20/ 聖と、翠と、彼の居場所 1

 

 

 それがひどく子どもじみた行為であることは、ほかの誰でもなく自分自身が一番よくわかっていた。

 失踪や、蒸発なんて深刻さなどには程遠い。

 この今日日であるご時世、ほんとうに行方を眩まそうとするならば、携帯電話なんか持って歩くその時点で、そうする資格を喪失している。

 だから、わかっている。このうえなく甘ったれた自分の行為を。自分でそんな自分が、嫌になる。

 それでいて習慣的に、なにげないきっかけや瞬間、思い出したように半ば以上無意識に、スマートフォンの画面を立ち上げてそこに表示される通知を確認するのだから一層始末に負えない。

 すべてを投げ出して、

 もう誰にも会いたくないと、

 その強い意志とともに行動を起こし道筋を選択するのなら、携帯電話など置いてくるべきなのだ。なにもかもゼロにしたいならそんなもの、投げ捨ててしまうのが最も適切な答えであったにきまっている。

 GPSを調べられれば、すぐに今自分がどこにいるのかなんてわかる。ほんとうにこれまでを遮断したい、うっちゃってしまいたい。その気骨があるのなら、そんなもの持ち歩いたりしない。

 手ぬるく、甘ったれているのだ。涼斗はひと声にまくし立てるように心の中、自分をそうやって罵倒し、冷笑する。

 そのように、自分が嫌いになっていた。

 いや、それは今に始まったことではない。

 自分というものを信じていない──好いていないのは、もっとずっと昔からのことだった。

 そして忘れていたことを忸怩に思う。

 裏切るのが、自分だということ。

 信じた瞬間、自分自身というものはいとも容易く、己の信頼を裏切るのだと。

 今回だって結局のところは、そういうことだった。だからこんなことに、なってしまった。──して、しまった。

 自分を信じて。

 自分の結果を、信じて。

 自分へと囁き続けたその相手を、信じて。

 そうして涼斗自身が勝手に傷ついた、だけ。

 

「──電話。こなくなったな」

 

 学校も。予備校も。行かず、誰にも告げず無断欠席をした。それはどちらも、はじめてのこと。

 既に二度ほど、学校から。更にそれぞれ両親から、いずれも電話には着信が届いている。

 だがそのどれにも、涼斗は応答する気はなく、しなかった。

 それからは諦めたのか──それはそれで自虐的になり得る想像ではあったが、彼らからの連絡はない。

 

「──っ」

 

 でも、そんな中、繰り返し。繰り返し、着信を続ける番号がある。

 もちろんそれはただ、記号としての数字と認識されるものではない。そのような、簡素で薄っぺらい繋がりの相手じゃあない。

 きちんとそれが誰か、知っている。わかっている。

 スマートフォンに、その名前で登録されている。

 応答をすべきか。未だ応じずにいるべきか。それを涼斗は迷った。迷ってじっと、その画面を見つめた。

 鳴り続ける着信音を聞き流しながら、決断を下しかねていた。

 柊 聖の、その名前に。

 

     *   *   *

 

 親子の関係。それがいろいろなかたちであり、色彩をそこに持っていることは翠にだって、自らの身をもって、わかっている。

 自分と。亡き母と。遠く離れ暮らすたったひとりの肉親である父との間にある関係性はそれがけっして、ごく一般的であったり、ありふれたものと呼べないことを否応なく自覚させるものであったから。

 癒せなかった、父のこと。

 傷つけてしまった、お父さん。彼が娘である翠に対して遠く離れ、いったいどのように感じ、思っているのか、翠は知らない。殆ど没交渉の父に──関わり薄く、育ってきたこの十数年間だったのだから。

 彼は妻の訃報に傷つき。

 娘のちからのもたらせなかったものに傷ついた。

 果たして、愛してくれているのだろうか。会えばつらいだけの存在へと、翠自身がなってしまっているのではないか。そんな、穏やかでない疑問を抱くことすらないではない。

 そういう関係性だから、一般的ではないと、言えると思う。

 

「どうしよう」

 

 そんな自分と父との関係性が、涼斗せんぱいの仮定にまで当てはまるとは思っていない。だけれど、……気になる。

 聖せんぱいのように長い付き合いのない自分では踏み込めないこと。知り得ないこと。それでも。案じたくなる。心配、してしまう。

 涼斗せんぱいと、両親のあいだになにがあったのか。──冴さんの言うように親子がすれ違うものだと、翠自身わかっているから。

 

「書けないよ、……お父さん」

 

 学校に来なかったせんぱい。家にも、戻っていない。それってつまり、家出、ということ。

 そのことが。涼斗せんぱいとご家族のことが。気になって、目の前に開いたパソコンの、原稿執筆画面を視線が上滑りをする。

 キーボードの上を、翠の指先は動かない。ちかちかと、カーソルは一点に止まったまま、点滅を繰り返すばかりだ。

 小説書きという夢をあきらめる。やめてしまう。その結論を皆にメッセージとして伝えた彼のその行動が、翠の指先を縛っていた。

 なぜ。どうして。いったい、なにがあったのだろう。ただひたすらにその疑問が渦を巻く。夢をあきらめて。目の前のなにもかもを放り出すなんて。あの、冷静でものしずかな、涼斗せんぱいが。──その評価ですらたったひとつ年上でしかない少年に対し、子どもから子どもへの過大な信頼と狭い視点にすぎないのだろうと自覚をしながら、それでも戸惑わざるを得ない。

 

「書けないときって、どんな気持ちなの。わからない」

 

 そして今、翠も書けずにいる。

 それは葉月さんたち姉妹とともに思い悩んだときとは異なる、なんとも言いようのない感情。

 無力をぶつける先に、あのときは小説があった。だけれど今は、もやもやの原因が小説となっている。そんな気分だった。

 だけどこれが、涼斗せんぱいなら。──彼がそうした理由がほんとうに家族によるものなら。父の名を呟く翠はどれほど恵まれた生ぬるさの中にいるのだろう。

 作家である父のことを、翠は傷つけてしまったという以上に尊敬している。

 近づけない、離れ離れである理由が自分にあるのだと、自虐ではなくそうなのだと思い、理解している。そんなのは思い込みだ、自虐だと他者には否定をされるかもしれないが……少なくとも、自分自身では。

 しかしそれでも翠にとって父とは焦がれる存在であり、目指すものであった。

 父が文筆家であったからこそ、翠もまた小説を書くようになった。

 もう書きたくないなどと思ったことは一度もない。ある種、拠り所であり蜘蛛の糸だった。いつか父に誇れるような、自分自身が傷つけてしまった彼に胸を張って会いに行けるような、そんな作品を書けたらという想いが翠にはある。

 大好きな、お父さんに。そうすることができたらどんなに幸福だろう、と。

 

「でも、せんぱいは」

 

 涼斗せんぱいは、「やめる」と言ってしまった。

 それはきっと彼の中にあった、自分だけの小説を紡ぐという行為のなかの幸福が消えてしまった──あるいは、上から塗りつぶされてしまったから。

 葉月さんは、家族を守るために苦しんでいた。

 翠もかつて、家族を傷つけたことを自覚し辛かった。

 彼もきっと──そこには家族が、理由にある。

 

     *   *   *

 

 別に生まれてこの方、ずっとずっと品行方正そのものを描いたように生きてきたわけじゃない。

 悪戯やちょっとしたいけないことも人並みにやってきたし、……もちろん「ほんとうに悪い」ことは、法や良識に反することは自分自身自覚するかぎりは、やってこなかったつもりではあるけれど。

 それでもごくごくふつうの、小さな悪いこと──それは例えば幼い時分、嫌いな食べ物をこっそり残したり、宿題をするのをうっかりや怠惰によって忘れて怒られたりとか、そういうことはあった。

 だからそれは、はじめてのこと。

 はっきり自覚する「いけない」行為。

 大丈夫かな。

 呼び止められて、補導とかされないかな。思いながら、やってきた新幹線に、逃げ込むように飛び乗った。

 そう──学校の、サボり。基本的に学校が嫌いではない聖だから、今までそんなこと、考えたこともなかったそれは行動である。

 正確には、そうするために各方面に方便を、虚偽を用いたというのが、その罪悪感の緊張感の源である。

 

「どうも」

 

 キャミソールにくしゅっとした生成りのシャツ、薄手の、普段使いのパーカー。平日の昼間、普段ならば学校の制服に身を包んでいるはずの聖はそんな私服姿で電車に揺られる。

 とうに切符は見せている──折り返し通り過ぎていく車掌さんに口の中でもごもごそう言って、スカートの裾をなおす。

 備え付けのフロントテーブルの上には駅弁。ただし手つかず。

 生理が重くて休むと(元来、聖はそんなにひどいほうではない)担任に電話で伝えたこと。

 翠にバイトを代わってもらったこと。

 そして今、ここにいること。それらすべてひっくるめて、この状況下で堂々と、もりもり食事ができるほど神経が太くはない。

 そもそもが、昨晩は殆ど寝ていない聖である。食欲自体、「こうする」前の段階からさほどありはしなかった。時折、ペットボトルのスポーツドリンクを喉の渇きだけはひどく感じて、嚥下するばかりだった。

 

「──涼斗」

 

 すべては、……あいつのせい。あいつの、ためだ。

 

「ばか、涼斗」

 

 夜遅くまで、電話にも応じなかった、ばか。

 

「心配なんだぞ、私だって」

 

 ずっと。何度も何度も、電話を繰り返して。夜遅く、ようやく繋がって。

 彼はひたすらに言葉、少なだった。

 でも確かに発せられた、告げられたものもあった。

 

「あと、もう少し」

 

 それは、彼のいるところ。

 想像をしていたより、ずっとずっと、遠い場所。

 県を抜けて、ひとつ、もうひとつ、さらにもうひとつ、もっと、もっと。何時間もかけて、たくさん。

 この列車の向かう先に、彼はいる。

 

「私、行くから」

 

 なんで、などという理屈の水掛け論を彼はしなかった。

 そのような理屈っぽさで、聖自身も考えてなどいなかった。

 ただ、行く。行きたい。行かなくてはならない。その気持ちだけがただただ、大きくなって。

 同じ言葉を電話口で聖は伝えて、彼はただ沈黙をしていた。

 長く、長く。──電話が切れてしまったのではないかとさえ錯覚するほどの長い静けさの先、彼は短く、掠れた声に発した。

 

 ──「待ってる」、と。

 

 行かない理由がその瞬間、聖の中から消え失せた。

 

 

          (つづく)

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