21/ 聖と、翠と、彼の居場所 2


 

 指定をされた駅前広場に出るまでには、幾許かの時間を聖は必要とした。

 土地勘のない県。行き交う人々にあふれた、見ず知らずの地方都市。はじめて降りる、おそるおそるの駅。どこをどう行けばいいかなんて、構内掲示板のサイネージに映された地図に従う以上のこと、できるはずもなく。

 行きたい方向と真逆を突き進んでいたことに数十メートルは進んでからようやく気付き、慌てて踵を返す。

 待っている、と。そう電話口にて告げた少年を信じて。彼の姿を追い求めて。

 人の波にぶつかってしまわぬよう気を付けながら、きょろきょろと、この駅のどこかにあるはずの──ここにいると言った少年を探す。

 

「涼斗……涼斗っ」

 

 電話をかけて、確認することを奇妙に恐れる自分を、聖は自覚していた。

 今、ここではそれはすべきではないこと。

 ほんとうに彼がここにいるかどうかを、疑うのでなく。──連絡を取るとはそういうことだから──彼がここにいると信じて、彼の姿を探す。

 自分はそうすべきだと思う。聖は自らのその認識のままに、流れゆく人々の姿を、顔を次々、交互に見遣っては落胆を重ねていく。

 今日、この日。この時間。この駅の、このあたりにいる。

 そう伝えた幼なじみの顔が、今はなによりも見たい。

 彼の姿を。その無事である様をはっきりと、この目で確認したい。ああ、元気そうだ。よかった、と。安心したい。そう願う自分がいる。

 血眼、というには大袈裟だったかもしれない。けれどはやく見つけたいと願うその感情は間違いがなかった。

 

「! ……え。命?」

 

 不意、ポケットのスマートフォンが着信を告げて、涼斗からかと力任せに引っ張り出す。だが、違う。そこにあったのは国際電話を報せるその相手の名。

 なんでこのタイミングで、と思った。海外にいる、留学中の妹。

 だけれどちょいちょい、連絡を取り合っている妹である。また彼女が独りでないことはわかっている。両親もまたともに、海外にいるのだから。なにか重要な、気にするべき内容の連絡なのであれば命からではなく、父か、あるいは母が直接電話なり、メッセージなりを送ってくるはずだ。

 ごめん。今はそれどころじゃない。着信に振動を続ける携帯を、聖は無言のままポケットに押し込み仕舞う。

 

「聖」

 

 そうした、直後である。

 かけられた、声。気付き右を振り仰げば、行き交う人並みのむこう、順路表示の塗り分けられた壁に寄り掛かるようにして、少年が立っている。

 

「涼斗」

 

 ──涼斗。二度、そう繰り返し、聖は彼の名を呼んだ。

 ごめん。

 ありがとう。

 来てくれて、……すまない。呼んでしまって、ごめん。

 聖の呼びかけに対し返ってきたそれら言葉は、気疲れを感じさせた様子の少年の感情を反映してか、感謝よりすまなさを、謝意を表明した成分がある程度以上に多く含まれたものだった。

 力のない微笑が、こちらへと向けられていた。

 

     *   *   *

 

 プリントアウトをした、印刷用紙の束を受け取った友は、それを差し出した翠の変化にどうやら、その時点で気付いたようだった。

 

「元気、ないね」

 

 自覚する節はあった。──というより、多々、ありすぎた。

 涼斗せんぱいのこと。

 せんぱいが、小説をやめてしまうかもしれないこと。

 いずれもが翠の手が届く範囲ではなくて、その理由すら聖せんぱいの動揺や予想からおぼろげに知るものでしかなくて。

 

「また、なんだか抱え込もうとしてる。翠にはなんにも責任のない、なんにも悪くないことを。あたしには、そう見えるな」

 

 その見通しの見えなさが。

 自分が大切に思う人たちについて、思うほどのことをできないことが。

 ……ポニーテールの彼女が言うとおりに、自分自身へと感じさせている。

 目の前でそう言って指摘をする葉月さんの事情に対しかつて、抱いたものとよく似た焦燥。遠さ。無力感というものを。

 バイト前の時間。

 文芸部の面々は翠のほかに、いつも部活動の場として集まるここ『憩い』に、今は誰もいない。代わりに、というわけではないけれど、翠と向き合って、客席に腰を下ろして、葉月さんがぱらぱらと、翠から受け取った原稿をめくっては流し見ている。

 涼斗せんぱいは当然のように、来るはずもない。

 聖せんぱいも、体調不良で学校自体を休んでいる。

 氷雨せんぱいは──よく、わからない。ただ、「今日はうちも行かないから、雪村ちゃんも好きにして」と、一通のメッセージが届いただけ。

 だから、アルバイトの、『憩い』でのシフト時間前の、僅かな空白の間を、翠は友人とともに過ごすことにした。

 ちょうど、翠の書く小説を読んでみたいと言ってくれた葉月さんだった。

 印刷をして、学校に持って行ったそれを──彼女へとここで、手渡した。そういう時間だった。

 

「文芸部の先輩が書くお話も、やっぱり面白い?」

 

 帰ってから、ゆっくり読むよ。そう言った友人はしかし、その冒頭部数ページをしきりにぱらぱら、めくっては戻しを繰り返しながら、翠になにげなくといった素振りに問う。

 もう書かない、やめてしまうと告げたせんぱいのこと。彼女にも、おおまかにだけれど伝えて、相談もした。

 それが問いに、帰結する。

 

「やめてほしくないって、思う?」

 

 第三者、部外者として。

 ……いや、もちろんわかっている。涼斗せんぱいの身に起こったなにか、その一件については彼女だけでなく翠だってどこからどうみたって、部外者にすぎない立場だということ。──それでも、そんな翠よりも更にそのよりひと回り外周にいることを自覚しながら葉月さんは、ぽつりぽつりと彼女なりに感じたこと、思ったことを発してくれる。

 

「──思います」

 

 胸に拳を当てて。一瞬目を伏せて、翠もまた思った通りのこと、率直な言葉を彼女に返す。

 

「涼斗せんぱいの書くお話は、わたしの書くお話とは全然ちがっていて。わたしはせんぱいのお話、好きです。だからこのままなくなるのはいやだ、と思います」

 

 そしてなにより、

 

「せんぱいにこのまま書かなくなるなんて、なってほしくない。せんぱいには書いていてほしい。そう、思います」

 

 それはせんぱい自身にとっても、「もったいない」ことなのではないか。

 少なくとも翠は彼の描く世界を、綴る物語を好ましく思っている。もっともっと、広がっていくところが見たい。尻切れトンボに消えてなくなってしまうのは、損失だ。もったいなくて。作品もかわいそうだ。そう、翠には思える。

 

「そっか。翠はその先輩の、ファンなんだ」

「──え」

 

 そうやって思考の内側で並べ立てたロジックが、微笑の中でこんなにも簡単に、葉月さんの言葉で表現されたことは翠にとって想像の範疇の外で、自分の論法のしち面倒さを理解する思いだった。

 

「素敵だと思う。翠みたいなファンが、読者が。プロでなくてもきちんといるって、すごいことだよ、きっと」

 

 あたしには小説のことはまるでわからないけど、と付け加えて苦笑をする葉月さんに、彼女のシンプルさを、まっすぐなわかりやすさを持ったその性質を翠は、羨ましく感じた。

 あるいは、彼も。涼斗せんぱいも、そうなのかもしれない。

 周囲の状況が、彼自身の思いが複雑に入り組みあって、解きほぐせずにいて。

 そんなとき、誰かが。

 誰でもいい、彼を想い、いたわり。心の水面に波紋を描く言葉を発してくれる誰かがそばにいてくれたなら。

 ごく単純に、彼の心情を簡潔な、軽いものとしてくれるその言葉が与えられたのならば、彼も戻ってこれるのかもしれない。

 

「──だとしたら」

 

 あくまでこれは、「もしも」の三文字である。

 だがその「もしも」を為せる相手が涼斗せんぱいに持ち得るとすれば、その人物はきっと、彼に一番近しい人なのだと思う。

 少なくとも翠にとってそのように想像ができる人物はたったひとり、ひとりしか頭に浮かばない。

 面倒見がよくって。

 やさしくて。

 彼を一番近くで見守り続けてきた、人。

 そんなの。彼女しか、いない。

 

     *   *   *

 

 未成年だから。ジュースだけど、いいですか。

 入り口で店員さんにそう言って、涼斗はずんずん、店の一番奥の、座敷の個室まで入っていった。

 涼斗。ここ、居酒屋。

 彼に手を引かれついていきながら言った聖の言葉に、涼斗は振り向かずに短く「わかってる」と返す。

 子どもを連れて飲み歩いたりなどしない両親のもとに生まれついた聖である。こういった場所に客として足を踏み入れるのすら、──『憩い』でのアルバイトで夜営業の飲食店自体に慣れてはいるけれど、果たして未成年の自分や涼斗が訪れていいものなのか、躊躇する。

 夜、店で料理をつくったり。接客をしたり。

 そんな時間帯より今はずっと早い夕方以前の時間にもかかわらず、立場が変われば感覚とは異なってくるのだから不思議なものである。「ご飯屋」あるいは「定食屋」の『憩い』で働く自分には違和感がなくて、客として居酒屋にやってくる自分に後ろめたさを感じる、それはある種、矛盾なのかもしれない。

 ああ、店長はたしかに、聖や翠にお酒をつくらせたり、注がせたりしたことはないな──そういう点も考えへの影響は、あるのだろう。

 

「涼斗」

「いいから」

 

 涼斗の両親も、感覚としては似たようなものだったはず。居酒屋だとか、バーだとか。そういった場所に繰り出す習慣はない人たちだったと記憶している。

 その点で、慣れた場所ではないのは彼も同じ。だというのになぜ敢えて高校生の自分たちには場違いなこの場所を選んだのか、涼斗の意図が掴めない。

 

「どこだってよかったんだ。ふたりで話せるところなら」

 

 個室だったから、選んだだけ。そう斜に言い捨てる彼と向き合って、案内をされたその、仕切られた個室の座敷に腰を下ろす。

 おしぼりを置いた店員が出ていくと、ほんとうにそこには聖と涼斗、ふたりきりになってしまう。

 薄暗く落とされた明かり。そのなかでテーブルをはさんで、ふたりきり。

 訊きたいこと。たくさんあった。

 言いたいことも、いっぱいあったはずだった。

 なのに。

 

「まずは、……ごめん、来てもらって。来てくれて、嬉しい。感謝してる」

「そんなの」

 

 行くって言ったのは。来たいって思ったのは、私だ。──自覚している事実を彼に対し述べる、そんなことすら、言葉が詰まって満足にできなくなる。

 私は涼斗が無事でいてくれて、それでよかった。言えない言葉を、喉の奥で声にせず、目線に載せてただ投げかけるだけだった。

 これでは、ダメだ。埒が明かない。両膝の上できゅっと握った両の拳へ、力を込めて、聖は顔を上げる。

 ひと呼吸、それでも踏み出すための勇気が必要だった。

 

「ねえ、涼斗。──なにが、あったの」

 

 発して当然と思える問いを、聖は少年にぶつける。

 きっと彼も予想していた。だから驚いた様子もなくただ、口元に親指を当てて、僅か眉根を寄せて。聖をじっと見返す。

 

「わからない。……わからなく、なったんだ」

 

 なにかが、じゃない。

 なにもかも、全部が。

 

「自分のやりたかったこととか、やろうとしていたこととか。自分自身の、居場所とか。今の自分の、全部がもう、わからない」

 

 だから気付いたら、なにもかも投げ出したくなった。

 おしぼりの封を割いて中身を出す動作とともに、彼は一度目を伏せて、告げる。

 

「なんにもない。なくなった。そう思えて、しかたなくなったんだよ」

 

 それは聖の求めた、出来事の事実としての部分ではない。そこはまだ、彼の語るところにない。

 ただ彼の中の理由を、そう言って涼斗は声に発した。

 そういう、理由が自分にあるから。

 たぶん自分からは帰らない。戻らない。

 自分にそう結論付けさせた、その根本となった人たちが連れ戻しに、来るまでは。

 

「聖にはただ、会いたかった。聞いてほしいことがいっぱい、あったんだ」

 

 つまるところ、聖ではダメだと無情な宣告をしながらしかし、彼は聖を求める言葉を紡いだ。

 そのロジックが我儘に属するものであることはきっと彼もまた自分自身、自覚をしているのだろう。

 言われた言葉に、聖は返す反発も、反論も持ち合わせていない。

 彼に起こった出来事を、まだ知らない。

 だから──知るまでは、動けない。

 

 

          (つづく)

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