第3話 死神最後の日 ③
全てを諦めた私が目を閉じてから数秒。
――だというのに、未だ私の身体は、灰になるどころか青い浄化の焔にすら包まれていなかった。
どうして? と私は頭の中でその言葉を何度も繰り返す。
まさか、予想以上に身体の損傷が酷くて、正確に祝詞を唱えられなかったのだろうか。
それとも、呪力が足りなかったのだろうか。
……いや、それはありえない。
私はこの身に残った全ての呪力を捧げて、確実に青い浄化の焔を発動したはずだ。ちゃんと、その感触だってあった。
そのはずなのに――
「――ちゃん! シ――ちゃん! 聞こえるかい! いったい何があったんだ!」
死神としての私の名前を呼ぶ声が聞こえたのと同時に、上半身がゆっくりと抱きあげられたのが分かった。
……聞き覚えのある声だ。たぶん、彼と会うのは久しぶりのはずだけど、なんでこんなところにいるのだろう。
というか、そんな事よりも、私の頭部は
もし、それがありえるのだとすれば、青い浄化の焔は火花ほども発現しなかったということになる。
そうでなければ、生きた人間の能力者である彼――紀乃岡が私を抱き上げることなどありえないのだから。
だけど、そうなると問題は
普通だったらありえない。これは謎というよりむしろ、不可解だ。
「聞こえてたら目を開けてくれ! どうしてこんなことに? ハチさんは何処へ行ったんだ!」
本気で私のことを心配する彼の声に、重たい瞼をゆっくりと開く。焦点が合わず視界がぼやけているが、そんなことには構いもせず私は口を開いた。
「やあ、キノ。ひさ……しぶりだね。
「そんな……末席とは言えあなたは死神。理の外側に存在するあなたを殺そうだなんて……」
「余程、
自嘲気味にそう言った時には、右目の視界もはっきりしてきて、見覚えのある天然パーマの二十代半ばの男性、紀乃岡泰臣こと通称”キノ”の顔が私の目に映る。
「欲しかったって……まさかハチさんは何者かに攫われたのか?」
「そう、だと思う。ハチ、が解放……された気配、はないし、
「そんな……どうやって……? 大災害クラスの呪力を感じたから急いでここに来たけど、僕が来た時にはあなたが一人倒れてただけだったから、てっきり相手は消し飛んでるものだと……」
大災害クラスの呪力。その言葉の意味するところに思い当って、私は目を見開いた。そして、自らの周囲を確認しようと、キノに支えられた上半身に力を入れる。
途端、凄まじい激痛が全身を駆け抜けて、私は小さく悲鳴を上げた。
「無理に起きちゃダメだ! 体の半分は、その……炭化してるんだ……だから、これ以上は無理しちゃだめだ」
「そうっ、いえば……そうだった。でも、キノが来て、また、わけわかんなくなった」
激痛で荒くなった呼吸を整えながら、私は再び背中をキノの腕に預けた。すると、残った右目の視界に、寂れた祠とそのすぐ脇に植えられた椿の木が映る。夏に白い花を咲かせるその椿は夏椿と呼ばれ、樹全体に白い花を咲かせていた。
「僕が……来て? それは一体……」
「気に……しないで」
何のことかわからないと言った様子のキノに目だけで微笑んでから、視線を足もとへと向けた。
もし、私の予想通りであれば、そこにはアスファルトが蒸発して剥き出しになった地面があるはずだ。
まあ、普段だったら土の地面とアスファルトの違いくらい感触で解るだろうけど、いかんせん今の私の身体は、何の感覚も無い左半身と、わずかな身じろぎでも激痛を発する右半身が同居するという両極端な状態だ。
なので、実際に目視で確認しなければ、自分が横たわっている場所の確証すら得ることが出来ない。そんな状況なのである。
――そして、私の真下にあったのは、予想通り剥き出しの地面だった。
もちろん、それが意味する事実は一つ。つまりそれは、私の感覚通り、青い浄化の焔はきちんと発動していたということだ。地面が剥き出しなのは、青い浄化の焔によってアスファルトが蒸発したからにほかならない。
でも、それならば何故、私は未だに存在しているのだろうか? あの時、私と
途端に思考が鈍くなった頭で、答えを求めるように寂れた祠の方へ視線を向ければ、樹全体に白い花を咲かせた夏椿が目に入った。
……あの場にいた私と
「――護って、くれたんだね、ハチ……。諦、めて、ごめんね…………護って、くれて……ありがとう」
いろいろな感情が暴れまわって、私の胸をぎゅっと締め付ける。それと同時に、右の瞳から涙が溢れ出した。
そんな私を見て、キノの表情が僅かに曇る。
「諦めてって……まさか、あなたは自分ごと犯人を燃やそうとしたのか……?」
そう言いながら、苦虫でも噛み潰したかのような表情に変わっていくキノに、私は小さく首肯して見せた。
「何考えてるんだよ! 短慮にもほどがあるだろ!」
「……ごめん」
キノの突然の剣幕に気圧されて、思わず私は小さな声で謝罪を口にした。
きっと、今ハチが目の前にいたら、同じくらいの勢いで怒って吼えただろう。それくらい、真剣に、心からキノは怒りを露にしていた。
まあ、確かに今から思えばアレは短慮だったし、莫迦な事をしたと思う。だけど、あの時の私にはその手段しか残されてはいなかったのもまた事実だ。自死を正当化するつもりなんてないけど、今の私は、あの時の状況をひっくり返すことの出来る手段を何一つ閃きそうにない。
だから……真剣に怒ってくれるキノに、私は謝る以外の言葉を持つことが出来ないのだ。
「もう、二度とやらない。それに……あの、白い椿を見たら、二度と出来ない」
再び、私は寂れた祠の横にある夏椿を視界に収めた。
樹全体に白い花を咲かせる夏椿の下には、百年前大勢の人を救って息絶えた、とある犬の亡骸が眠っている。
後に神となったその犬の神名は白椿。
その神様は、”バケモノ”の私に力の半分を貸し与え、さらに死神の役目と帰る場所まで与えてくれた。
だから、私はその優しい神様の事を、親しみを込めてこう呼んだ。
――ハチ、簡単に諦めようとしてごめんね。
もう絶対にあきらめない。絶対に攫われたハチを救い出してみせる。
たとえその時、ハチの力が大きく損耗されていて、再び私を死神に戻すことが出来なかったとしても構わない。
私は、今までハチがくれた優しさに応えたい。
「……キノ。お願いがある。私を、助けて」
白い椿の木がよく見えるようにと、祠の側面に上半身をもたれかけさせてもらった後、私はキノにそう切り出した。
「ハチさんを取り返すんだね?」
寂れた祠の前面にある石段に腰かけたキノが、ちらりと横目で私を振り返った。どことなく、何かを遠回しに確認するようなその言葉に、私は小さく笑顔を作る。
「案外、疑り、深いんだね。……大丈夫。もうやらないっ……てさっき約束したでしょ」
「そりゃあ、あなたは昔から後先考えないところがあるから……」
なんだその「10年以上前からの知り合いです」みたいな言い方。確かキノに出会ったのって、5、6年くらい前だったと思うけど……
なんとなく細かいことが気になって過去の事を思い出そうとしてみるけど、ふわふわとした浮遊感が邪魔してうまく思い出せない。
そういえば、だんだんと意識がまとまらなくなってきた気がする。
……どうやら、のんびり喋っている時間は、もうほとんど無いらしい。
「意識、を、保てなくなってきてる。手短に……説明する」
もし、このままここで意識を失ってしまえば、傷ついた私の身体は、それを癒すための長い眠りにつくことになるだろう。たぶん、数年は目覚めない。
どうしてそんなことが言いきれるのかというと、既に経験済みだからである。私が屍食鬼から死神になった時も、ちょうど今みたいに全身ボロボロで、私の身体は黒柩の中に入れられて5年ほど寝ていたのだそうだ。
まあ、目覚めた時に聞いた相手がハチだったから、厳密には分からないけどね。なにせ、なにを聞いても返事がワンって吼えるのみだったし……
ともかく、今は悠長に寝ている場合ではない。そんなことをしていては、ハチを助け出すどころではなくなってしまう。
私は少しでも早く目覚める必要があるのだ。
だから、今回はそこに
――それは、私の死神としての血液を使って、身体の回復を促すというもの。
その手段を用いれば、私の身体はものの数週間で殆ど元通りになる。
だがしかし、それには当然リスク、というか代償が伴う。なぜなら、血液を使って回復を促進するのは、私のバケモノだった部分――つまり、屍食鬼としての自分だ。
それ故、目覚めた時の私は、死神と屍食鬼がごちゃ混ぜになったナニカになる。いきなり血を欲して人を襲ったりすることは無いだろうけど、絶対に無いとは言い切れないし、なにより、そのナニカになった後、元の死神の身体に戻れる保証はもっと無い。
それこそが、この手段を最終かつ最悪なものたらしめている理由に他ならないのだ。
とはいえ、私に迷いは無い。ハチを助ける為なら、進んで”バケモノ”にだってなってやる。
これくらい、あの時私を助けるために、その力と共に身体の半分をくれたハチに対する等価交換にすら遠く及ばないのだから。
――
キノの手で、私の身体は棺桶大まで大きくした黒柩の中に横たわった。その姿勢のまま、私は手短にこの後の手順を説明して、赤い液体の入った小瓶を何本かキノに渡した。
ゆっくりと、だけど、しっかりと頷いたキノに後を託して、今度こそ、私の意識は深く昏い闇の中へと落ちていったのだった。
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