ちゃんに。なにもそこまでこっちがやってやる必要あるの、って」
涼兄ちゃん──メイさんがそう呼ぶ、小山 涼斗という人物に対して。
ちょっと。ううん、すごくがっかりしてるんだ、メイは。……不満げであることを隠そうともせず、言う。
「氷雨姉がそうするって言うから同意したけどさ。──信じて、いいんだよね」
同じことは今朝、お姉ちゃんにも言ったよ。なんにもあっちから言葉は返ってこなかったし、そのまま黙って出て行っちゃったけど。
「どうかな。それはふたり次第、かな」
「涼兄次第、でしょ。そもそも本人、ちゃんと来るかどうか」
駅前のコーヒーショップである。ぼやくメイさん、冷静な氷雨せんぱい。ふたりとともに、翠はテーブルを囲む。
メイさんは──きっとお姉さんがそうであるように彼女もまた甘党なのだろう、特大のチョコレートパフェのてっぺんから生クリームを山盛りひとすくい、スプーンにとってぱくり。一瞬の至福の表情ののち、多難を思い出してか深い息を吐く。
大丈夫だよ。来るよ。行くよ、ちゃあんと。こやまんは。
コーヒーをすすった氷雨せんぱいの言葉に怪訝に、目線を向けて。その確信めいたものに首を傾げる。
「なあに。同級生、同好の士の信頼ってやつ? それならお姉ちゃん、既に似たような関係性で裏切られてるんだけど?」
「メイさん」
「手厳しいなあ、もう」
だから。大丈夫だって。氷雨せんぱいはそう言って、言葉を繰り返す。
「なんで」
「ほかならぬ、あのふたりだからだよ。そして声をかけたのがほかならぬ、アタシだから、かな」
ツーテールの髪の毛先を、指でくるくると弄びながら。氷雨せんぱいは感情的になりがちなメイさんとは対照的に、冷静なままだった。
「アタシには、ここまでしかできないから。逆にこの範囲までのことならなんとなくわかるっていうか──サ?」
またひと口すすったコーヒーの苦みが、考えていたより勝っていたのだろう。
一瞬眉をしかめて、しかし穏やかにせんぱいは天を仰ぐ。
「アタシだからわかる。アタシにしか、わからない。あのふたりをアタシの立場で見てきたのは、アタシだけだから」
来るって、わかる。
わかんなきゃ、おかしい。少なくともアタシだけは、ね。
「あのふたりが、ふたりだけにとって特別だってこと。──ウン。わかるよ」
* * *
日曜日。午後一時、駅前の大時計の下で待っていて。
こやまんにもう一回きちんと言葉、聴かせてやりなよ。
こやまんから訊きたいこと、今度こそきちんと、たっぷり引き出してやろうよ。
「──っ」
それらの言葉はみんな、氷雨から投げかけられたものだった。
そうだね、そのとおりだよね。──と、全幅の納得と同意を以て、聖はけっしてその言葉のひとつひとつを信じることができたわけではない。
寧ろ、半信半疑。ほんとうに彼女の言うようにもう一度、対話のチャンスはくるのだろうか。涼斗は自分と向き合ってくれるだろうか。そんな渦を巻く不安のほうが色濃い中で、氷雨の言葉に躊躇をしながらも従い、休日のこの日、この時間にこの場所へとやってきた。
「涼、……斗」
そして果たして、彼は来た。
けっして、気が進んでやってきたわけでもないことはその表情からわかる。しかしたしかに、その表情を聖へと今まさしく見せているように、ここにいる。
氷雨の言葉は──成った。
「……氷雨が。どうしても、絶対に行けって」
「あ、ああ、うん、氷雨が──……」
「聖のこと。少しでも大切なら絶対に、って。俺が俺自身をどう思ってるかなんてどうでもいいから、ってさ」
氷雨に言われたからじゃなく、聖のことを思って行け、って。
視線を逸らし言う彼もまた、聖同様に氷雨の言葉にすべて納得しているわけではないのだろう。でも彼が従った「聖が大切なら」という理由が氷雨からのみの一方的なものでなく、彼が従うだけの要因たり得たということはほんの少し、聖の弱気になっていた、少年の幼なじみとしての距離感、それに対する自信のようなものへと体温を灯し、奮い立たせてくれた。
無言で向き合う、ふたり。
その中で聖がおずおずとではあっても意を決することができたのは、そういう流れがあったからだ。
「あのっ、……涼斗。どこか、行こう、──か」
ワンピースのスカートの裾を握りながら目線を上げて、所在なさげな少年を眼前に見遣る。
この街において駅前の待ち合わせ場所としてはひどくありふれた、ごく一般的な存在である大時計の下、人の波は途切れることなくあちらからこちら、こちらからあちらへと不規則に、人々の気の向くままに流れゆく。そのなかにふたり、佇んでいる。
ふたりだけが浮き上がっている。それはあの、遠い街での状況と同じこと。場所だけが変わってもふたりはなにも変わってはいない。変えられていない。
「どこ、行こうか」
言葉を繰り返しても、ぎこちなさは消えない。あの日のまま。このときもずっとそれは、続いている。
「『憩い』」
「──え」
だから彼の返したその言葉のそっけなさも、互いの抱くぎこちのなさに起因した部分が大きく影響しているのだろう。
聞こえなかったわけではない。想像をしていなかった、意外な場所を彼が挙げたこと、それがその場所のみを告げる簡潔極まりないものであったことが、聖に彼へと聞き返させた。
この時間、『憩い』は休憩時間中だ。店そのものは営業していない。それでも従業員の聖が頼めば、店長は入れてくれるだろうが──でも、どうして。そのことは涼斗だって知っている、わかっているはずなのに。
小説書きをやめた、捨てようとしているとしてもそれでも、彼にとって執筆活動にいそしんだあの場所は断ち切りがたいものなのだろうか。だとしたら彼を引き戻すこと、その拒絶を解き放つことにまだ可能性はあるのかもしれない──。
「ごめん。そんな大した理由じゃない。……お金、持ってないんだ、ほとんど」
彼の心理を思い、僅か抱いた淡い期待はしかし涼斗自身が続けた言葉によって聖の前から脆くも崩れ去る。
言いながら彼の見せた表情は、羞恥と情けなさとが半々に同居していて、きっと聖などには本来ならば見せたくはないものだったのだと思う。……否、誰に対してだって、誰だってそんな顔、見せたくない。言葉に発して伝えたくなんてないに決まっている。
「また家出されたら困るって、二千円しか渡されてないんだ」
親の庇護下にある「息子」であるところの少年は言って、目を伏せた。
幻滅しただろ。言いながら、自嘲気味の短い息をふっと吐きだす。
「だから、聖と話すなら『憩い』がいい。あそこならゆっくり、話せるから」
ダメかな。ダメって言われても仕方ないって思ってる。
少年は、求めたものを与えられることなく。
目指していたものも失った。
そのうえに自身が恥であると感じることまでもを与えられて──、
「話して、……くれるの?」
心身が傷ついているというのは、このようなことを言うのだろうか。
あれほど聖を拒み、自分自身へと「与えられる」ことを拒んでいた少年は今、そうして弱りきった中で自分の考えたあるべきかたちをその聖に対して貫徹できないほどに、不安定となっている。
あの日。遠い地ではじめ見た涼斗は危うくて、脆く感じられた。頑なであるがゆえに砕けやすい──強い衝撃を与えられれば、壊れてしまうようにさえ思えた。
ああ、その意味では違う。あのときと今、その違い。たしかにあった。けっしていい意味の変化じゃないけれど。
今の彼は立ち上がり方もわからぬ生まれたての動物のように、弱々しい。
突き飛ばされて壊れてしまえるだけの硬質さもない。ただ力をかけられたままに倒れ、起き上がれなくなってしまうだけだろう。そんなぐんにゃりとした力のない印象を聖に、彼は与えている。
「──わかった、行こう。たぶん、入れてくれるはずだから」
返した首肯のなかに、そんな彼への庇護欲というエゴがまったくなかったかといえば、聖自身わからない。違う、違うよ。そう否定はしたく思うけれど、聖もまた自分の感性というものが彼とのやりとりのうちにはわからなくなりつつあった。
再びそこに自信は、なかった。
ただ、彼が語ることを寸分もらさず聴こうと──そのために『憩い』という場所が必要なら、そこに行くべきだ。そう簡潔に思ったのである。
この数日というもの、聖と涼斗のあいだには互いへの対話それ自体、存在し得ないものだったのだから。
* * *
「メイちゃんは納得してないみたいだけどさ。アタシにはわかるんだよ。あのふたりが、あのふたりだけを深く、強く意識をして考えられる特別な組み合わせだっていうこと。ほかの人間じゃ割り込めない。あのふたりじゃなきゃ、ダメだってこと」
こやまんが家族のことで困っている。悩んでいるなら、家族以外しかそのちからにはなれない。
もちろんだからといってそれが、家族以外なら誰でもいいわけじゃない。
「ダメなんだよ、こやまんには柊ちゃんでなきゃ」
きわめて断定的に、氷雨せんぱいは言う。
第三者としてこの場にいるに過ぎない、蚊帳の外の翠としては自身の抱く印象から彼女の言うとおりに、ふたりの関係性とはそれだけ深いのだな、その繋がりを氷雨せんぱいは信頼しているのだな、と思わず首を縦に振って頷きそうになる。
だが、そうでないもうひとりは懐疑的に、頬杖をつきながら眉根を寄せ、首を傾げてせんぱいを見遣る。
「わかんない。なんでそんな、言い切れるの」
納得のいかない状況。認め得ない相手。その人物へと姉が心を砕き、自分自身を尊重する以上に大切にしようとしている。そのことが受け容れられぬ少女は否定的に吐き捨てる。
「涼兄のことはメイだって嫌いじゃなかったけど。今の涼兄はダメ。大変なの、つらいのわかるけど。拒んだのは涼兄のほうじゃん」
だったらもう、それ以上付き合う義理はない。メイさんの考え方はシンプルで、至極正論ではあった。
「そうかもね。でも、それでも今、こやまんのちからになれるとしたら、柊ちゃんだけだ。──少なくとも、アタシには絶対に無理」
氷雨せんぱいは彼女の考えを否定せず、そのうえでやはり、先ほどと同じ意の言葉を続ける。そして、
「アタシはあのふたりがくっつけば、付き合えばいいって思ってる。今でも、もちろん。いろいろ想像したりもする」
「想像?」
「うん。ほんとにそこに、悔しさとか、恨みつらみはないんだ」
想像。
悔しさ。
恨み、つらみ。
そうして吐き出されたそれらの単語はなんだかそれまでとどこか毛色が違う。
「それはアタシにはできなかった、かなわなかったことだから。……ああ、仕方ないなって納得してる。だからあのふたりにはふたりとして、ふたりのあるべきかたちでいてほしい」
「かなわなかった、──って」
その違和感の理由は、すぐにわかった。
翠が、メイさんがそれまで知らなかったこと、知り得なかったことを、彼女は口にしたから。
「フられてるんだよ、アタシ。中学の頃、二年生だったかな。その頃に。……こやまんにね」
「え?」
「告白。ダメだった」
氷雨せんぱいが?
涼斗せんぱいに?
そんなの、はじめて聞く。
「だから、知ってる。わかってる。アタシじゃダメだってこと。こやまんの隣に本当にいるべきがだれなのか。口でどう言おうと、こやまんがほんとうに、一番そばにいてほしい相手がだれなのか、知ってるんだよ」
ほかでもない、本人の口から聞いたから──ね。
「こやまん……小山くんは、柊ちゃんのことが好きだよ。これは厳然たる事実だ」
「涼兄が……」
「あのふたりは、あのふたり同士で幸せになるべきなんだ」
氷雨せんぱいの表情は微かな苦みを帯びて、それでも笑顔で。
それらのどちらの成分にも同じくらいに、懐旧の記憶という色が滲み浮かんで、そこに揺蕩っていた。
「横恋慕の残り香の、勝手な願望だってことも、わかってるけど、さ」
聖せんぱいが「こうしたい」と願ったことには理由があった。
それを拒んだ涼斗せんぱいにもやはり、それだけの理由があった。
氷雨せんぱいも──やっぱり。ふたりを見守り、これまで手を出さずに。そして今こうして力になろうとしていることに理由は、あったのだ。
(つづく)
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