19/ 聖と、翠と、起こってしまったこと

 

 

 これは、『憩い』でのこと。

 文芸部、四人ではなく。

 三人集まって、語らわざるを得なかった、『彼』のこと。

 その事態について、原因として心当たりに抱くその相手に対し失礼であることを承知で、聖は思う。

 これは、想像しえた──想定を十分以上にすることが可能であった状況なのだろうか。想像すべきだったことなのだろうか、と。

 それほどまでに自分は、あいつは。その人たちのことを信じず、警戒しなければなかったのだろうか。

 想定しなければ、ならなかったのか。

 聖はいい。所詮は赤の他人で。第三者に過ぎないのだから。

 

「え。涼斗せんぱい、お休みなんですか」

 

 だが、細部を想像し得ないことを、想定しておかねばならなかったのならそれは酷なことだ。

 涼斗にはそうする理由がなかった──だって彼は絶対に、そうなることを望んでなどいなかった。求めたいわけがなかったのだ。

 だからそんな予測ができてしまう自分が。涼斗のことが。彼のその身辺をとりまく様々な状況が嫌だった。

 嫌だ、そうは思っても何も変わらない、変えられない。なおのことその状態が愉快でない。

 なにかあったのだろうか、ではなく。

 なにがあったのだろう。そう思い、案じる自分が、聖には自分でわかった。

 思うまでに至る材料が、多すぎる。

 涼斗は今日、学校を休んでいる。

 それだけじゃない。事情を知らない翠が「風邪ですか?」と心配をするのと同様の考えを聖もまた抱かなかったわけではない。だからメッセージを入れた。連絡をしてみた。

 しかしそれに対する音沙汰もない。メッセージが既読された痕跡も、ない。

 すべてが想像と予測のなかでの範囲でしか、幼なじみである聖にとってさえ彼のことが今、わからない。

 

「休み。──うん、休み、かな」

 

 聖の曖昧な言葉と表情とに、首を傾げて怪訝そうにする翠。今、言った以上のことを提示してやれない。

 欠席だというならそれは間違いない。学校には来ていない。理由は……深堀をされても、聖にだって返しようがないのである。

 

「聖せんぱい?」

 

 ほんとうにただ、体調を崩して寝込んでいるだけかもしれない。だから返信だって戻ってこない。そういうことだって大いにあり得る。

 いや、そうあって、ほしかった。そちらのほうがまだ、よほどいいと思う。

 そのうちに返事が舞い込んでくる。そのあとでゆっくり見舞いに行けばいい。その望みがある。

 だが、そうではなかったとしたら?

 彼に訪れたのが身体の不調でなく。

 こころの。環境の、不具合だとしたら?

 涼斗と、両親とのあいだに生まれた問題が彼にそうさせたのだとしたら、いったい自分になにができるというのだろう?

 翠のように特別なちからを持っているでもない、ただの旧い付き合いだという関係性しか彼に対し持ちえない、自分に。

 涼斗のこと。その両親のこと。ともに知っている。知っていて、聖にはなにもできない。

 それらの思考が、最悪に最悪を重ねた結果として想定される予測にすぎないことをわかっていながら、確定したわけでない少年のその周囲の状況に、聖は苦い感情を持てあまさずにはおれなかった。

 そうではないことを、祈りながら。

 予測されたその出来事が少年の身に起こったかもしれないその確率を思う。

 褒められたかった息子。それに足ると思えた成果。彼が求めたものは果たしてもたらされたのか。そうでは、なかったのか?

 

「私たちには……待つしか、できない」

 

 氷雨が神妙な面持ちで、聖を、翠を交互見遣っている。

 

「こやまん、あれで堅物だから」

「堅物で、不器用で。頭、固いんだよ」

 

 三者が三様に目線を落とし、物思いに耽る。

 テーブル上になにげなく投げ出されていた、三つのスマートフォン。──その画面に、不意、光が灯る。

 

「あっ?」

 

 それぞれの手が、それぞれの持ち物である携帯電話を持ち上げて、その眼差しをそこに食い入らせた。

 メッセージの受信。

 ひとりひとりの画面に等しく表示されたその名が涼斗のものであったことは驚きであったと同時に、ある種皆が予見し得たことだったのかもしれない。

 

     *   *   *

 

 もう、いいんだ。

 心から、それは思ったこと。そう、思ってしまった。

 どんな表現のしかただってあるのだろうけれど、最も短く言い表すのならそういうことなのだ、きっと。

 だから、捨てた。

 殆どページを使い切り、文字に埋め尽くした手書きの創作ノートも。

 パソコンの中に入っていた、書きかけのすべての、文書データも。

 代わりに、書いた。

 皆への短い、宣言を。

 そして綴った。

 別れを。

 中二病だ、大げさだと思われるかもしれない。実際、そうなのだろうと思う自分もいる。

 だがそれでも、吐き出すように綴ったそれは自分にとって。

 遺書と言っていいものだったと、思っている。

 

     *   *   *

 


 多忙の身には珍しく早い時間、冴さんが家に戻ってきていた。

 テーブルにてマグカップを傍らに、雑誌をぱらぱらとめくる彼女を背中にして、翠は晩御飯の支度をする。

 たった今はじめたこと。やっているのはただ、それだけだ。ほんの短い時間、その作業にとりかかって間もない頃合いだ。

 

「なにか、あった?」

 

 直近でその質問を投げかけられるのは、けっして遠く日にちが開いた以前のことではない。

 葉月さんのちからになれなかった日。ともに声をあげて涙流した日、やはり彼女は珍しく早く帰宅をしていて、遅れ帰ってきた翠へとコーヒーを淹れてくれながら同じ言葉を投げかけた。

 そのときは誤魔化したり、はぐらかしたりをしたいわけではなかった。

 けれど、自分にやれなかったこと。苦しかったこと。同時、友というはじめての存在との繋がりを自分が得てしまったこと。いろんな方向性の、伝えるべきだと感じた言葉たちと感情とがないまぜになって行き交った結果、うまくそれを声というかたちの言語化をできなくて。

 潤んだ瞳を湛えた曖昧な表情と、掠れたぎこちない、喉の奥からの言葉にならぬ漏れ出た声とで反応をみせるにとどまった。

 冴さんのほうも翠へと事情を伝えることを無理強いはせず、それ以上の追及はしなかった。

 

「実は、……その。せんぱいのことで、少し」

 

 今回に関しては、翠自身が受け取った状況がほぼすべて、同じマイナスの方向を向いていたからこそ素直に言葉を投げ返せたのかもしれない。

 無関係ゆえにそれは葉月さんにもまだ相談し得ていないこと。翠の受けたメッセージや状況に対し部外者という立場は同じでも、冴さんには彼女が大人であり翠の保護者であるという、助け船を求めてもよい翠にとっての免罪符があった。

 

「せんぱい? 聖ちゃん?」

「いえ。ではなくて、文芸部の」

 

 涼斗せんぱいのこと。顔や個別さまでは認識はしなくても、翠が文芸部で小説を書いていて、そこにせんぱいたちがいることくらいは冴さんも知っている。

 そう。その、涼斗せんぱいからのメッセージ。ほんの二、三言程度の短い言葉が翠を、……ううん、受け取った三人を困惑させた。

 小説の、こと。

 彼が目指していたはずの、もの。

 

「『もう書かない』『文芸部もやめる』──と。それだけ」

 

 たったそれだけの短い言葉を、翠たちは彼から送信された。

 佳作だってとるくらい、打ち込んでいた彼が──目指していた夢を、放棄した。

 学校に姿を見せぬまま。その言葉に込められた本質や意図を明確に翠たちへと肉声を以て、伝えずに彼はいる。

 

「聖ちゃんの幼なじみだっけ。彼女はなんて?」

「……聖せんぱいもなんだか、戸惑ってました。ただ、『ご両親と模試のことで少し、なにかあったんだろう』って」

「模試? ……模試ねぇ。ま、そりゃ高校生の部活と試験なんて両立、大変なものだしね」

「いえ、その。それが、涼斗せんぱいは」

 

 国語で全国一位、だったんです。

 翠が言うと一瞬、発した言葉の意味を飲み込むのが遅れたように、冴さんは目を瞬かせた。

 

「──へえ」

 

 やがて察した様子で、目を一瞬細め、唇に親指を当てた。

 

「両立なら、できてると思うんです。でも、せんぱいは小説、やめるって」

「そう。両立──両立、ね」

 

 何度か、こくこくと頷いて、彼女は口の中で舌をもてあそんでいる。

 ほんとうになにか、「わかった」ような素振り。翠には彼女の見せたそれらの反応が意味するところが「わから」ない。

 

「そうだね、これはアタシの予想だけど。それは程度によるんじゃないかな」

「程度?」

 

 きっとその彼はご両親にたくさん、たくさん期待をされているんだろうね。

 困惑をする翠に、しきりに頷くことを繰り返して、冴さんは言葉を続ける。

 

「親の望むことと、子どもが望むことが同じだとは限らないんだよ。親の期待と、子どもにできることもそうそう一致するものじゃあない。どちらに非がある、じゃなくてね」

 

 その物言いが、ますますわからない。

 小首を傾げると、冴さんは「それでいいんだよ」と言う。

 

「結局大人は大人の立場でしか子どもに接することができないんだし。逆に、子どもだって子どもとしての立場でしか物事は考えられない。わからなくていい、すれ違ってしまっていいんだよ」

 

 それによって、傷ついて。傷つけてしまうかもしれない。

 問題はそうなったとき、どうするかだから。

 冴さんのそれら言葉が終わるか、終わらないかのうち、ポケットに入れていた翠のスマートフォンが震える。

 

「起こってしまったら、仕方のないこと。だけどもちろん、親が子を傷つけていいわけじゃない。どんな人間だって、どんな言葉も、行動も。相手を傷つけてしまう可能性は常に胸に抱いてなくちゃいけないんだから」

 

 今度はメッセージじゃない。着信。

 コンロにかけていた鍋の火を弱めて、翠はそれを引っ張り出す。

 

「聖……せんぱい?」

 

 引っ張り出したところでしかし、通話ボタンをフリックするよりはやく着信は途切れた。

 

「あれ?」

 

 直後、どこかから声が聴こえる。遠く、──けど、近い。意識をすれば次第にそれははっきりとしたものに感じられ、翠の名を呼んでいることがわかる。

 

「聖、せんぱい? ……ベランダ?」

 

 居間の窓は開いてはいなかった。その窓ガラスに遮られながらしかし、外からの声はたしかに翠のもとに届いていた。

 ベランダの向こう。つまり隣家である柊邸から、パーテーションの薄板一枚越しにせんぱいが、翠を呼んでいる。

 行ってあげなよ。冴さんが顎で示した。

 戸惑いながら焦りがちに、ガラス戸を開け放つ。

 サンダルをひっかけベランダに出ていくとやはり、しきりにこちらに呼びかけるせんぱいの声が、ビル風の中にあった。

 

「せんぱい?」

「──翠。……翠? ごめん、そっちに涼斗から連絡きてない?」

「え?」

 

 こちらの発した応答を受け取るが早いか、パーテーションのむこうから足元の隙間からサンダルだけを覗かせて、せんぱいは奇妙に緊迫した声音と口調で問いを投げかける。

 

「涼斗のやつ。家にいないんだ」

「──はっ?」

 

 姿は見えなくても、今まで見たことがないくらい彼女が動揺をし、焦りを内包しているのがわかる。

 涼斗せんぱいが、家に……いない? 学校、来ていなかったのに?

 

「どこに行ったか、わからない。家を出たまま、学校に来なかったみたいなんだ」

  

 

           (つづく)

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