1/ 聖と、翠と、『憩い』
柊 聖(ひいらぎ せい)が自分の記憶する中で生まれて初めて、自分自身というものに対して明確に、引き返すことのできない諦めや見切りという行為を果たしたのは、中学二年の頃だった。
小学生──リトルリーグから続けていた、野球。その頃にはもう、男子に交じって、という枕詞が接頭するかたちで、形容されることが多くなっていた。
自らの身体をだましだまし、競技に打ち込んでいる自分に気付いてもいた。
生まれついての不具合が、身体にあったわけではない。
だが中学に入ったその時分には既に、聖は少年野球者特有の、肘の故障に苛まれつつあった。所謂、リトルリーグ肘という、肘関節部軟骨の成長障害である。
また、自分の才能的限界にも気付いてはいた。
己の肉体がどこまでも、ごくありふれた同年代の少女のものにすぎないと。
否、男女関係なく、聖の身体能力は、野球というスポーツに対する才能や適応力というものは、一般的な中学生生徒というレベルを凌駕するものではなかった。
残念ながら、才能の差、向き、不向きの差というものはいかなるものにおいても存在する。
……努力は、才能を埋められる? そうかもしれない。けれどそれは凌駕を可能とするほどの努力の量と質、没入を要求するものであり、果たしてそれを認めるほどの自分自身や、肉体や、周囲の環境が容易に存在し得るものがどれほどいるだろうか? 少なくとも、それらは聖のもとには、存在しなかった。それを与えられるべきものは、聖の周囲においては聖ではなかった。
どうにか、練習についていっている。かろうじて踏みとどまっている──才覚を示し始めた同年代の子たちに対し、そういう感覚を抱くことが多くなっていた。そしてきっとそれは、性差というものでなく、「置いていかれ」つつあるものたち皆に共通していた感覚であり、感情だったろう。
とくに聖は、だれかに「置いていかれ」るのは、そのときには既にはじめてのことではなかったのだから。
「──ウン。そうそう、真ん中から、熱いお湯を細く落として。そう、ゆっくり。ぐるぐるって、輪を描くように」
聖は、投手だった。ごつごつした男子にはないやわらかな肩の関節が聖の野球をそれによって成り立たせていたし、それを失えばもう、まさにあとはただ、「置いていかれ」るだけだった。
肘に続いて中二の夏、肩を壊した。
日常生活に支障はない。しかし競技を続けるのならば、どうしても手術が必要な、そんな怪我。
両親はそのためにまだ十代という年齢の半ばへと入ったばかりの娘の身体にメスの傷をつけることを許さなかったし、予算を出すことを承服もしなかった。なによりそれらをじっくりと時間をかけて議論をするほどに、彼らは娘の打ち込んできた競技に対し、時間を割くことをよしとしなかった。
そこまでするべき対象であると、聖の人生における野球というものの占める重みを、認めなかったのである。
しかしそれはけっして無下で冷たい、一方的なものでもなく。聖自身もまた、ここまでだ、となぜだか、自身の怪我にひどく納得できたことを覚えている。
だからそのとき、聖は自分に見切りをつけた。野球を、あきらめたのだ。
「最初の一回は、湿らせる程度。もちろん少なすぎてもダメ。コーヒー豆を十分に濡らして、温めて。──ぽたぽた、ちょっぴり落ちてくるくらい。二回目のお湯をたっぷりと注ぐ。このときに絶対、ケチらないこと」
だからそれらは、過去のことだ。時間にしてもう三年近くも前。今更、引き摺りようもない。
今こうして聖の前にあるのは、アルバイト先の厨房と、まさにちょうど、彼女自身が手ほどきを授けている、コーヒーのドリップ方法。それを教わる、アルバイトの、そして高校の後輩である少女。
頭ひとつぶん以上、年上である聖よりも高い身長の彼女は恐る恐る、コーヒー豆の粉へと、銀のポットから細く、円を描くようにお湯を落としていく。
彼女自身の、大人しく物静かな性質を表すかのように、慎重に、ゆっくりと。
「そう、そう。上手いじゃない。ほんとにこればっかりは誰がやっても、まったく同じ味にはならないから。個性が出るからね」
中学を卒業し、高校へと進学をし。聖は、アルバイトに精を出すようになった。
ひとつは、叔父夫婦が宮司を務める神社の手伝い。
たったひとりの妹が留学をし、両親がそれに付き添っていったからというのもある。独り暮らしとなった高校生の少女がただぽつねんと家に残されているよりは、信用のおける身近な人々の中で見守られて活動するのを、親というのは安心するものだ。──だったらはじめから置いてけぼりにするな、という話でもあるが。
聖は今、独り。我が家であるマンションの一室に、独り暮らしである。とっくにもう慣れた。慣れたらそのぶん、時間というものを効率的に使え、有り余らせるようにもなった。だからこうして、ここ、神社の石段の下に土地を間借りして営まれている和喫茶と定食のお店、『憩い』でのアルバイトなどもしている。
「完全に、お湯が落ちきってしまう前に断続的に、次のお湯を落としていくんだ。豆の中にお湯がない状態が生まれると、そのぶんだけ豆が冷めてしまう」
叔父夫婦の、神社の石段すぐ下。灰色の石畳のそれをすぐ右手に見るそこで、これまた旧い付き合いのこの店で、厨房の切り盛りと接客、いずれもを中心人物として聖は任せられている。もともと料理をするのは好きだった──接客の仕事も、やってみて嫌いではなかった。空いた時間を埋めるには、うってつけだった。
おいしい、コーヒーの淹れ方。
本格派の、出汁のとり方や、ナイフで真ん中を割って開く、とろとろのオムライスの巻き方。
そうして身につけたものを、聖は後輩であるきれいな灰色の髪の少女……雪村 翠(ゆきむら すい)にひとつひとつ、教えている。
「あの、」
「うん?」
「聖せんぱいのコーヒーは、基準からいうとどういう特徴になるんですか? とってもおいしいと思うんですけど」
和装に見えるよう、作務衣風に袖口や襟元の加工された、ゆったりとした紬の上着。ワインレッドのスカートに、同じ色の腰巻エプロン。それぞれが両脚に穿いているニーハイやタイツは、学校の制服からそのまま。聖と翠が身につけている接客スタイルの衣装は、そういうものだった。
「私? 私のは、酸味少なめで、すっきりしてるってのはよく言われるかな。飲みやすい、ってさ。翠だっていっつもブラックで飲んでるでしょ?」
週に二、三度、この『憩い』で料理の腕を振るい、それを楽しみにやってくるお客さんの相手をして、働いて。
やっぱりもう週に二、三度、神社の仕事を手伝い、働く。お盆や年末年始は、大忙しだ。
高校二年生の春、もうすぐ初夏の近づくその頃。その生活がとうに、聖にとっては当たり前の日常になっていた。
「まったく同じにはならないよ。絶対に」
ステンレス製のポットに落としたコーヒーを火にかけると、それはふつふつと温度を上げていく。
温度自体は、とびっきりのあつあつに。だけれど、沸騰はしてしまわないように。ほどよいところで、聖はコンロの火を止める。
「さ、いいよ。持って行ってきな。はじめてのコーヒー、『みんな』に飲んでみてもらいなよ」
その日常へと、翠がやってきたのはほんの、まだ一か月ほど前のこと。
聖の独り暮らす家のお隣に越してきた翠は、学校の後輩でありまた、こうしてアルバイトの職場においても、後輩となった。
できたてほやほやの、後輩。そんな彼女にカップを準備するよう、示す。
時刻はまだ夕方五時、少し前。夜の営業を前にした──なにしろお昼のランチタイムは、オーナーである店長、独りで切り盛りをしている小さな店だから──準備中の看板をぶら下げての、休憩時間帯。
聖と、翠とが店に合流をして、さあ頑張りますよという、そんな頃合いだ。
店の中には、聖と、翠と。
そして客席に──人影、ふたつ。「まだ」いないはずの時間帯にしかしそれらはたしかに、いる。
「文芸部のみんなに、コーヒーをお願い」
それは翠がこの店にやってくるより、ずっと前から一緒にいるふたり。
聖が、この店で。いや、この街で──ずっと一緒の、面々だった。
* * *
ソーサーに載せたコーヒーカップには、たった今、翠自身が淹れたコーヒーがぷかぷかと、波を打って揺れている。
ほんの、4か月ほど前。この街にはじめて、保護者である冴さんに連れられ、春からの引っ越し先の下見にやってきたときは──その頃はまだ、コーヒーなんてそれこそ自力で淹れるならば、お湯を注ぐだけのインスタント・コーヒーくらいしか知らなかった。翠は自分の手で挽いた豆の粉から淹れるなどという大それた行為の果てに生まれるそれを、飲んだことがなかった。
冴さんというのは、海外に住まう、実父の友人だ。自衛官で、あちこちに任地を飛び回っている。そんな彼女に連れられて、翠は日本各地を転々としてきた。
「お待たせしました、コーヒーです」
そしてはじめてこの街を訪れたその日、柊 聖という年上の少女に出会った。
はじめて会った際は互いをそれと知ることもなく。次などあるとは想像もしない、ただ行きずりの縁に過ぎないものだった。
だのに、引っ越しをしたその日、その朝。はじめての、高校への登校の日。
少女はお隣さんとして、マンションの扉を開いたそこにばったりと出くわした。
出会っただけの相手が、お隣さんに。そして身につけたセピアカラーの制服と、ひと学年上を示すリボンタイの色から『せんぱい』へと変わった、瞬間だった。
独り暮らしだという彼女は部活も勧めてくれたし、職業柄家を空けがちな冴さんのおかげで独り過ごしがちな翠を、なにくれとなく気遣ってくれた。
「はじめてなので。おいしくなかったら、ごめんなさい」
そして学校の『せんぱい』は、バイト先の『せんぱい』にもほどなくなった。
アルバイトをしようと思っている、そう伝えると、彼女の働くこの店に誘ってくれたのだ。
そう。だから今、翠の生活にはたくさんの『聖せんぱい』が満ち溢れている。こちらから迷惑を顧みずそうしているのではなく、せんぱいのほうから、自ら、積極的に目をかけてくれる。
面倒見のいい人なのだな、と思う。この街ではじめに親しくなったのがせんぱいでよかった、と思える。
同時、出会いの鮮烈さが両者の間にそういう関係性を生んだのであろう、とも推察できる。
キッチンの中、カウンターと客席を隔てる、汚れひとつないガラスの、ウインドウの向こう。せんぱいの、肩より少し上のショートヘアー……つんつんした、張りのある黒髪が揺れているのを見やる。
あまり、髪のセットなどは気にしない、こざっぱりしていればいいと言っていた。
翠の感じる聖せんぱいとは、「かわいい」より「かっこいい」人だった。
「おー。ありがと、雪村ちゃん。今日もかわいいねー」
そうやって繋がった相手との絆が、今こうして、目の前にある人々との関係性をも繋いでくれた。
週に、三度。営業前のこの店で、オーナーの好意で。奥の座敷テーブルを部室代わりにして活動する、小さな小さな部活……文芸部。そう、同好会だ。
眼鏡の、小柄な、とても小柄な少女と。
その隣で黙々と、ノートパソコンに向かう少年。どちらも、翠にとっては年上、『せんぱい』だ。聖せんぱいが紹介をしてくれた、彼女が引き合わせてくれた、優しい人たち。
軽快な口調の、ヒサメ──氷雨せんぱい。彼女は、聖せんぱいの、幼いころからの親友で。
寡黙で静かな、リョウト──涼斗せんぱい。彼も、聖せんぱいの、幼なじみ。
翠には、夢がある。追いかけている、人がいる。その人に、叶えた夢を携えて、「わたしは大丈夫だよ」って、伝えたい。そんな、夢。
今はまだ、その入り口にさえ、たどり着いていない。だけれど、目の前のせんぱいたちにも告げた、応援してもらえた、夢。
「雪村。あとで、添削した作品渡すから」
そっけなくも少年から、そう言って認められた夢が、翠にはある。
「あ、アタシもアタシもー」
趣味であり、夢。それは小説家になること。自分だけのお話を、自分以外のだれかに読んでもらうこと。
そんなお話を、生み出すこと──……。
「やってるじゃん、氷雨も、涼斗も」
自身のマグカップを手に、聖せんぱいもやってくる。
夢がある。そういう自分を、この場所は受け容れてくれた。そんな居場所に聖せんぱいが自分を連れてきてくれたと、翠は思う。
そんな彼らですら、知らないこと。
聖せんぱいだけが、知っていること。
互いの名前より先、せんぱいが知り、翠が知られてしまった、こと。
「ララは、ミルクね。おなか壊さない程度に飲むんだよ」
テーブルの足許に、聖せんぱいが少しだけ底のついたお皿を、そこに注いだミルクを置く。
少年の、少女の両脚のすき間を縫って、テーブルの下から出てくるのは小さな、まだとても小さな子猫。
そう、聖せんぱいと翠とがはじめて出会ったその日、翠が抱き上げた子猫だ。
ララと名付けたのも、せんぱい。ぺろぺろとミルクを舐めるその姿は、翠と、聖せんぱいとの出会いの象徴。
あの日、翠はこの猫を救った。
銀色の輝きに包まれて──そうすることで、この小さな命の微かな怪我を、自分に唯一出来ることとして癒していった。
そういうちからが、翠にはある。いわば、魔法のちから。
せんぱいは、それを目撃した。
翠に出来る、たったひとつの奇跡。
生み出せる、たったひとつの魔法。
雪村 翠が、魔法少女だということ。
柊 聖だけが、知っている。
(つづく)
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