17/ 聖と、翠と、期待の発端
朝の気温は、太陽の昇りきった日中よりはまだ低かった。けれどそれでもその時節柄、清涼や快適というにはもはや程遠く。随分と蒸し暑い。
これが過ごしやすくなるには秋の訪れを──あと、もう二、三か月は季節の移ろいを待つことになるだろう。
そんな、焼けつくくらいの熱気で降り注ぐ、燦々とした太陽の光を浴びながら翠は歩く。数日ぶりの、聖せんぱいとの通学路。その登校の道筋を。
「翠。ほら、あれ」
あの、「なにもできなかった日」から数えて、三日。土、日を挟んで、新しい週を迎えたその朝。
いっぱい泣いたあの日。いっぱい落ち込んで、いっぱい自己嫌悪すらした。
自分が果たせず裏切ってしまったその人を、傷つけてしまった彼女を。……翠は学校の、正門のところに見る。
聖せんぱいに肩を叩かれ、促され。行き交う生徒たちの流れの中にぽつんと佇む彼女に気付く。
──あちらも、気付いた。
翠の傷つけたその女の子は、一瞬「あっ」というような顔をして。しかしすぐに微笑を翠へと向けて、そこにいる。
おろしたての、夏服の制服。その短い袖口を涼しげに風に揺らしながら。
「おはよ。──翠」
やさしげな、彼女の声を聴く。翠はせんぱいの掌にゆっくりと肩を押されて、彼女のもとにぎこちなく、近づいていく。
「おはようございます、」
向かい合ったふたりはあの日、ともに傷つきあったふたりだ。
「──葉月、さん」
翠と彼女の向き合う両脇を静かに、そっと聖せんぱいは抜けていく。自らも、ほかの生徒たちの流れの一部となって、無言に。ふたりが、ふたりだけで在れるように、きっと気をまわしてくれたのだと思う。
時折ちらちらと、行き交う生徒たちからの視線が、そこに立ち止まったふたりに投げられては遠ざかっていく。
「よかった、……今は、泣いてない」
望んだ者。望まれた者。叶わなかった、ふたり。
両者の関係性は傷ついたあの日、それだけのものでしかなかった。明瞭な単語を以て、簡潔に言い表せるものではなかった。
「あたしももう、いっぱい泣いたから。ほんとうにびっくりするくらい、たくさん。だからもう、泣いてない」
よかった。翠にだってもう、泣いてほしくなかったから。
「あたしに気付いたとき。微笑んでくれて、うれしかった」
そんな彼女の物言いに、言われる翠はほんの少しまた泣きそうになってくる。
彼女に、言ってもらえることが。
そうやって言葉を投げかけてもらえることそれ自体が、翠には今、かけがえのないものだから。
たとえそれが自分に、……そう、なにもできなかった自分に本来、許されることなのかどうかわからないとしても。
明確な形容の呼び名を得たふたりの関係性が、それだけでこころあたたかくするものに翠は思えるのだ。
「行こ、翠」
彩咲さん──ううん。葉月さんが、そうあることを望んでくれた。
翠が彼女にとってそういった存在であると、認めてくれた。
彼女がこちらに向けた掌を、伸ばした指先に翠は軽く握り返す。手と手、とりあって歩き出す。
「はい、葉月さん」
友だちという、そのふたりの関係。
罪悪感は残っている。無力感は未だに、この胸の奥底からけっして消え失せてはいない。
しかしそれでも翠は、彼女がそう呼んでくれたように自身もまた、葉月のことをそう呼びたかった。
彩咲 葉月という少女のこと。彼女の妹、朋花のこと。大切にしたいという願いはなにより強かった。
願わくば、その関係性が健全であってほしかった。その判別は翠自身、客観的に自分自身へと下すことはできない。
わたしと、葉月さんが友であること。どうか。それがわたしの、わがままでなければいい。その資格が自分に、あってほしい。
ひょっとしたらそれは傷ついた自分が縋っているだけなのかもしれない。
自分は彼女に対し何ら、友というその言葉にふさわしいなにかをしてやれたことなどないのだから。少なくとも翠にとってはそれが自己評価であり、葉月に対する自身についての認識。
だから。──許されるならどうか、これから彼女に返していける自分でいさせてほしかった。なにも与えられなかった自分を埋め合わせていけるくらいに。葉月さんの隣にいたいと願った。
なにかに縋るとはつまり、それが救いだから。
葉月という少女へは、罪悪感も、申し訳なさもある。だからこそ隣にいることが、彼女に対して無力のままでないと思えることが翠にとって確かに救いであったのだ。
葉月から差し出された手をとらずに孤独を貫くほど、翠は強くはなかった。
傷の舐めあいであってもしかしそれは拒みようがないほど、翠にとって魅力的なものだった。
望んでもらえた自分から、はじめよう。
彼女と「友だち」でいること。それに資格を逸しないように。そんな自分でいられるよう。
彼女が「友だち」と呼んでくれるなら。
そのとおりに「友だち」で在り続けられる自分が、目指すべきものだった。
ほんとうに。──ほんとうに、葉月さんというはじめての「友だち」を失いがたく思う。
そう。「友だち」。翠の、はじめて得たたからもの。翠の側からでは、まだぎこちない強調がその周囲を覆うものだとしてもそれは、宝石のような世界にたったひとつの、眩しい輝きだった。
どんなに眩しくても向き合わなければ、直視をしなければならない。
その輝きに、恥じないように。彼女を陰らせてしまわないように。
自分のちからがあの日、輝くことができなかったのとは次元の違うこと。あんなこともうごめんだ。彼女を悲しませたりは、けっしてしたくない。してはならない。そう思う。
「ダメだよ、翠。笑って」
「あ……」
とりあった手が、ぎゅっとあちらから、やさしくつよく握られた。そこにたしかな体温と、込められたちからがあった。
「友だちには、笑っててほしい」
長身の、銀髪。
その肩くらいまでの背の、ポニーテール。
ふたり、並んでいく。
「友だちだからさ。聞いてよ、あたしのそんなわがまま」
殆ど、見えるか見えないか。そのくらい軽く、翠は頷いた。
頷いて彼女と合わせた歩幅に、歩いていく。
大切な友だち、ふたり。
* * *
「はァ? 噓でしょ? いくらなんでも」
葉月さんと、待ち合わせていた。
今日の『憩い』でのアルバイトは仕込みだけ。終わったら遊びに行こうと、時間と場所とを決めて、正門の前で放課後、別れた。
翠が今やっていたのは、キャベツの千切り。聖せんぱいほど手早く、細くはできないけれどそれでもぎこちないなりに、やり方やコツを教えてもらうことで少しずつ慣れてきた作業のひとつだった。
もうすぐ、せんぱいとの交代時間。早めにやってきて、文芸部のふたりのもとに合流していた彼女の声にふと手を止めて、翠は目線を客席のほうへと持ち上げる。
なにやら、声だけでなく。ここから見ているだけでもわかる程度にはなにか、驚いたそぶりをしてみせている。
──は?
──うそでしょ?
──ほんとに?
──いやいや、できすぎでしょ。
そんな言葉たちをとっかえひっかえ、何度も発して。せんぱいは繰り返し、なにかに困惑をしている。
聖せんぱいは、氷雨せんぱいと顔を見合わせている。
と、いうことは。彼女をそうやって困惑させているのは──涼斗せんぱいというわけだ。
「え。ほんとに、なの?」
ほら、また。笑ってはいけないと思いつつ、包丁を動かす手を再開しつつ、翠は俯かせた顔に浮かんだ微笑をかみ殺す。
「だからそう言ってるだろ。ほら、結果」
……結果? なんとなくその言葉が気になって、翠はもう一度、一行のほうへと視線を向けた。
涼斗せんぱいは、手にしたなにか、一枚の紙を広げてみせている。
ここからでは詳しくはわからない。なにやらブルー系のインクで印刷された、おぼろげにグラフだか、点数表だかが見えるその紙切れはいったいなんだろう。
「……模試?」
そうしていると紙面の片隅にうっすらと、その二文字が躍っているのが見えた。
せんぱいたち二年生ともなると受験もあるだろうから、別に持っていておかしなものでもないけれど。
なにをいったい、三人で困惑をしあっているのだろう?
* * *
さすがに話、盛りすぎでしょ。──いくら幼なじみの言うこととはいえ、実際に印刷されたその紙面を見るまで、聖は信じられなかった。
作家志望だからって、そんなキャラ付けあんたにいらんでしょ。涼斗に対し「うそだぁ」「まさかぁ」を連呼しながら正直、思っていた。
涼斗が聖たちに告げたのは、そういう性質のこと。
「……マジか」
「俺自身が一番驚いてるんだよ。そりゃ、国語は好きだし、得意だけど」
声を漏らした氷雨とともに、目を丸くする。
目の前に突きつけられた、この間の模試の結果。彼の成績表を実際に目にするまでそれは、到底信じ得ぬものだったから。
なにしろ幼なじみだからよく知っている。
彼の得意教科と、苦手教科。そして得意だといってもあくまでそれが一般的なレベルのものだということ──こんなこと、勉強にさして興味のない聖が言うのも幼なじみが相手とはいえ、失礼かもしれないが。
「国語。……全国一位……?」
少なくともそれは、学年順位からも普段、ずば抜けたものではなかったはずだ。あくまで涼斗という少年は聖にとって身近な幼なじみであり、夢を追っているただの少年であり。……そう、いい意味で『普通』の人間なのだ。
全国の秀才・天才たちを蹴散らしてその頂点を目指すとか、そんなことはあり得ないし、彼がそんなもの望んでいないのも知っている。
だがそこにはその認識をある種覆す結果が記載されている。きっと、彼自身が求めない範囲においてそれはそうなったのだろう。
「すごいじゃん、こやまん」
「いや、すごい……のか、やっぱり? なんか運というか、偶然というか。実力でそうなった気がしなくて、全然実感がないんだけど」
だって彼自身、戸惑っている。困っている。喜ぶではなく。
現に普段の彼のイメージの通りに、国語以外の教科はどれも、数字の上での順位はごくごく平均的だ。
ただ、ひとつ。国語だけ。順位表のそこでそれだけが、違う。
分母は、全受験者数。聖も、氷雨もその中にいる。そんな多数の、同い年の少年少女たち。
そして分子は、──『1』。ごく簡潔な、たったひとつきりの数字。
「すごい、と思うよ。全国一位なんて、はじめて見た」
それは彼より上にほかに誰もいないということ。
そんな数字に縁などないとはきっとほかの誰でもなく、彼自身が思っていたのであろうことは彼の見せた表情や、仕草や、反応から見てとれた。
どうやら、聖の幼なじみであるこの少年は。
自分の望む分野、求める勲章とは若干異なるかたちで、一番というものを手にしたらしかった。
(つづく)
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