2/ 聖と、翠と、ララのこと
その日。普段使っているものと違う道筋を通って、配達先から店へと戻る帰途に就いたのは別に、バイトの時間を潰してさぼってやろうとか、そういった邪な部類の感情があったからではない。
いつも通りの、配達先。いつも通りの、ビジネスホテル。
いつも通りの、フロントマンのおじさんが注文した、いつも通りのコーヒーと、カレー焼き飯。
聖の務める我が勤務先たる食事処、『憩い』には、カレーピラフも、カレーチャーハンも、ドライカレーもない。ほんとうに、焼き飯にカレー粉と、ほんのちょっとのケチャップを加えただけのただのカレー焼き飯だ。レーズンなんて洒落たものは入っていない。よく言えば牧歌的、自嘲気味に言えばどこにでもあるかまぼこや、赤いウインナーなんかが刻んで入っている。
いわばそれは、休日に家族だけで過ごす時間にやりとりするような類の飾り立てのない料理だ──ホテルのおじさんはそんな素朴な味を気に入ってか、決まってそれを注文し、コーヒーとともに都度運ばせる。
それを届けた、店への帰り道だった。
仕事には使わずとも、同じ町内、勝手知ったる冬の夜道である。
その日、そのとき。左手に公園が見えてくるのは、わかっていた。小さな滑り台と、鉄棒と。公衆トイレに、砂場。ごくごくありきたりでありふれた、どこにでもあるような公園。
「──え」
数瞬程前だった。その道なりを、やけに慌ててスピードを上げたセダンが、こちらに向かって走り去っていくのを既に見ていた。
危ないな。スピード違反じゃないの。思いながら、遠くなっていくそれに触発されるように、店への帰途を聖自身、少し急いだ。
冬の時節、息の白くなるような、すっかり暗くなった時間帯だ。小学生の子どもたちや、親子連れがやってくるような時間ともずれている。
誰かがそこに、……公園にいるなんて、思ってもみなかった。
遠く微かに、公園へと入っていく影がひとつ、動いたのに気付かなければ、もしかしたら見落としていたかもしれない。
満月の、夜。
聖が通りがかったその公園に人影はひとつ。
小さな命を、子猫を抱いて佇むその影は、月あかりを見上げていた。
まあるい、満月から降り注ぐ光を浴びて。
先ほどのセダンが生んだ結果である、怪我をした子猫を、その腕に抱えていた。
「銀色の、髪?」
そのように聖の瞳には、そこに佇む少女の美しい、……とても綺麗で長い、その髪の色が瞬いて映った。
はじめは、月の光がそのように、色素の薄い、淡いグレーといっていい色の少女の髪に反射をして見えるのだと思った。──事実、月明かりのおかげか夜空の下でも、長身の少女が背中に流したその髪は、単純な黒髪ではなく、地毛か脱色か、より薄い色味であるのは間違いのないものであるように見て取れた。
だがそれらの認識がずれたものであったことをやがて、聖は知る。
「違う」
反射じゃ、ない。その美しい煌めきに対し、月明かりはより一層の強調をしているだけ。
白銀に見えるその輝きは、少女自身のもの。
自然の、人為ならざるものたりえない、微細な粒子のような、靄のようなそれらが少女を、その髪を取り巻いて──輝いて、いる。
そしてその中心には、腕に抱かれた子猫が、いる。
その幻想的で、美しい白銀の光景に見惚れていた。息を呑んで、その場を動けずにいた。
次第に薄れていく輝き。変化がやってきたのは、それを放っていた少女の腕の中、ぐったりとしていた子猫が小さく、にゃあ、と何事もなかったかのように啼いて、少女の指先を舐めた頃。
「──誰っ?」
ふと我に返った拍子に、靴の踵が足許に転がっていた小枝を、踏み折った。
ぱきりと鳴った、小さく乾いた音に振り返る少女。その目線の先に、取り繕いようも、隠れようもなく間抜けに、聖は突っ立っていた。
「あ。……えー、と。その」
なんて、言おう。なんだったんだろ、今の。
幻? 見間違い? 夢遊病? 思いながら、こちらを向いた少女から一瞬、視線をはずして頬を掻く。
ひとまず確かなのは、少女が人目を気にするようななにかを、やっていたということだった。そしてそれはおそらく、腕の中の子猫が関わること。
そして、白銀の、たった今まで少女を煌めかせ、取り巻いていた輝きが関係をしていること。
「……見ました?」
概ね、ひととおり。見てしまったよ。その意を込めて、聖は頷く。
「きれい、だったね」
なんだか銀色で、きらきらして。セーラー服を着たその少女に向けて、言う言葉も間抜けだった。
少女は怪訝そうで、戸惑っていて。
聖も困惑して、戸惑っていた。
戸惑いと戸惑いが、重なり合っていた。
それがふたりの、出会い。先輩後輩の間柄にも、家がお隣さん同士になるなんてことも思いもよらない。そんな、聖と翠の、ファースト・コンタクト。
* * *
「ほんと、間抜けだったなぁって思うよ」
冴さんのいない日は、バイトのあるなしに関わらず、どちらかの家でふたり揃って、夕飯をともにするのが、聖と翠の間にあっては最近のお決まりだった。
自衛官だという冴さんは仕事柄なのか、週の半分以上を家を空けている。だからどのみち、大半の場合において、互いに家にはひとりきり。個々で食べるより、ふたりでつくって、食べて、片付けるほうが効率的だし、楽である。会話だって弾む。だから自然、翠が聖の家の隣に越してきてほどなく、そうなった。今日は、翠の家で夕飯をともにする番。
もちろん、そういう選択肢が浮かび上がり、それを選ぶことができる程度に、両者の間には急速に距離を縮めていくだけの理由があった。
「間抜け、ですか?」
「そー。ぼけっと突っ立ってた私ももちろんだけど。翠だって、大概お間抜けだったと思うよ?」
よ、っと。夕飯の青椒肉絲を炒めていたフライパン鍋を振って、空中で具材をひっくり返す。
出来合いの、レトルトの調味料は使わない本格派だ。こういった炒め物にしても、『憩い』でのバイトを通じてごく当たり前に、聖が出来るようになっていったもののひとつ。
ほら、お皿出して。ピーマンをひと口味見して、家主である後輩に促す。
幼い頃から、聖は年下の相手とともに過ごすのをあまり得意としていない。
実の、血のつながった妹がいるにもかかわらず──あるいは、だからこそ、なのか。それはどちらの方向性に理由づけたとしても、言い訳じみたものになってしまうと思う。ただ、苦手であるのは間違いない。自分が誰かより上の立場にいるのが、なんだか落ち着かない、というか。
だから本来、いくら同じ学校の後輩であったとはいえ。お隣さんとなったとはいえ。翠とこのように親しく接することなど想像だにせぬことであったのだ。出会ったときには、まだ。
「だって、訊いてもないのに翠ってば、自分から説明はじめたじゃん。ララのことから、翠自身のことから。なに言ってんだこいつはー、みたいに、悪いけど思ったよ、ぶっちゃけ」
あまりに、あまりにも独特すぎる出会いを経て再会をしていなければ、このようにはなっていなかっただろう。
はじめて出会ったその日、聖は見た。
自然現象ならざる輝きに包まれて、子猫を『癒して』いく翠を。
翠は、見られてしまった。見ず知らずの、行きずりの。そのときはまだどちらが年上であるかも知り得ない少女に。
「あのときはその、慌てていたんです」
「へえ? なんか意外」
魔法使いって、クールで知的なやつなんじゃないの?
──そう。翠は、名乗った。自分の名前。引っ越し前で、この街に、家の内見に来ていたこと。
“「わたし。──その、えっと。魔法少女、なんです」”。
──あまりにも正直すぎるほどに、素直に。子猫を救っていたことを告げた。そして、頼んだのだ。
このことを黙っていてくれ、というステレオタイプなお願いではない。そんな漫画じみたものではなくもっと、直接的で、当面的であること。
「ララ、ごはんだよー」
この子を、お願いします。そう言うなり子猫を聖の腕の中に押し付けて、少女は駆け出していった。あっけにとられた聖はただ、それを見送るばかりだった。
そんな相手と数か月後、マンションの、自宅の玄関前でばったり顔をあわせたときの驚きといったら。そりゃあもう、びっくりなんてものではなかった。
忘れるわけもなく。ふたりは改めて、出会った。
あのとき押し付けていった子猫は、ララと名付けられて。聖の家や『憩い』で、自由気ままに暮らしていた。その、矢先であった。
ぱきりと音を立てて開けた、缶詰のキャットフード。聖の声と、餌の匂いとを察してか、向こうの部屋に隠れていた子猫はゆったりとした足取りで、聖と翠の待つダイニングに入ってくる。
この猫を結び目として、ふたりの関係性ははじめ、繋がったといっていい。
翠曰く、この子が自動車に引っ掛けられたのが、見えたから。
子猫の負ったその傷を癒し治療する手立てが、彼女だけの持つちからとして存在していたから。
聖は、それを目撃することになった。目撃したから、急ぎ列車に乗り立ち去らねばならなかった翠より、ララを押し付けられたのだ。
そういった経緯があったから、ありきたりでなかったから。再会を果たしてほどなく、今このときが日常となっているように、ふたりは自然に打ち解けられたのかもしれない。
単なる現代的な、没交渉に近いお隣さんでなく。
互いが、互いの事情や現状を、訊き、承知しあうことができたのだと思う。
「せんぱい、今日はお茶にします? お水?」
「あー。んじゃ、お茶で」
もちろんまだ、そうやって互いを知りあうようになって、ほんのひと月ほど。それぞれについて知ったこともあれば、まだ知らないことも、往還させられていない事情も山ほどある。
けれど少なくとも、聖は知っている。
翠には、力がある。傷を癒す、魔法の力。魔法少女の、ささやかな力が。
彼女の夢も、知っている。小説家に、なること。夢を未だ持ち得ない自分には、彼女が年下ながらにそれだけで尊敬し得る対象であるということ。
それらだけは間違いなく、知っている。
翠から聖にしても、そう。
独り暮らしだと、いうこと。
バイト先のこと。文芸部──同好会の、こと。知らないことは山ほどきっとあるけれど、聖が翠へともたらしたそれらのことは、知っている。
そのうえで好ましく思いながら、聖と翠とは、互いが互いを必要として、この日常を過ごしている。
(つづく)
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