18/ 聖と、翠と、彼の光明
大通り沿いに先日開店したばかりの店でテイクアウトしたレモネードは、甘酸っぱくて、刺激的で。喉の奥が痺れるくらい、飲んだその後味だけでもしゃっきりとするように思えた。
ひとつは、炭酸入り。もうひとつはなし。翠が選んだのは、炭酸の入っていないほうだった。
彼女は、──葉月さんは店員さんからそれを受け取ってから気づいたようにぽつりと翠に、「あ、これだとレモネードっていうかむしろ、炭酸だからレモンスカッシュだね」──そう言って、可笑しそうに表情を崩した。
あの日抱き合って、泣きあった夕陽のオレンジ色が染める世界の中で、けれどふたりは笑顔で。
一緒に見てまわった駅前のアクセサリーショップのこと、雑貨屋さんのこと。いろんなことを語らい、歩いた。
いつしかやってきた、街路樹の根元の花壇の煉瓦にふたり腰を下ろして、それぞれに買った石鹸や入浴剤のこと、髪飾りなんかを紙袋から取り出しては言葉に花を咲かせあった。
アルバイト帰りの待ち合わせ。なにげないそれは友人同士といえる風景であり、同時に翠にとっては新鮮だった。
無力からはじまったこと。その僅かな翳りが、苦い記憶とともにその明かりの中に暗く滲まないではない。
しかしその光景に身を置く自分が翠には心地よかった。葉月さんと他愛のない会話を重ねることが、翠には嫌ではなかった。嬉しかった。たとえそれが逃れられぬ罪悪感からはじまった関係性だったとしても。翠には好ましく思える。
「へえ、一番? それ、すごいじゃん。翠の先輩」
葉月さんのせんぱいでもありますよ、と、訂正しつつ翠は苦笑する。
些末な話題を重ねるうち、両者のあいだにふと浮かんだのは翠からの、バイト先での出来事。涼斗せんぱいの、こと。当事者として耳にしたのではなくあくまで遠く、聞こえてきたものでしかないけれど。なんとなく見て、聴いたことが世間話となってふたりのあいだを繫いだ。
葉月さんは既に、翠のことを自然に名前で呼ぶ。まだ少しそうすることに緊張を覚える翠とは対照的だ。自分も当たり前にそうできるようになりたいと思う。
「はい。聞いていて、びっくりしました。聞こえていたの、せんぱいたちも気付いたみたいで。──気にしないでって」
「そりゃそうだ、めでたいことじゃん」
「いえ、でも……なんだか涼斗せんぱい自身は、あんまり嬉しそうじゃなかったというか」
あまり喜んでいるようには見えなかった。
クラスでも。学年でも。学校でもない。
全国で一番の成績なんて、よほどのことなのに。
「それは実感がなかったんじゃない? あたしも同じ状況になったらたぶん現実を疑うし」
そういうものなのだろうか。──そうなのかもしれない。
「ひょっとして翠って成績いい?」
「え。……どうでしょう。ふつうだと思います」
「中間テスト、順位どうだった?」
「──学年で、11位」
「ほぼ一桁じゃん。それは成績いい、優秀って言っていい部類だ、たぶん」
そう、なんだ。
成績ってそんなに大事なものなんだろうか。なにしろまだ自分たちは一年生なのだし──せんぱいたちは、氷雨せんぱいや涼斗せんぱいはそれなりに気にしているみたいだけれど。
「うん。やっぱり、自分がすごい成績とったって実感がなくって。ふわふわしてるだけなんじゃないかな」
葉月さんは繰り返し、言った。
「いいなー。翠、今度勉強、教えてよ」
「え。そんな、わたしなんて」
謙遜しすぎるのは逆にいやらしいぞ。
わざとらしく口を尖らせた葉月さんは、自分のレモンスカッシュ……レモネードのストローを銜えながら大げさに嘯く。
「……えっと、わたしで、よければ」
「よけります。よろしいです」
そうしてなんだかよくわからない適当な文法が返ってきて、翠は困った笑顔で肩を竦めた。
指先を伸ばした傍らのレモネードが、細かな粒の氷のたっぷりと入った透明なプラスティック・カップの表面にひんやりと汗をかいて、ひとしずくそこを流れ落ちていった。
* * *
なんだか変だな、と疑問に思うところがあったのは、翠だけではない。
心の中に抱いたその違和感、それを表現するなら奇しくもそれは葉月がそのように言い表したのに近しく、聖もまた彼が「ふわっと」している感覚を少年に抱いたのである。
だからアルバイト終わりの帰宅後、壁の時計を見て。まださほどおかしな、遅い時間ではないことを確認して、聖は自身の携帯電話を手に取ったのである。
それでもメッセージと電話とを一瞬迷って。通話ボタンを発信する。
予備校もそろそろ終わりの時間のはずの、少年へと。
コール、一回。二回。三回目でそれは繋がった。
「……もしもし? 涼斗?」
返ってきた声からは、夕方、そのように感じた彼の雰囲気の違和感は伝わってこなかった。むしろ素朴に、怪訝そうにその声は響いて、きっと心当たりがなかったのだろう、こちらからの電話に首をかしげているのであろうことが伝わってくる。
「いや。その、なんていうか……さ。夕方のことが、ちょっと。『憩い』でのことが気になったっていうか」
聖はそんな彼に一瞬躊躇をし、迷いながら素直な言葉を発した。
知っている。聖は彼が、「褒められ」慣れていないこと。だからこそまた、ぎこちなくなっていたのではないかと。心配をしていた。
「案の定っていうか。やっぱし、まだ予備校にいたんだ? ──真面目だね、全国一位さん」
冗談めかしながら、少しほっとしてもいた。
こうして電話でやりとりをするかぎりには、あのときの違和感が薄まった以外には、『憩い』でやりとりを交わした時間からさほど、彼は大きく感情の変動をしていないように感じられた。
よくも、悪くもだけれど。口数少ない涼斗そのもの。聖は少し安心する。
電話の向こうで応じる口の重さが──多少、気になりはしたけれど。
「なに、どうしたの。もっと喜びなよ」
いや、うん。歯切れ悪く発する声のトーンは夕方と変わらない。と、思う。
ほんとうに、よくも、悪くも。
あるいはこのとき気付くべきだったのかもしれない。彼の身にこれから起こりうること。もしかしたら聖なりに、聖の立場であっても想定ができたのかもしれない。
予想だにしなかった、模試の好結果。多少なりとそれは浮かれたり、活気ある反応を誘発したりするべきものだ。
そう、「よくも悪くも」なんて反応がふつう、返ってくるはずもない。
だってそれは、「良い」結果なのだから。彼にとって「良い」ものであるがゆえの相応の影響を本来ならば、与えるはずである。
だのに聖はそこに翳りを感じている。そしてそれは涼斗自身、自分がそういう雰囲気を纏っている自覚はあるのだろう。
やがて電話口に彼が吐き出したのは、そういう、「良い」方向ばかりへとひたすらに向かって走っていけない、その事情や理由を端的に表して、聖の耳へと届く言葉たちだった。
「なにかあったの。なにか、不安でもあるの」
聖の問いを、曖昧に、けれど涼斗は肯定する。
そして、言う。
父母にまだ、模試の結果を見せられていないこと。学校から『憩い』、そして予備校とやってきて、まだ家に戻ってないのだから、物理的に考えればそれは当たり前のことではある。
──『見せたとき。喜んでくれるかな、って』
彼自身に喜びがあるか、ないかではなく。
その彼の両親について、涼斗は考えを巡らせ、それに埋没しかかっていた。それらはその心境の中で、訊ねた聖へと彼が吐き出した言葉。
浮かれるではない。期待に胸膨らむわけでもない。素朴に、「どうなるかわからない」、その感情の不如意。
それは彼が両親に、「褒められたことが」ないからこその歪み。
不安の二文字である。
あるいは両親は両親なりに、彼を認めてくれている部分もあるのかもしれない。しかしそれは少なくとも、彼が自覚できる範囲のものではなかった。
ああ、やっぱり。こいつはいつも、こうなんだ。聖は思う。
いや。ある意味私と同じなのかもしれない。私と妹の関係性が、そこに少し苦手さを私が感じているように。
掴みかねている。測りきれずにいる。彼の場合は両親とのあいだのこと。
血のつながった家族のはずなのに、そういった噛み砕ききれぬ関係性というのは起こり得るものだ。
──『さすがに一番なら、認めてくれるかな』
臆病に。恐れてすらいる。
褒められることがないこと。それは自分が認められる水準にないと、錯覚してしまうことだから。
その積み重ねが年月を経て長ければ、長いほど。そうであった日々があれば、あるほどに。
不安は常に付きまとうようになる。
「大丈夫でしょ。見たことない順位だったもん」
そういう相手へと認められたい。誇られるような存在でありたいと願うことは絶対に、間違っちゃいない。
すべて、百でなくてはならない。
欠けた部分があってはならない。
医師である親にそうやって目標を与えられ、そう望まれた少年の願いはたとえ両親のそれとすれ違っていたとしても、報われたっていいはずだ。
国語という、彼の得意な、好きな分野においては少なくとも、向けられていた期待に彼は応えたのだ。きっとそれを彼の家族は汲んでくれる。そのことを聖だって、信じたい。
誰よりずっとそばで一緒に育ってきた、少年に。聖はそう思う。
「私は涼斗を、すごいと思ったよ。──すごいと、思ってるよ」
模試の結果だけじゃなく、ずっと。……それは声には出さなかったけれど、ひたむきに夢見る将来に努力をし、両親の希望とも向き合おうとし続ける彼に聖がずっと、抱く気持ち。
「私は、そう思ってる」
聖の言葉に直接的に、涼斗は応えたわけではない。ただ、
──『今回は少しだけ、胸を張って成績、見せられるのかな』
彼にもたらされることを聖の望んだ期待を、涼斗自身もまた口にした。
そうとも。彼の望みなんてごく簡単で、シンプルなこと。
親のもとに生まれた子であれば誰にも等しく抱くこと。聖だって同じ。遠く離れていて、そしてより優れた肉親を持つからこそやっぱり、そこに満たされぬ部分を抱く感情。
涼斗は。ううん、子どもは誰だって。
親に、褒められたい。──認めて、もらいたいんだ。
これはそのチャンスなのだ、と。聖は信じた。
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