ファムファタル三期生

森田季節

ファムファタル三期生

「それじゃ、お薬をお塗りしますね」

 客の女がガウンを脱いで、ベッドに腹ばいになる。

 白い背中だが、痣も火傷の痕も、それから小さいがパンチ利いたグラフィティみたいなウサギのタトゥーまで入っていた。死にたくてたまらないような人生だったか、死ぬしかないところまで追い詰められてここに来たかのどっちかだった。

「少し、ぞくっとしますよ」

 サチは女の背中にクリームを塗り込んでいく。筋弛緩剤と麻酔の入ったクリームだ。自分の皮膚に浸透してこないように、サチの両手は医療用の薄い手袋で包まれている。

「なんか、日焼け止めを塗っているみたいね」

 客の女が言った。声はわずかにこわばっている。顔のほうはサチからは見えないが、笑おうという努力はしているようだ。

「ええ。これ、日焼け止めクリームが元になってるんですよ。あれって微量ですけど、皮膚に成分が入っちゃうんですよね。それが人体に悪影響かもって調べだして、逆転の発想で、塗るだけでよく効く薬を作っていこうって契機になったんです」

 ノドの調子が悪いかもしれない。声がジャムってる感じがある。でも、客には一切伝えない。客にとっては、今日がこれ以上ないほどの特別な一日なのだ。

「でも、最後は薬を口から飲まなきゃダメでしょ?」

「それはそうなんですけど、ほら、それだけだと即物的っていうか、ロマンがないじゃないですか~」

 この仕事にロマンがあるだなんてサチは一ミリも思ってないが、それを公式見解として認めることはできない。ロマンが売り物なのだ。死に至る薬を処方しておしまいでは商売にならない。

 そのくせ、医療の一環ということで清潔感は必要とされるから、サチも髪を肩のあたりでくくっている。前髪のほうはあそばせているから、前から見るか、後ろから見るかでずいぶん印象が変わるだろう。

「ところで、それって何の服なの? 何かのキャラ?」

 客の顔は見えないが、その代わりタトゥーのウサギの赤い目がサチを見ている。

「違います。まあ、広い意味だとコスプレなのかもしれないですけど。東欧の民族衣装をアレンジしたものだとか。ちょっと高原ぽいでしょ。『高(たか)ロリ』って言うのの亜種だそうです。あっ、後ろのクリームは終わったんで、前を向いていただけますか?」

 客がベッドにあおむけになる。改めてサチは客の顔を見る。人生の疲労が肌に刻み込まれている。

 この時間がサチは仕事の内で一番苦手だ。服で隠していた醜さがすべて明るみになる。

 人工的な質感を持った、黒ずんだ乳房にもサチはクリームを塗る。胸や首のあたりにはとくに入念に塗る。呼吸が弱く、浅くなるように。

「ねえ」

 客の女が言う。体の前側にクリームを塗る時はどうしても目が合いがちになる。

「何かありましたか? かゆいところでもあります?」

「どうして死のうとしているのか聞かないの?」

 本音を言うと何の興味もなかった。いちいち興味を抱いていたら、こんな仕事をできるわけがない。

「お客さん」サチは接客用の笑顔で寝ている女を見下ろした。「自分が死ぬことに迷いがあるようでしたら、今からでもよしたほうがいいですよ。薬さえ飲まなければ取り返しはつきます」

 まるでこの道何十年の職人のように、底が知れないような態度で。

 資格を持ったたんなる一人の人間だと思わせてはならない。

「特別な死をお客様に提供するから、私たちはファムファタルとしてお金をいただいているんです。お客様の事前のお覚悟は書類で確認させてもらっています。もし自分の人生を語りたくてたまらないほど未練があるのでしたら、こんなことは中止したほうが――」

「ごめんなさい。このまま続けて」

「いいんですね。心残りやムカつくことがあれば言ってくださいね」

「ううん、むしろあなたでよかったと思うの。ルーチンじゃなくて、本気で向き合ってくれたって今のでわかったから」

 それも含めてルーチンなのだ、唯一無二のパートナーであるように客の前で振る舞うのがファムファタルなのだ。そうサチは思うが、もちろん口には出さない。

 女はそのあと、サチが準備した錠剤を規定の量の水で飲み干した。

 レトロな霊柩車のような豪華なベッドの中で、サチと抱き合って眠ったまま、薬が効いて、数時間後に心停止した。


「サチ、もうちょっと控室でもおしゃれしたら?」同僚のヒイラギがあきれていた。「ジャージとだぼだぼのトレーナーって会社員の休日かよ」

「私にとったら、休日どころか仕事着なんだよね。入稿前の最後のひと踏ん張りみたいな。次のコミケは大阪の夢洲(ゆめしま)だし、高いリニア代の分も稼がなきゃだし」

 サチはソファの上であおむけに寝そべっている。仕事の中でもベッドに入るのだけど、相手が完全に心停止するまで眠ってはいけないので、かえって疲れる。慢性的に眠たいのは漫画家特有の不規則な生活のせいだが、それにファムファタルという不規則なバイトを入れたので、余計に悪化している。

「知らんし。同人って儲かるんじゃないの?」

 ヒイラギは控室奥のドリンクバーでレモンソーダを入れる。サチより三つ下のはずだけれど、いつのまにかタメ口になった。そもそもスイカの皮みたいな色の髪の毛で敬語を使われても似合わない。

 彼女が採用されたのはサイケデリックな髪の色をしていたからだろう。いろんな種類の人間が在籍していたほうが客側の選択肢は広がる。

「それは上澄みのさらに上澄みの話。私のサークルの売り上げは知れてるから、飲み会の代金ぐらいしか稼げないよ。専念すればもうちょい儲かるかもしれないけど、同人はあくまで趣味であって職業にしたくないの。だから本業はこっち」

「夢ねえな……。漫画描いてますって聞いた時はすげえって思ったのに。かえって夢つぶれたわ」

「勝手に夢持って、勝手に失望しないで」

「つか、この仕事もやれて十年でしょ。安楽死したい女も、どうせなら若いファムファタルと死にたいわけだし。指名入らなくなったらどうすんの?」

 頬をぽりぽりかきながら、サチは考えた。案外、考えてなかった。楽しいこと優先で生きてきたしな。にっちもさっちもいかなくなったら――

「その時はファムファタル雇うな」



 積極的安楽死の大幅な規制緩和が始まってから五年で、法の抜け道を利用した商売が登場した。


患者が深刻な精神的及び肉体的苦痛を受け、かつ医学的にも科学的にも回復の可能性がないと認められる場合、医師及びその他の専門的事業者の立ち会いの下――


 この条文の「その他の専門的事業者」という部分を拡大解釈した職業が現れた。

 本来、医師以外の専門的事業者を指している文言は、終末期ケアに従事する穏健な宗教家だとか介護施設の専門的な免許を持つスタッフだとかを意図したものだった。とくに日本の場合、「国民の葬式離れ」で衰退していた仏教界の僧がこの分野に参画する流れは既定路線化していた。墓を不要とする人間が増える以上、死そのものにお金を落としてもらわないとやっていけないのだ。かといって、「宗教」という概念や言葉を文章中に入れられない事情があり、抽象的な表現になった。

 そこに「その他の専門的事業者」として堂々と参入してきたのが、安楽死を提供する民間のサービスだった。毒を飲んで死ぬ人間のそばに最期までいてあげるのだ。

 親族から切り離され、さらに死後の世界や魂や輪廻転生を信じられない世代は、もとより自分の死を盛大に祝って飾りたい、最期ぐらい信頼できる人間と過ごしたいという意識が強かった。安楽死提供サービスはこれを受け皿にして成長した。

 とくに女性スタッフは相手を死に追いやるからということで、ネットスラングでファムファタルと呼ばれ、そのまま男女問わず、サービスそのものを指す言葉になった。そのあたりにも風俗業の派生じゃないのかという疑いの目が見え隠れする。

 ファムファタルの原義は男を破滅させる女の意味だから、諸事情で同性を対象にしているこの職業には合わないのだが、広まったものはどうしようもない。

 風俗業のように思われていたぐらいだから、政府が禁止に動くのではという憶測も早くからあったが、ロビー活動のたまものなのか、地下に潜られて殺人まがいのことが増えることを恐れたのか、結局、禁止ではなく追認という形がとられ、三年に一回試験を行い、合格者に免許を発行するということで落着した。法的にはファムファタルは終末特別看護人と呼ばれる。

 同人活動と両立できる割に収入がいいということで、サチは試験と講習を受け、晴れて合格した。国家試験になってから三度目の試験であるので、ファムファタル三期生ということになる。


 控室に入ってきたボーイから「サチちゃんの指名の人、正式に死にました」と言われ、サチのその日の仕事は終わった。夜九時頃だった。

 サチの勤める店は東京郊外の駅前の寂れかけた風俗街にある。通りはいまだに空気だけが殺伐としていた。店のドアを開けて、外気を浴びた途端にそれを感じる。

 昔はこの時間になると、いかにも反社なスーツの男や、半グレと呼ばれるチャラい男が通りの前で集まっていたらしいが、そういうものもたび重なる浄化作戦の果てに消えてしまい、同時に街の活気も完全に消えた。

 階段を少し降りた時に雨が顔にかかった。模造レンガを張り付けた五階建て雑居ビルは、いかなる設計思想なのか、踊り場のところがやけに外に向かって開けていて、そこから雨が入り込んでくる。隅にはコケのような緑色が見える。

 反社の人間よりも野良犬のほうがまだ出没しそうな雨の通りを駅のほうへと歩きながら、サチは次の本のネタを何にしようかと考える。とくにはまってるアニメもソシャゲもないし、オリジナルでもいいか。それなら、いっそ泣ける話にしようか。バズり狙いで。

 ヒイラギに具体的な数字を言うとそればかり記憶して言いふらされるからぼかしていたが、サチは同人だけで六百万以上の収入があった。消費税十五パーセントの時代にその収入で裕福かというと怪しいが、一人暮らしできない額でないことは確かだ。

 ファムファタルをやろうと思ったのは、人の死に接しまくれば漫画のレベルが上がるのではという安直な発想があったからでもある。ワンチャン、エッセイ漫画も描けるし。描かれた側は死んでるのだから、無断で描いたと訴えられることもない。

 しかし、現実はしょうもないものだった。何の分野でも特別になれなかった人が、せめて死だけでも特別なものにしようと店のドアを叩くだけだ。入店一か月でそれがわかってしまった。

 しょうもないと知ったまま、この仕事ももう五年になる。入れ替わりの激しい仕事だから、店では中堅からベテランの枠に入る。

 駅に着くまでの間、妙に視線を感じる気がした。

 振り返る。怪しい人間も、動物もいない。ただ、それで安心できるかというと逆で、かえって犯人を見つけられていないだけのような不安感がある。とくにサチは被害者の経験がある。

 差している傘のせいで、違和感に気付くのに遅れたのではないか。

 自意識過剰かもと思いつつ、念には念を入れて、自宅の最寄り駅に着くとそこからタクシーで帰った。

 もっとも、元ストーカーとはイベント会場で嫌でも会うことになるのだが……。



 夢洲国際コンベンションセンターでの大阪コミケ、サチは二日目土曜にサークル参加した。

 王賀(おうが)オーガニックという名義で、全年齢向けの二次創作本を頒布している。立地は島中だが、それなりの売上がある。絵柄的にはどちらかといえば男性向けかといったところ。客層は例年、六対四ぐらいで男のほうが多い。

 当日、売子をしてくれる同業者の中村マサラが駅前で迷うというトラブルもあったが、無事に合流して会場に入れた。

「ここ、辺鄙やわ。乗り換え多すぎるねん」

 売子の中村はため息をつきながら、折り畳み式の書見台を組み立てている。彼女は翌日、幼稚園の時にやっていたような古いアニメの二次創作をBL島で出し続けている古参兵だった。年齢も王賀より五つ上で三十を過ぎていた。

「辺鄙って、こっちは東京から前日入りしてるんだから、文句言わないでよ」

 王賀は本の入っていた段ボールをパイプ椅子の上に置きながら片す。

「まだファムファタルやってるん?」と中村が聞いた。

 辞めることを前提にしているような聞き方だった。

「やってるよ。つか、本業だし。何? いかがわしいとか思ってる? 国家公認だし、客だって女だけだし。そもそも風俗じゃないし」

 中村は組み立てた書見台の上に本を置いて、レイアウトを確認していた。電子書籍で同時発売しても、今でも紙でほしいという層は根強く存在する。

「なんで、同性しか相手できへんのん? 風俗になるから?」

「それもあるし、男を客にすると、無理心中を図って首絞めてくる奴とかがいるから。ゲイ向けの店でも、従業員が殺される事件があったのよ。まして女じゃ男に絞められたら抵抗できないでしょ」

 死を特権的なものにしたい人間の中には、連れ添いを生贄のように求める者がいる。それは首長の死にともない、家臣や奴隷や家畜を殉葬していた古代からずっと変わらない。一家揃っての無理心中も親の側――死ぬと決めた側――の都合だろう。王賀は中村にそう説明した。

「やっぱ、王賀ちゃんは冷めてんなあ。冷めてるから、ファムファタルやれるんかなあ」

 中村も王賀もお互いに本名を知らない。まして中村はサチというファムファタルネームも知らない。中村というのはいかにも本名みたいだが、本名とは全然違うらしい。

「冷めてるか知らないけど、悲しいとは思わないな。死ぬぞって決めてきた人のために泣いてあげるの、理屈がおかしいじゃん。自分で選んだんだから、むしろ祝ってあげるべきことでしょ。死ぬの怖いですよねえ、悲しいですよねえって言ったら、失礼ってものだよ。悲しいことなんだったら、お前はなんでファムファタルやってるんだってことにもなるし」

 クリームを塗って、薬を飲んでもらうだけだ。あとはベッドで抱き合ったり、手をつないだりして横になる。

 中村は「王賀ちゃんは例を列挙するところがあるねえ」と言った。

「まっ、死を見届けてるだけだよ。実際、正式名称は終末特別看護人だし。正式には自殺を見届けてんのかな」

「じゃあさあ、殺したい奴が客で来たらどうなるん?」

 それだったら殺人幇助(ほうじょ)になるのかという思考実験のつもりだろうか。

「自分が消えてほしいと思うような奴ってことでしょ。そういう奴ほど世にはばかって死のうとしてくれるわけないし、もしもファムファタルを使うとしても私を指名するわけないじゃん」

「そやね、厄介な人が死のうなんて、考えてくれへんよね」

 中村は「Bookical Pay使えます」と書いたプレートを机に置く。

「マサラちゃん、BL島とどっちがマシ?」

「うちは弱

小やし、平和やで。昔はカップリングが違ったらつかみ合いやってたって、おばあちゃん世代は言うてるけど、うちらにとったら都市伝説やなあ」

 中村はいつのまにか、面倒な客の話題を面倒な同業者の話題にしていた。中村にとって厄介な奴というのは自分を受け入れない人間のことなのだな、そう王賀は思う。

 だとしたら、自分が考える厄介な者とは少しズレる。

 やがて開場を告げる井上陽水の曲が流れてきた。王賀の通路にも鬼気迫った空気の一般参加者が早歩きで走り抜けていく。たまに王賀のサークルの前で立ち止まって、お金やBookical Payで本を買っていった。

 Bookical Payの利点は電子カード決済のように支払い用の専用端末が不要なことだ。あれの準備が面倒だし、なにより値が張る。なんらかのトラブルで数時間、使用不能になれば目も当てられない。コミケは数時間の勝負なのだ。Bookical Payで支払いたい旨を告げられると、王賀はカード型U-phoneを提示する。そこに商品別QRコードが登録されているので、そこから支払ってもらう。

 もっとも、スーパーやコンビニのような一円単位の端数が支払いの中で発生しない即売会では、お金での支払いのほうがよほど短時間で済むのが実情だ。中にはテーブルに勝手にお金を置いて、一冊持っていく者までいる。そこまでいくと、売買というより交易に近い。

 大手サークルへと流れる列の動きが一段落すると、島中の狭い通路の中に人があふれてくる。売子の中村の価値が高くなってくる時間だ。

「はい、三冊ですね。はい、ちょうどいただきましたぁ。はい、ありがとうございますぅ」

 中村は「はい」が多い。実家が飲食店だからだと本人は言っている。あと、語尾が伸びる。これも接客の時にやわらかさを出すためなのかもしれない。

「はあ、やっぱり既刊とまとめて買うてくれると、バカにならん売り上げになるなあ」

「それと、ここは男女ともに来るしね、どっちも客にできるのは強いかも」

「いっそ、エロに進出したらもっと儲かるんとちゃうん?」

「エロに行ったら面倒な客も増えそうじゃん。マサラちゃんがプロレスラーならそれも考えてもいいけど」

 面倒な客に対する免疫というか耐久力が自分は人より低い、王賀はそう感じる。自分のサークルがことさら被害を受けてきたわけではないと思うのだが機械的に流せない。

 ――じゃあ、なんで、ファムファタルはやれているんだろうか?

 自問自答した。中村が尋ねるまでもなく出てくる疑問だった。自分が接客業の極北とも言えるファムファタルを平気で続けられているのはどうしてなのか。

 相手がそのあと必ず死ぬから。

 すぐに思いつく合理的な説はそれだけだった。

 その時、ぞくぞくと王賀の肌が粟立った。

 不快なものが来たと体が伝えていた。

「王賀先生――関根先生、おはようございます」

 その女はいかにも前時代のオタサーの姫みたいなフリルの多いワンピース姿だった。長い黒髪にメガネをかけているが、そのメガネもwebにつながる機能のない、フルプラスチックのもののようだった。度も入っているか怪しい。

「本名呼びはやめてもらえますか」

 冷ややかな声で王賀は返した。関根は王賀の本名だ。

「ごめんなさい。王賀先生のファンが高じてわたし、どうしても暴走しちゃうところがあって~」

 王賀の隣に座る中村は半分ぐらい面白がりながら様子をうかがっている。本当に困っているとわかれば助けてくれるが今はまだ他人事のつもりだろう。これまでも売子をしてもらっているから、この客が来るのも知っている。

「はい、これ、お土産で~す。今回は岡山の銘菓のお饅頭なんですけど~」

 自分が持ちネタをやってきたとでもマサラちゃんは考えているだろう。王賀は客のそのパッケージをあきれながら見つめていた。客の顔を見たくなかったというのもある。

 通称「饅頭子(まんじゅうこ)」――饅頭ばかり持ってくるからだ。今回も三千円はしそうな大きな箱を持ってきた。差し入れというよりお中元のサイズだ。

 王賀はためらいを見せつつも受け取った。もし突っ返したところで、今の住所に郵送される未来でもやってこようものなら余計に気味が悪い。

 饅頭子の本名は大樫林(おおかしばやし)という。

 この女は二年前、王賀が前に住んでいたマンションまでやってきたことがある。イベントの帰りを尾(つ)けて、突き止めたと語っていたから完全にストーカーだった。会場で饅頭を渡してくるファンという印象はそれ以前からあったが、その日も通販でお取り寄せした地方の銘菓を持ってきた。

 自分の規模の同人作家でストーキングされるとは王賀も考えたことはなかった。自宅で話をしつつ、本人に看過できない旨を伝え、警察にもその場で連絡した。

 今後、二度と家には押しかけない、その代わりイベントに本を買いに来ることは許容する――その線で双方、示談ということになった。警察側もストーカーのほうが女だし、傷害事件に発展するリスクは小さいと判断したのだろう。

 警察の判断自体は正しかった。

 饅頭子はその後も律儀にイベント会場に足を運んできた。

 いっそ、明らかな脅迫でもしてくれるなら、警察をまた動かせるのだが、手土産を持ってくるファンという立ち位置に留まってはいるので対処ができない。

「前のオリジナル本もよかったです~!」饅頭子はトートバッグから王賀が春のイベントに出した同人誌を取り出した。「この三ページ目の神社、小金井(こがねい)の神社ですよね? 湧水でできた池があるところ!」

 饅頭子の「聖地」の特定は当たっていた。

 たんに生活圏が近いだけなのかもしれないが、饅頭子にすべて監視されているような気がしてくる。

 ほかの参加者の邪魔になるから。そう言おうかと思ったら、さっと一歩退いて、ほかの客が購入するスペースを作った。周りが見えなくなるタイプとも違う。

 それなら、どうして自分にだけ距離が近すぎるのか。

 また自分はくたびれている。

 ストーキングで反省して以来、具体的なトラブルをこの女は持ち込んではこない。しかし、だからといって楽しく話せるわけじゃない。

 苦手な客を断るという根拠を自分は持ち合わせていない。

 どうして気持ち悪いこいつは存在しているんだろう?

 どうして消してしまうことができないんだろう?

「このページの大ゴマの構図、王賀先生が五年前に出したアイワリ本の構図と同じですね。王賀先生のお家芸ですね~!」

 それも正解だった。

 分析されてうれしいという気持ちはない。

 ただ、ただ、気味が悪い。

「ったく。なんで、そんなに私の本にはまるわけ?」

 質問というよりあきれているといったほうがいい態度で王賀は言った。

「私程度の同人作家なら百ダースは下らないでしょ。もっと神対応の作家もいるだろうし……」

「好きなものは好きなんです! 新刊一冊お願いします!」

 定価と同じ八百円を饅頭子は出した。新刊の値段も事前に調べているのだろう。Bookical Payで支払うと言われなくてまだマシだった。技術的に可能かわからないが、QRコード読み取り用にカード型U-phoneを出したところから個人情報を抜き取られそうな気がする。

「ちょうどですね。お買い上げありがとうございます」

 ことさら他人行儀を強調して王賀は言って、新刊同人誌を饅頭子のほうに向けた。だが、意識して他人行儀にしているということにも苛立った。とにかくこれで今日の試練は終わり。

 そのはずだった。

「ファムファタルされてますよね、サチさん」

 新刊を受け取る時、ぼそりと饅頭子は囁いた。

 寒気がした。

「また警察呼ぶよ」

 そうやって警告をするのがやっとだった。怯えた顔を見せてはいないはずだが。

 雨の日の仕事帰りに見られていると感じたのも、気のせいではなかったんじゃないか? 疑念が際限なくふくらんでくる。

「おうちには一度も行っていません。誓います。その付近まで行ったこともないです」

 饅頭子は笑って言った。その言葉は信じていいような気がした。この女はウソをつくことはない。これまでも約束を破ったことはないのだ。

 よそのサークルの笑い声が耳に入ってくる。どのみち、ここは詰問する場として不適切だ。

「まあ、いいわ。SNSで言ったりしないでね。ファムファタルをよく思わない人も多いから」

「客として行っていいですか?」

 にこやかに饅頭子は王賀の瞳を覗き込んだ。

 階段の段数を間違えて足を上げてしまった時のような、変な浮遊感が来た。

 この女は建前だけのことを言わない。

 だとしたら、本当に来る。

 ――何をする仕事か、わかっているの?

 その言葉は無意味だと思って自分の中で押し殺した。客がどうなるのかもこの女は知っている。

「指名を受けるかどうかは私の自由よ。あと、書類を提出して受理されなければ、あなたは客になることすらできない」

「それはわかっています。もし、安楽死が認められたら、その時はうかがいますね!」

 新刊の同人誌を大事そうに胸に抱え込みながら、饅頭子は人ごみの中に消えていった。とても思い詰めているようには見えなかった。

「うわ~、あれは完全にサの人やわ――と言いたいところやけど、そういうのともちょい違うなあ。まともなところがあるんがかえって怖いわ」

 饅頭子が見えなくなってから、中村がフォローのように話しかけてきた。その中村もタオルで汗をぬぐっていた。会場の熱気ではなく、冷や汗によるものかもしれない。

「でしょ。つかみどころがない。なによりも謎なのはなんで私なのかってことよ」

 王賀は目の前にある自分の新刊をぱらぱらめくった。

「絵や作風にそんな特徴ある? あるいは強烈なメッセージ性とか、同時代性とか」

「ないで」

「はっきり言うな」

「気味は悪いけど、プラス思考になれる要素もあったやんか」

 中村は落ち着けというように、未開封のペットボトルのお茶を王賀の膝の上に置いた。

「は? 今のどこにプラスの部分があるの?」

 食い気味に言って、ペットボトルのキャップを開く。

「だって、客で来たら死んでもらえるやん」

 お茶を飲む空気じゃなくなった。

 その時、王賀は初めて客に明確な殺意を抱くことになるかもと思った。

「死んだらさすがにストーカー不可やん。まあ、幽霊とか信じるんやったら別やけど」

 王賀は返事をせず、しばらくペットボトルを膝に置いたままにしていた。スカートにシミができるほど濡れていたが、どうでもよかった。


 コミケはそれ以上のトラブルもなく終わった。

 ただ、梅田の居酒屋での打ち上げ会場でも王賀はぼうっとしていた。

「王賀さん、恋でもしたんですか?」

 SNSでよく絡む女性漫画家に聞かれた。

「まったく違います」

 大学三年の時、付き合っていた男と別れて以来、ずっと一人でいる。ちょうど同人活動も軌道に乗り出して、他人と歩調を合わせるより、一人で好きなように絵を描いてるほうが楽しいと気付いた時期だった。

 同業者の飲み会で、自分に興味を持っている男がいるなと感じたことも何度かあったが、それにこたえる気にもならなかった。

 付き合った場合、同人活動にどうプラスになるか。無意識のうちに値踏みしている自分がいる。それをやっている時点で恋ではない。だったら、一人でいるほうがいい。

 しかし、誰かを殺そうとすることは、誰かを好きになることより、ずっと疲れることなのかもしれない。

 いや、ファムファタルとして客と接することは殺人じゃない。

 でも、自分は饅頭子に死んでほしい…………のだろうか?

 その日、王賀は悪酔いして、ホテルに戻って、二度吐いた。



 コミケの疲れもようやく癒えてきた八月下旬、出勤したサチに店長が声をかけた。

「サチちゃん、ちょっといい?」

 事務室に来るようにという意味の「ちょっといい?」だ。

 店長は元々福祉施設で働いていたらしい。お母さんという意味でのママという言葉が似合う五十代なかばの女性だ。いつも笑みを浮かべているが、この業界の人間はだいたい他人を安心させる微笑をたたえて仕事しているから、それが店長の個性とまでは言えなかった。

 とても福祉施設で介護をしていたとは思えない細い腕をしているから、安楽死のほうの仕事を専門にしていたのだろう。福祉施設での消極的安楽死はファムファタルなんて職業が可能になるはるか前から制度化されていた。

 書類が分厚いので、サチはすぐに仕事の話だとわかった。客の情報は極めて慎重に扱う必要があるから、店長のような管理責任者以外は紙媒体を元に口頭による説明をされる。安楽死希望の人間の個人情報が流出すれば、店の信用の失墜以前に訴訟を起こされるリスクがある。

「今回、面談の前からサチちゃんでお願いしますという人がいてね。顔決めってあんまりよくないんだけど、国分寺の駅前で一度会ってね、若い子ではあるけどヤケになってるわけでもないし、ルール上、問題はないからサチちゃんに任せようかと思うの」

 安楽死の希望者は指名したファムファタルとも事前に面談をするのが通例だ。そこで話が合わなそうと思えば、また違う相手と面談する。最期に一緒にいる人間だから、客のほうもそうそう安易な妥協はしない。

「はい、もちろんかまいませんが、どんな見た目の人です?」

 店長は客を悪く言うことはほとんどない。優しそうな人と口では言っていても、写真を見たら険のある表情だったということが何度かあった。人がいいからでもあるのだが、店長の言葉が信用できないので、それはそれで問題だった。

「うん、この人なんだけど。すごく珍しい苗字の人で、大樫林(おおかしばやし)っていう――」

 そこまで聞いて、もう何もかもわかった。

 書類の一枚目に貼ってある写真は明らかに饅頭子だ。

 書類の写真だからか、メガネはつけていない。服もスーツで、どこにでもいる二十代の会社員ということしか伝わってこない。

「大丈夫です。やれます」

 ほとんど反射的にそう答えたし、答えてもとくに感情に変化も起こらなかった。

 そうだ、あの女に消えてもらうだけだ。それだけのことでしかない。

 ただ、その日、家で湯船につかってる時に、心がもやもやとしだした。

 なんだろう、この気持ちの昂ぶりと背徳感みたいなものは。

 嫌いな人間を合法的に殺せるという、めったに与えられない機会をもらったことによるものだろうか? それでは本当に悪人みたいじゃないか。被害を受けていたのはこっちなのに。

 そんな簡単なものでもないと思う。だが、こんなこと、端(はな)から明確な答えなど出るわけがないのだ。

 その日、サチはなかなか寝付けなかった。寝ても、すぐに目覚めて、空調をつけているのに、やけに寝汗をかいていた。

 ただ、仕事をキャンセルするという気持ちにはならなかった。

 寝られずに冷蔵庫に入れていた麦茶を飲む。グラスにお茶を注ぐと、さっと結露する。そのしずくをまとうようにグラスを手で握りしめて、口に運ぶ。

 饅頭子が死んでいるのを見たら、麦茶が渇いたノドに入るように、気持ちいいのかな。



 サディスティックな気持ちから来るのか、不安から来るのかわからない昂ぶりは当日、饅頭子を待っている間も続いた。控室ではドリンクバーでしきりにお茶を飲んだ。

 いっそ、このまま饅頭子が来なければそれでもいい。この仕事のドタキャン率は極めて高い。死と向き合って初めて死の恐怖を知る人間も多い。それはそれでファムファタルの意義だと思う。

 しかし、饅頭子は予約時間の十五分前にサチの店に来た。そのことを店長が控室のサチに告げた。

 サチは高ロリという東欧の民族衣装っぽい服に着替えて施術室に入った。

 その施術室は薄いブルーの内装に、ロリータ趣味のピンクのダブルベッドが置かれたちぐはぐなものだった。青は精神を鎮静化させる色だからなのだろうが、ピンクのベッドのせいで不気味な夢のような空間に思える。たしかに生と死の境目のようでもあった。

 五分後、ガウン姿の饅頭子が施術室に入ってきた。書類と違ってメガネをかけていた。

 さっと、腰かけていた隅の事務机から立ち上がる。その所作は仕事で身についている。

「本日担当させていただくサチです――と仕事では言うんですが、そういう応対がいいですか?」

 顔を知っている人間が客で来るのは初のことだ。

「先生のご自由に。ただ、わたしは王賀オーガニック先生と呼びます」

 饅頭子の声は密室だからか、やけに高く聞こえた。

 すでに施術の手順もわかっているのか、何か言われる前から饅頭子はベッドに腰かけ、ガウンを脱いだ。

 さらされた背中は、ただの背中だ。目立つ傷もタトゥーもない。

「クリーム、背中の側からお塗りしますので、ベッドに腹ばいになっていただけますか」

 横になった饅頭子の首元にクリームのついた手を置く。

 その時、饅頭子が嬌声に似た声を出した。

「少し冷えるかもしれませんね」

 サチはそう事務的に口にしたが、饅頭子が興奮しているのはだいたいわかった。もっとも、冷静でいられない客は饅頭子以外にもいる。死に向かって、上り詰めていくことに快感を覚えるのだ。あまり興奮しているようだと、薬が効きづらいからと施術を中止するのだが。

「王賀先生に触ってもらえて、わたし、うれしいです」

 腰のくぼんだところに手を当てた際、饅頭子は甘い声でそう漏らした。

「手袋ごしですけどね。あなた、どうかしてるんじゃないですか。触られたって、このあと、死ぬんですよ」

「でも、触られることはうれしいじゃないですか。だって、私は王賀先生の大ファンなんですから。おそらく世界一のファンだと思っています」

「理解しかねます。私なんかに人生をつぎ込んで、どうするんです」

「『私なんか』と言わないでください」

 饅頭子の声が硬くなった。

「先生の作品は別格なんです。二次創作も、オリジナルも、Bookicalにアップしてた有料の近況四コマも……」

 手が止まっていたと思い、腿にクリームを塗っていく。

「あなたは漫画にも詳しいようだから理解できるでしょう? 私と同じか、それ以上の描き手は腐るほどいる。まあ、海外の描き手はBookicalにアップしてくれても日本のコミケで本は売ってくれないかもしれないけど、それでもコミケの中だけでもあほらしいほどにいる」

 また、夏コミでした疑問を口にしていた。

 だんだんとサチは自分に言い聞かせるように話していた。

「私に命を懸ける理由がない。心酔できる要素がない。その程度に私は冷静です。だから、あなたの行動がよくわかりません」

 客にファムファタルが自分が死ぬ意味や理由を問うのは異様なことだ。

 しかし、黙っているわけにはいかなかった。

 この女が死ねば、その答えは永久にわからなくなる。

「だったら、先生はなんで描いているんですか? 自分のものに価値がないと言いながらずっと活動しているじゃないですか」

 挑むように饅頭子が尋ねた。

「私が描いていて楽しいから。極論、読者すらいらないんです」

 口数が多くなるのは、どうせ相手が死ぬとわかっているからだろうか。

「後ろは終わりました。前を向いてください」

 議論のようになっていたが、饅頭子は腰を浮かして、素直に立ち上がった。

 饅頭子の裸は凡庸だった。ただ、その瞳がじっとサチを見つめていた。

「先生の作品を好きな理由、聞いてもらえますか?」

「お客様がお話しになるのは自由です。その内容が施術に対する恐怖と判断される場合は、施術を中止することもございますが」

 枕に頭を載せると、饅頭子は自分が王賀オーガニックの作品と出会ったいきさつを語りはじめた。

 当時、高校で孤立していたこと、偶然SNSで王賀オーガニックの漫画を知ったこと、それで生きる意欲をもらったこと、人生初のイベントに行ってファンですと言ったら優しく応対してもらったこと、それがエスカレートして住所を調べるようにまでなったこと(とその謝罪)、自分が王賀オーガニックの負担になっているということ、自分が生きてこられたのは王賀オーガニックのおかげだからその横で死ねるなら本望だということ。

 サチはその話を聞いているうちに、だんだんと自分の心が冷たくなっていくのを感じた。

 やっぱり凡庸な話だ。

 肩透かしをくったような失望感が染みてくる。

「迷惑ばかりかけて申し訳ありませんでした……。でも、これで死ねば、もう邪魔になることもありませんから……。最後のわがまま、お願いします」

 話しながら、饅頭子は静かに涙を流していた。

 興奮するとクリームの鎮静効果が弱くなり、苦しみが長くなる。まだ止めるほどではないが、あまりよい兆候ではない。

 涙声が聞こえて、サチはもやもやとイライラがないまぜになったような気持ちになった。

 あなたはいったい何なの?

 あなたの気持ちはさんざん聞いてわかったけれど――

 つまり、私からしたら、あなたは何なの?

 本当に、ただの迷惑な客でしかなかったの?

 サチの気持ちをよそに、饅頭子は本当に反省しているらしく、ずっと涙を流していた。興奮が強くなっている。

 サチは熱した蒸しタオルを饅頭子の目の上に置いた。

「少しリラックスしましょう。これから薬を飲みますからね」

「はい」

 饅頭子はサチの言葉には従順だった。

 目元が隠れたその体は、死体のような重さをサチに感じさせた。

 もっと事務的になれ。サチをまっとうしろ。王賀になるな。今の自分は漫画家じゃない。サチだ。ファムファタルのサチだ。

 そう念じながら、部屋の横の事務机で致死量になる薬と、水の入ったコップを用意した。

 薬を差し出された時に突然怖くなって暴れる客もいるが、饅頭子はむしろ感激しているような面持ちで薬を飲み干した。まるで王から死を賜ったとでも思っているようだった。

「あとはベッドで眠ればいいんですね、先生」

「そういうことになります。睡眠導入剤も一緒に飲んでいただきましたし、安らかに天国にいけますよ」

「天国じゃないです。ただ、消えるだけです」

 饅頭子の声は蒸しタオルのせいか、冷静さを取り戻したように聞こえた。

「でも、王賀先生のために消えられるなら幸いです」

「あなたが幸せなら私も本望です」

 仕事だから、サチはベッドの中で饅頭子の肩を抱いた。

 そこに異常性は何もない。饅頭子が無理にくちびるを求めてくるようなこともない。

 ごく普通の体だ。これまで何度も抱いてきた、もうすぐ死ぬことになる体と何も変わらない。そんな体に今まで自分が苦しめられてきたのが不思議なほどだった。

 このまま、饅頭子の意識がなくなるまで、じっとしていればすべて終わる。

 これは人殺しじゃない。死にたい人間が死んでいく、それだけのことだ。

「先生と先生の作品を愛しています」

 甘えるように饅頭子は言った。

 その時、サチは胸に黒いものが降り積もったような気がした。

 何がきっかけだ?

 ああ、愛していると言われたからか。

 好きだとは何度も言われたけれど、愛していると言われた記憶はサチの中にない。 

 しらじらしい。死ぬから、とりあえずどっかから借りてきた言葉じゃないか。

 もやもやとイライラが同時に重なってきた。

「そんな先生のために死ねて、とても、とても幸せです」

 まただ。

 あまり囁かないでくれ。この声を聞くと気分が悪くなる。我慢できなくなる。

「先生のためにわたし、終わりますね。生きてきてよかったです、わたし……」

 憤りがサチの――王賀の沸点を超えた。

「ふざけるなよ!」

 サチはベッドから起き上がる。やわらかな羽毛布団がめくれ上がった。

 饅頭子も何が起きたかわからず、目を見開いていた。

「このバカ!」

 その饅頭子の口に思いきり指を突っ込んだ。

 そのまま、ノドの奥へ、奥へと侵入していく。

 げほげほと濁ったえずく声とともに、饅頭子は薬と水を胃液とともに吐いた。

「何が『私のために死ぬ』だよ! すべてあんた自身のためだろ! そんなクソ安いエゴに三流漫画家を巻き込むんじゃねえよ!」

 饅頭子の両肩に手を置いて、思い切りゆすった。

 饅頭子の視線がぐらぐら動く。恐怖を覚えているようだが、像を結ぶことすらできていないようだ。

「そ、そんなことないです……。わたし、王賀先生のためにこうして命を――」

 額を饅頭子の額にぶつけた。

 痛みは思いのほか、鋭かった。

 ふらついたが、かえって言葉に勢いがついた。

「私のためになりたいなら、毎回新刊二十冊買え! そんでSNSで布教しまくれ! 死んだら機会損失だろ! 私のためにならないことをするなよ! バカ!」

 念のため、もう一度饅頭子のノドに指を突っ込む。商売道具の指を噛みちぎられる危険もあったが、ためらいはなかった。

 それにこの女にも苦痛という形で罰を与えないといけないと思った。

「あんた、さっき私に救われた理由語ったけどさ、無茶苦茶しょうもない理由じゃん! 死ぬ権利なんてないよ!」

 言葉にしたことで、憤りがサチの頭の中でようやく確固とした形を持った。

 予想どおりだった。こいつ、私の絵や漫画そのものに何も特別な価値を見出してないんだ。だからオリジナリティとか、ずば抜けて優れてるところだとか何も語れないのだ。

「わかる、わかるよ。それができないのは読者のあんたのせいじゃなくて、王賀オーガニックの作品が凡百だからだよ! ありふれたものでしかないからだよ! だからって、凡百なまま勝手に夢を見られて、命を懸けられて、喜べる?」

 タイミングがよかっただけだ。饅頭子が落ち込んでいる時にたまたま目に入ったのが自分の漫画だっただけだ。鳥類の刷り込みと同じだ。

「どこかで望んでいたんだよ。自分も気付かない自分の素晴らしさや特別さをあんたが教えてくれるんじゃないかって。そしたら、自分自身を好きになれるかもしれないって。平凡で、そのくせ人の死だけが近くにある世界も輝いて見えてくるかもって! それなら、あんたを殺すことも儀式としての価値があるって思おうとした!」

 でも、そんなのは幻想だった。

 死を間近にしても、饅頭子は語れないのだ。王賀オーガニックという漫画家の特権性を。

「あんたは幻想を夢見てたんだ。私と同じぐらいにね!」

 王賀という漫画家のために死ぬなどと言っておきながら、そこに王賀はいなかった。饅頭子という自己完結した読者しかいない。王賀は最初から最後まで饅頭子に無視されている。

 王賀のためにと信じて、饅頭子が自分のために死ぬのだとしたら、それは単純な勘違いだ。

 死ぬ理由にだってならない。

「本当に、本当に私の作品を好きになりやがれ! 私の漫画の意義について論文を何本も書けるようになりやがれ! それが愛だ! 勝手に満たされて勝手に死ぬんじゃない!」

 また肩をゆさぶった。とことん、ゆさぶった。

 動転した表情のまま、饅頭子は泣いていた。しゃくりあげて、何を言っているかもよくわからなかった。かろうじて「ごめんなさい」だけが聞き取れた。

「謝るのかよ! やっぱりあんたに安楽死を選ぶ権利なんてないんだよ! つまんなくても生きろよ! これ以上、王賀オーガニックをダシにするなよ! 私が苦労して描いた漫画を侮辱するな!」

 騒々しいことに店側も異変を感じたのか、内線の電話がけたたましく鳴った。

 そんな音から饅頭子を守るようにサチはベッドでへたり込んでいる彼女を抱きしめた。

「私はさ、私の漫画の次が出るまでは生きていようって思っててもらいたいんだよ。今まで読んだから死にますなんて侮辱はやめてよ。あなたのためにまた描くからさ」

 饅頭子が腕の中でうなずいているのが、サチにもわかった。


 担当の施術者が患者に安楽死の意志がないと判断し、施術を中止した――饅頭子の一件は扱いとしてはそういう形で処理された。

 ただ、ずいぶん乱暴なやり方ではあったので、サチは控室に戻ると店長に謝罪した。

「まあ、けっこうあることなのよ。私も何度か見てきたから」

 社長はサチのために温かいお茶をドリンクバーから注いだ。

「自分を包み込んでくれる絶対的なものの中で死にたいって気持ち、宗教を信じられなくなった世代には多いことなのよ。私もわからなくはないわ」

 紙カップに入ったお茶は熱すぎて、しばらくサチの手の中から動かなかった。

「私はそんな大きなものではありません」

 それは自分が一番よくわかっている。しがない漫画家だ。

「でも、一人のファンに生きろってエールを与えられたんだったら、その子にとっては、あなたは巨人よ」

 でも、あいつは生きるんじゃなくて死のうとしました。そう言おうとする前に、店長はこう付け足した。

「少なくとも、これからはね」

 店長の言葉をサチはお茶の水面を見つめながら、じっと聞いていた。

 お茶は生きてもいないのに、こんなに温かい。



 冬のコミケは有明の国際展示場が舞台だった。

 今回も売子をしてくれる中村マサラは前日に品川の高輪のほうで待ち合わせと言っていたのに、きっちりと逆側に出て、合流に手間取った。

 コミケ当日、スーツ姿の営業周りの途中に寄ったというような格好の女が、王賀のサークルの前に来た。

「新刊二十冊ください」

 その言葉に隣のサークルの人間もぎょっとして、王賀たちのほうを見た。

「はい、一万六千円になります。お金での支払いでいいですか? では、まず四千円のおつりと、いちにさんしい……」

 冊数を数えて、王賀は営業用のスマイルで本を差し出す。

「新刊二十冊です。また、新刊が出たらよろしくお願いいたします」

「ところで、これ、お土産のお饅頭なんですが」

 王賀は四角い箱を両手で受け取った。


◆終わり◆

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ファムファタル三期生 森田季節 @moritakisetsu

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