3/ 聖と、翠と、文芸部と
はじめて、翠が自分の不思議なちからに気付いたのは、まだ幼かった時分だ。
ものごころも、つくかつかないか。そのくらいの頃。
できるか、できないかなど考えもしなかった。それほどに人格が形成されていた頃ではなかった。
既に父とは一緒に暮らしてはいなかった。
自分自身特徴的であると認識する、アッシュ・グレイ色のやさしい髪の色を遺伝子として分かちあってくれた母も、それより先立っていまは亡く、もはやこの世の人ではなかった。
料理は苦手な冴さんが、なにかの拍子で指先をほんの僅か、切ってしまった。血が滲んでいた、そういう状況だったと思う。
指先をしゃぶっている、冴さんのそばに幼い翠は寄っていった。
痛そうにしている、と思った。
いつだったかこぶをつくったときに冴さんがやってくれた、「いたいのいたいのとんでいけ」をやろうとしていた。そうすれば痛さなんか、飛んでいくのだと。治るのだと、幼いその認識に、信じていたから。
翠、と。目を丸くした冴さんが、息を呑んだのがわかった。
生まれて初めて、それは自分自身の意志で、翠が銀色の淡い光を身にまとった瞬間だったのだろう。
小さな手で握った冴さんの指先に、銀の粒子が集まっていく。
ほんの、二、三秒足らず。──傷口は、ごく小さなそれは、たった今までが見間違いであったかのようにさえ思えるほどあっけなく、さも当然のように塞がり、消え失せて。
冴さんが言葉を失い、目を瞬かせてこちらを見下ろしていた。
今の、は。掠れ声を聞いたそのときを、翠は忘れはしない。
それが、翠の。
はじめての、魔法。
* * *
「痛っ」
思い出したのは、不意に、『憩い』のキッチンに、聖せんぱいのそんな小さな声が響いたからだ。
まな板の上には、向こう側が透けて見えるような、薄く薄く一枚ずつが刻まれた、オニオンスライス。ただそれらを切っているだけで、うっかり指先を傷つけるほど、包丁遣いが不得手な聖ではない。ひととおり切り終えて、一旦包丁を濯ごうとして──どうやらそのときに、刃の根元の角を、うっかり指の隅へとひっかけてしまったらしい。
「大丈夫です?」
「んー。平気、軽くひっかいただけだから。じきに血も止まる」
治しましょうか。翠の言葉に一瞬、聖は小首を傾げて、考えるそぶりを見せて。おそらくは手元に残った作業と、いろいろなものとを、治してもらう手間との天秤にかけているのだろう、やがて、
「じゃ、お願い。悪いね、なんか」
客席からの視線がこちらに向いていないのを確認しつつ、そっと持ち上げた指先を、翠へと差し出す。
「いえ」
翠としては、大した労力ではない。
このくらいの傷ならほんの少し、指先に意識を込めるだけで癒すことができる。
かつて彼女とはじめて出会った夜、ララを救ったときは──自動車にひっかけられた、比較的大きな怪我であったから抱き上げて、意識を子猫へと集中してやる必要があったのだけれど。
僅か、ただちょっぴり、指先に光が瞬くだけ。調理台の下に握り合っているふたりの掌だから、その指先の光が、たとえ聖が用心しなくとも客席から見えてしまうことはない。
「けっこうお手軽に使ってるよね、そのちから」
ほどなく、その光が小さく消えていく。そこにはもう、血のにじむ指先の、その傷口はない。
「たいしたことじゃないんです。少なくとも、わたし自身としては」
傷口のあった場所を親指の腹で擦りながら、感心したように聖が言う。
あの日以来、再会をしてから、翠がこうして自身のちからを彼女の前で使ってみせるのは、はじめてではない。
うっかり、ララが甘噛みを強くやりすぎたときとか。
たった今そうであったように、料理の際のちょっとした怪我なんかのときに、既に何度もその傷を癒している。
別に、頻繁に、積極的に使っているというわけも、つもりもないけれど。それでも、既に翠の持つこのちからを知っている相手に対して、とくにそれを隠す必要もなかった。
また聖も聖で、翠のそのちからをアテにしているような、そんなそぶりをみせることもなかった。──まあ、根本的な話として、たかだかかすり傷程度で大げさに、わざわざ相手に手間をかけさせて「治してくれ」なんて言うほどのことでもなかったのだろうけれども。
「──あ、そうだ。私も読んだよ、翠の書いたお話」
薄く、薄くスライスをしきった玉ねぎを、流しでざるに開けて、水へとさらしながら、聖は背中越し、思い出したように言う。
あ、はい。読んでくれたんですね。
小説家志望であるところの文芸部員である──否、同好会員である翠は一瞬、どきりとしつつ。内心のどこかに嬉しさの感情が芽生えたのを、彼女へ返した声の中に隠せない。
そう。部員。一応、聖もまた、翠や、おかのふたり同様に文芸部、もとい同好会のメンバーなのである。
「まず、んっとね。面白かったよ。まだはじまったばかりのお話、って感じがしたけど、それでも気楽に読めて、面白かった」
ただ、彼女は「書かない」。
いや。本人曰く、「書けない」。
そういうタイプじゃないから、文才とか、ない人間だから──せめて、数あわせくらいにはね。そういって自分自身のことを翠に表現し、伝えた彼女におそらく、友人たちが部活を立ち上げる力となりたかったのだろうと、翠は思う。
部の、同好会の中にあって、彼女は自分の勤めるバイト先を活動場所として提供している。そしてもうひとつ彼女の役目として、読み手を引き受けている。
部員三人ぶん、全部。ほかの部員たちが互いにそうするのと同様、ひとりの読者として、翠たちの書き記した物語を読んでは、率直な感想を伝えてくれる。
本人曰くの、幽霊部員。
だけれど残る三人からしてみれば貴重な読者である、幽霊ではない部員だ。
「小説っていうか、なんだか昔読んだ童話みたいでさ。懐かしかった」
そんな彼女が読んでくれた物語。翠の描いた世界は、この春、高校に入って。新たな生活の中で書き始めた、現在進行形で書き続けている物語だ。
童話、といわれて、そのように彼女が印象を受けたことに翠は驚きを覚えない。
たしかに──そう見えただろうな、と思う。
一般的な小説と、子供向けの童話の境界線っていったい、どこなんだろう。そんな疑問に微笑しながら、首を傾げている心の中の自分がいる。
父とともに過ごすこと乏しく、またともに暮らす冴さんも職業柄、家を空けることの多かった翠である。
本を。いくつもの童話を、擦り切れるほどに何度も何度も、読み返し、幼少期の友としてきた。
そんな原風景が、反映されている。
つくりたい、作り出す物語に反映されていて、おかしくはない。
自覚は、ある。
「動物の出てくるおはなし。好きなんだ?」
だから年上の少女の問いかけに、小さく、けれど躊躇なく頷く。
「はい。『ドリトル先生』や、『ガンバの冒険』や」
果たして、それらの単語をせんぱいは、知り得ていただろうか?
だが知る者としての翠の危惧に反し、先達は知らぬが故の怪訝さを表情に出すことなく、柔らかいその笑みのまま、やさしく目を細めて。
「やさしいお話なんだなって、思った。なんとなく、そう伝わってきた気がした」
そう、翠のつくりだした物語を評してくれた。
まだ描きはじめたばかりの世界。翠の中にある、物語。
なにかを喪っても、生き続けてほしかった人がいた。そんな願望もきっと、その中には知らず知らず、翠の中から滲み出て、表現されてしまっているのだと思う。
喪った人を、近く翠は知っていたから。
喪ったその人を喪った──遺されてしまった人も、知りすぎるほどに、知っているから。
翠が紡いだのは、ひとりと一匹の物語。
ひとりは、少女。翠はその子に、「レイ」と、短い名前を与えて、物語の中、そう呼んだ。
少女の両脚は、動かない。最低限、爪先がほんの僅か、なにかを踏んだり、その力を抜いたりすることができる程度。
レイは、だから車椅子に乗っている。
大人しい少女は血の繋がった家族を持たず独り、北欧のように清涼で美しい、木々に囲まれた湖畔の別荘小屋に暮らしている。人と接するのは、幼少時から彼女の世話をする使用人の青年がひとりと、三日に一度、日用品や食料を届けにやってくる、雑貨店のおじさんだけ。
少女はその人生に悲観はしていない。その人生を静かに、密やかに。ゆっくりと生きている。
止まったような時間の中を生きているように、そう物語を描き出せていられたらいいな、と翠は思う。
そんな、孤独だけれど穏やかな暮らしの中にある少女は、物語冒頭、一匹のキツネと出会うのだ。
小麦の、黄金色をした毛並みの、そのキツネの名は──ココ。
屋根のある、湖を一望できる別荘のテラスに置かれたピアノの前でレイは、美しいココとはじめて、出会う。
人の言葉を知り。
人の言葉を自らもいつしか身につけ、喋るようになった、そのキツネと。
かつてピアニストとしての将来を嘱望された少女は対面を果たすのである。
冬も近くなって、ごはんでも探しに出てきたのかな。初対面のキツネにそんなことを思い、ピアノの鍵盤からふと視線を向けたレイ。
ピアノというもの自体は知っている。知っているけれど、奏でたところでなんのお腹の足しにもならないものに向かって、人間というやつはもの好きなものだ──そう、興味本位で近づいてみた、ココ。
翠が描くのはそんな、ひとりと一匹の織り成す、交流の物語──……。
(つづく)
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