囚人と無記名のスープ
森田季節
囚人と無記名のスープ
生まれながらにして、先端科学倫理審査会という大仰な組織の一員に組み込まれたのはいいとしても、調書を読む許可が出るのすら一月もかかるというのは納得がいきがたい。生まれてからの一月間が本当に無駄である。
入室チェックを行い、やっと調書を置いてある部屋に入った。調書はハッキングによる流出を避けるため、ネットワークから遮断されたコンピュータで作成され、印刷されているのだ。
書庫から該当する書類をとって、机という以上の機能を何も持ってない無骨な机で読みはじめた。調書という性質上、文体は徹底して平板なものだ。つとめて、そのように作ったのだろう。
参考人である萬水香(よろずみずか)教授(以下、だいたい教授と呼ぶ)は、実験の前日、被験者であり同僚の柊沢万理亜(ひいらぎさわまりあ)研究所員(以下、だいたい所員と呼ぶ)とずっと同じ部屋で過ごしていた。
教授は所員の希望どおり、ベッドの上で彼女の手を握っていたらしい。
もっとも、教授は「こんな感傷的なことは無駄なのだけどね」とはっきりと言ったという。この参考人は自分の心情を内に秘めるという発想はないようだ。
それに対し、所員は、「もし失敗すれば教授のことを忘れてしまうのですから、これぐらい許してください」と答えたという。
もっとも、調書には一文字も書かれてないが(所員がいないのだから当たり前だ)、彼女は自分が実験体として使われることに強い快感を覚えていたはずである。
これは先端科学倫理審査会の会員である私も、断定できる。
破滅願望というのだろうか、それとも殉教者願望と表現するべきか。彼女は国内外から反発の上がっていた教授の実験の被験者になることを進んで求めた。それは愛する者の研究の成功を信じていたからではない。愛する者のために身を捧げること自体が目的だったのだ。
そういう意味では、被験者のほうにも強い打算があったわけで、教授を一方的に悪と決めつけるのにもためらいを覚える。実験体に使われる時点で、所員の目的はかなっていたわけで、それ以降の人生があろうとなかろうと、彼女にとってはそれはおまけだったのだ。
どうでもいいことだが、調書には供述中、教授は終始不遜な態度だったと書いてある。この箇所は科学的でもないし、論理的でもない。事が発覚した程度で、取り乱すようなもろい精神の持ち主がこんな研究も実験もできるわけがないのである。だいたい、どういう罪に該当するかもはっきりしていない事件に、罪の意識を持つことを要求している前提がおかしいのだ。
調書の続きに戻ろう。
時間が来て、予定どおり所員は特殊高熱実験室に移され、完全に液体にされた。
この時点で法解釈としては、柊沢万理亜という人物は消滅しているので、柊沢万理亜が何か語ることはできない。まだ死体があるなら、なんらかの奇跡や魔法によって、その死体が生命活動を再開した場合、その発言に証拠能力が認められるかもしれない。しかし、液体になったことが明らかである以上、それも許されないだろう。
教授の研究は、人間を液体にしたうえで再構成するというものだ。
実用化できれば、病気の人間から病気の要素だけを取り除いたり、老齢の人間を若年者にしたりできる。無から人間を作るわけではないので、かろうじて「治療行為」の範疇に収まっている。そうでなければ教授は研究すら許されなかっただろう。
コールドスリープのような方法では、休眠状態のうちに肉体が劣化する危険がある。破損のおそれもある。外傷や病巣も保存されたままなので、結局、そちらの治療方法が必要だ。肉体を液体にして、「健康」な状態で再生させてしまえば、そういった問題をすべて克服できる。固体ではないから、外部からの衝撃に対しても、しなやかだ。
問題は「液体から再生した人間が同一人物か」という一点だけである。
液体から人間を作った時点で、記憶が確実に一度失われている。おおざっぱな記憶を与えて再生させることはまだ可能でも、完全に液体になる前の人間と同一の記憶を持たせることは現実的ではなかった。
教授は適宜情報を与えることで、自分が液体になった人物と同一だと認識できるようになると説明していた。Aという液体からできた人間が自分をAだと確信し、客観的に見て記憶の齟齬が生じていない時点で、それはAという人間の再生と考えて問題ないという考え方だ。
もっとも、記憶の齟齬が生じないかどうかの確認は、Aを液体にして再生させ、知識を与えたうえで検証するしかない。
所員はその記憶の問題を確認する被験者になったわけだった。外部の人間で臨床するわけにいかないような問題だし、研究所が詳しく把握している人間でなければ、知識や記憶を同一のものか判断できなかったという面もある。
こうして、所員は液体になった。
この実験を認めない立場からすれば、この時点で所員は死亡したことになる。
液体はプロジェクトリーダーの教授が責任をもって保管することになっていた。実験の材料の保管者としては正しい選択だろう。問題は世間的な意味で、先端科学倫理審査会の立場からして、保管者の倫理意識に難があったことである。
教授は所員の液体に自分から採取していた血液を混ぜたのだ。
そのうえ、分離不可能になるまで徹底して攪拌した。
無論、そんなものは液体を再生させる前のチェックですぐにわかる。何人もの人間が問いただし、あっさりと教授はそれを認めた。
中止にするべきかどうか、議論は紛糾したそうだが、すでに人間が一人消えているのだ。柊沢所員の命を無駄にはできないということで、結局教授抜きで再生実験だけは進められることになった。
一方で教授はすぐに参考人として窓もない個室に隔離されている。
研究所はまず先端科学倫理審査会に連絡した(私が所属している機関だ)。審査会も判断に悩み、警察にも検察にも裁判所にも連絡だけは行った。協議のうえ、結論を事前に出しておきたいらしい。
おそらくだが、教授が自分の血を入れたという事実そのものがなかったことにされるだろう。発覚さえしなければ、それが一番楽だからである。
隔離は約一か月が過ぎた今も続いているそうだが、健康状態にはなんら不安な点はないらしい。健康的な生活とは言いがたいが、隔離しなくとも、研究所から数か月出てこないこともある人間だったそうだから、日常と大差はないのだ。「この五年、生の桜を見たことがない」とうそぶいていたことだってある人間である。
教授のところには先端科学倫理審査会のメンバーが連日訪れて、質問を繰り返した。この調書もその時の回答をまとめたものである。
『どうしてこんなことをしたのですか?』
その質問は調書に複数回出てくる。
回答も複数回あり、そちらも質問のように同じだった。参考人の精神状態にもなんら変化は認められない。なら、調書にまとめる時に削除してもよかった気がするが、調書を正確に作るべきだという意図のもとで残されたのだろう。
「柊沢所員を愛していたからです」
目の前から参考人の声が聞こえた気がして、私は調書から顔を上げた。
白い壁があるだけだった。
なのに、そこに見たこともない参考人がいるように私は錯覚した。
彼女の髪は水香という名前のとおり、どこか青みがかっている。彼女は幼い頃から水に強い愛着を持っていた。彼女の出身地はたしか詩人の金子みすゞの生まれた土地だった。日本海に面しているのに大きな島が荒波を防いでいるせいで、静かな湾になっているという。
「視力検査の上向きに空いているやつだよ」
そう、彼女は言っていた。
ゆるやかな湾の出入り口は、ずっと先に上が空いている視力検査の円みたいに見えたという。
「それより奥は恐ろしくも甘美な無限の場所だ」
そう教授は語っていた。
いけない。どうも参考人への思い入れが出ている。調書に戻ろう。
『それは、つまり、殺したいほど愛していたということですか?』
「全く違います」と彼女は言う。「それはよく説かれるところの独占欲からの殺人というもののことでしょう。子供じみています。愛する人間を殺せば、愛する人間はいなくなるのですから、独占どころではない。喪失があるだけです。それにもし私がそのような思想を持っているなら、実験以前に柊沢所員を殺しておかなければ理窟に合わない。柊沢所員は液体になった時点で永久に消えてしまうかもしれないのですから」
参考人は、委員会の人間の目を見据えながら話したはずだ。
『だったら、あなたは柊沢所員に憎しみを覚えていたのではないですか?』
「憎悪の対象を騙して、長く一緒に過ごすなんて非合理的でしょう。柊沢所員とは、この研究所に来てからも最低でも四年、ほぼ毎日顔を合わせ続けてきた。だいたい、自分の血を入れなくても実験を失敗に終わらせる方法などいくらでもありますよ。私は血判に特別な誓約能力があるなどと信じてはいません」
『では、なぜこのような行動をとったのか説明できますか?』
「もちろん、万理亜と一つになりたかったからです」
教授は待っていましたとばかりに、とうとうと語りはじめた。
「私はこの世界で愛する者と一つになる方法がないかずっと考えていました。手をつなぐ――それはただの皮膚の接触です。キスをする――唾液の交換です。性行為――本来的には出産のための作業にすぎない。それをコミュニケーションに代用するのは限界がある。まして、異性間で行うことが前提にされている行為なのだから、二重に代用ですよ。真似事で自分たちを貶(おとし)めたくはなかった。そこで、このような方法をとったわけです」
柊沢万理亜の情報を含んだ液体に萬水香の液体を足し合わせて、人間を再構成する。それこそが愛する二人が一つになることだと教授は語った。
それも映画に出てくるマッドサイエンティストのように、瞳孔が開いた表情でもなく。
推理小説で動機を告白する犯人のように、愁嘆場を演じるわけでもなく。
徹底して理知的に教授は説明した。
そう、問い詰められて取り乱すような人なら、こんなことを最初から試しなどしないのだ。
一応の精神鑑定も行ったそうだが、おかしなところは何も出ていない。
『あなたの語った理由に偽りがないとしたら、どうしてあなたは血液の一部だけを入れたのですか? それでは完全に一つになるとは言えないではないですか。自分がすべて液体にならなければ一つにはなれないはずだ』
おそらく審査会の質問者のほうが冷静さを欠いていたのだろう。
二人分の肉体を液体にして混ぜ合わせてくれだなんて話をしたところで、実験できるわけがない。そこには実験をする主体がいない。
「私は研究者です。ましてプロジェクトリーダーだ。実験結果を見守らなければならない。私が液体になったら、どうやって確認をするのです? まさか液体になっても魂がその様子を見つめているとでも? もしも魂があったとして、その魂に報告能力はあるのですか?」
審査会の人間は困惑したことだろう。話をそらすように、血液を混ぜる計画を柊沢所員もすでに知っていたのかと尋ねた。
初めて、私はその調書に興味を覚えた。実のところ、それまでの部分は発言内容に予想がつくようなことだったからだ。
教授がどう答えたのか、知りたかった。
所員も感づいてはいたはずだ。数年、愛する人間のそばにいて気づかないわけがない。
ただ、所員はそのことを教授に話しはしなかった。事前に伝えれば教授は実験を中止するおそれがあった。教授の実験を最後まで遂行させてあげたいと所員は思っていた。
そして、教授も所員が感づいていることはわかっていた。
数年、愛する人間のそばにいて気づかないわけがない。
所員が知っていたと教授が答えれば、仮に罪に問われてもその罪は軽くなる可能性がある。
それでも、教授は堂々とした態度でこう答えた。
「沈黙します。私は萬水香であって、柊沢所員ではない。彼女の意思を私の口を使って伝えるのはアンフェアです」
やはり、私の知っている教授と同じだ。
私は目に液体がたまっているのを感じた。
机に唯一置かれているティッシュを一枚取って、ぬぐった。
『最後に教授、あなたから聞きたいことはありませんか?』
「実験は行われたのですか? それとも倫理的な判断ができないということで中止されていますか?」
委員会の人間は当事者のあなたには説明できないと答えた。
調書はそれで終わりだ。
◇
その夜の深夜三時、私はカードキーを持ち出して研究所の地下へと向かった。
潜入と呼ぶほどのことはない。調書は紛失防止のため、研究所から一歩も持ち出されず、先端科学倫理審査会の人間の側が読みにやってくるのだ。私は許可を得て、そこの宿直室で一泊し、夜に起きだしただけだった。
地下の奥まった部屋が教授用の座敷牢となっていることはすでに調べておいた。
空調の音だけがしていた廊下にカードキーの開錠を示すピピッという高い音が響いた。
金属製の扉を開ける。開けてすぐの照明スイッチを押すと、白い床の奥に三畳ほどの畳と学校の保健室にでもあるようなベッドが置いてある。まさか、畳まで入れていたなんて。本当に座敷牢として機能させるつもりで設計していたのだなと思うと場違いにも笑ってしまいそうになる。
ベッドの青みがかった髪が動いた。
教授が体を起こした。
「体内時計によるとまだ深夜だと思いますが、こんな時間に取り調べをするとは聞いてないですよ。あるいは間接的な拷問のつもりで――」
私に目をやった教授の声は止まった。
おそらく、私が誰かはわからなくとも、何者かはわかったことだろう。
「教授、お久しぶりです。あるいは、初めまして」
「君は柊沢さんなのかな。それともまったくの別人なのかな」
「どちらでもあります。いえ。いずれでもあります。私の中には柊沢万理亜の記憶も、新しく生まれた私の記憶も、それに萬水香の記憶までたまに出てきてしまうんですから」
教授はベッドから私の顔を見上げていた。
その顔はどこか恍惚としていた。
実験は成功したのだ。
今の私が幸せそうだから。
「よかった」と教授は言った。
ああ、たしかに手をつなぐ意味などないのだ。そんな感傷的なことに何の力もない。それがわかったから、私はすぐに背を向けた。
「私は――私としか呼びようがないのですが、あなたを内に含みながら生きていきます。これからもよろしくお願いいたします」
「そうだね。いつ、ここから出してもらえるのかわからないが、それも些細なことだ。私と柊沢さんが一つになった君が生きていてくれているのだから」
では、今の私があなたを愛していると言ったら、愛してくれますか?
そう言いそうになったけれど、私はとどめた。
今は教授に実験成功の余韻にひたってもらえばいい。それから、また日を改めて、私の気持ちに変わりがなければ、その気持ちを伝えればいいだけだ。
初対面で愛していますとか問うのは、あまりに身勝手だろう。それに私は怖かったのだ。愛せないと言われることが。
私は教授と所員の愛の結晶なのだ。
自分たちの愛の結晶に恋愛感情を抱くことは、通常、難しいという。
誕生してさほどの期間がたってもいないが、初めて自分が自分でなくなるような、身をかきむしりたくなるような恐怖感を私は覚えた。
照明スイッチを消して、後ろ手にドアを閉めた。
オートロックによる施錠の音がしたが、そのドアに私は背中を預けていた。
科学者として道を究めるのでも、教授を救うために懸命になるのでも何でもいい。
とにかく、明日から差し当たっての生きる理由を決めなくては。
柊沢万理亜は教授の実験台になることで自分の人生は終わりでいいと思っていた。そこから先は何かあってもおまけだと信じていた。
しかし、柊沢万理亜は消えてなくなろうと、私はこうして存在してしまっているのだ。しかも先端科学倫理審査会はいまだに名前すら私に与えていない。親と呼べなくもない人間が囚人同然に隔離されていたので、誰もその役を代わる勇気がなかったようである。
私は右手をおなかに当てた。
どんな人間だろうとその手は温かい。
この体の中にはあの人の血も入っている。
「教授、おやすみなさい」
囚人と無記名のスープ 森田季節 @moritakisetsu
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