花里町春宵楼ー③




「今夜は、朔様が屋敷に戻れないと伝えに行こうと思えば」


 伊織は笑顔を浮かべたままだったが、額には薄らと青筋が浮かんでいた。それを見て灯磨と菫はこの世の終わりのような顔をしている。


「どうしてお前たちがここにいるんだ」


 怒りを抑え込むように、ぎりぎりと奥歯を食いしばる伊織。もはや奥歯が耐えきれずに折れてしまうんではないかと思うほどだ。

 どうやら伊織には逆らえないようで、2人とも黙ったまま俯いてしまっている。紫乃は慌てて、怒りを纏う伊織に言う。


「申し訳ありません。私が来たいとお願いしたのです」


 すると紫乃には見向きもせずに、灯磨と菫に未だ怒りを向けていた伊織が、ゆっくりと振り返った。その様子を見て紫乃はごくりと息を飲む。


「はい?今なんとおっしゃいました?」


 顔は未だ笑顔を浮かべたままだが、やはり目は笑っていない。それを見て紫乃は背筋がヒヤリとし、体が身震いする。

 怯える紫乃を見て菫が口を挟もうとしたが、言葉を発する前に、それに気付いた伊織に睨まれ、言葉を飲み込んだ。

 伊織が、それはそれは大きなため息を吐く。


「…なんなんだ今日は。ただでさえ仕事が溜まっているのに、こんな人間の小娘のせいで」


 下を向き、顔を手で覆いながら、伊織は小声でため息と共に言葉を吐き出した。

 余程苛ついているのか、伊織はその体勢のまましばらく動かなかったが、何かを思いついたように再び顔を上げて紫乃を見る。その顔は先程までの怒りを含んだ笑みではなかった。しかしどこか不気味な笑みを浮かべ、伊織は面倒そうに言う。


「こんな所に来るほど朔様にお会いになりたいのなら、お連れして差し上げますよ。けれどこれはご自分の蒔いた種ですよ。後悔なさいませんよう」


 わずかに口角を上げる伊織。そんな伊織には紫乃はまた身震いする。

 初めて会った時に烏間が言っていた通り、余程人が嫌いなのか、まだ会って間もないというのに、紫乃は伊織から敵意と悪意しか感じ取れなかった。

 伊織は未だ俯く2人に、処罰は後で伝えます、とまた元の薄っぺらい笑顔で言った。2人の顔は、まるで蛇に睨まれた蛙のように固まっていた。


「さぁ、行きましょうか。場所はこの先ですよ」


 伊織の目線の先は、花里町の奥。豪華絢爛な遊郭が立ち並ぶ場所だ。

 花里町の入り口には大きな赤い大門が立っている。それをくぐれば、今紫乃達がいる歓楽街があり、その奥にもう一つ大門がある。その門は最初の門よりも古く年季が入っており、それをくぐった先に遊郭がある。遊郭の周りはぐるりと壁が取り囲み、侵入する事も、そして逃げることも決して出来ない。

 紫乃は先に見えるその場所に、わずかに足がすくむ。

 そこは紫乃が今まで生きてきて、見た事も、経験した事もない世界。同じ女性が、それも紫乃とそう変わらない年齢の女性が、売り買いされる場所。離れていてもわかる、匂いと熱。今いるこことは、少し空気が違って感じられる。


「どうしました?」


 先を行こうとする伊織だったが、なかなか足の進まない紫乃を見て振り返る。


「いえ」

「今更怖気付いたのですか?そもそもここは隠世ですよ」


 伊織は紫乃に近付き、耳を寄せ囁く。


「ここがどんな場所かもわからず、くだらない好奇心でここまで来たのでしょう。今、あなたの周りは人ならぬ者しかいないのです。灯磨と菫がいるから安心でもしているのですか?2人だって妖なのですよ。自分の置かれている状況も分からずに、安全だと思い込んで、警戒心のない顔をしている。これだから人間は嫌いなんですよ」


 伊織は笑顔を絶やす事なく、後ろにいる2人には聞こえないよう、紫乃の耳だけに言葉を囁き続ける。


「なぜ朔様に呼ばれたのか。なぜ烏間の花嫁になったのか。それも分かりもせず、こんな場所でのうのうとしている。恥晒しもいい所ですよ。どうかこれだけは覚えておいてくださいね。あなたが烏間家に歓迎されてると思ったら、大間違いですから」

 

 紫乃から離れて、伊織はにっこりと満面の笑みを浮かべる。紫乃はその顔を見てただでさえ青くなっていた顔を、ますます青くさせた。

 初めて会った時から、灯磨も菫も紫乃になぜか優しかった。烏間だって、冷たい一面はあるものの、恐怖を感じるほどではなかった。けれどもしかすると、この伊織のような反応の方が普通なのかもしれない。

 何度も会って、長い間絆を深めた相手でもなく、むしろ素性も分かりきっていない。人の姿をしているとはいえ、皆妖なのだ。

 突然わけもわからず、今日から花嫁になります、と言ったところで歓迎されないのは当たり前だろう。しかも相手は妖。紫乃は人間なのだから。

 紫乃は伊織の冷たい言葉に傷つくのと同時に、妙に言っている事に納得してしまった。けれど紫乃だって、いくら無知とはいえ、好きでここに来たわけではない。

 どこにもぶつけようのない気持ちが紫乃の中で溢れて、まるで雨雲のように紫乃の心を覆い尽くした。


「紫乃様、大丈夫ですか」


 言いたいことを言った伊織は、さっさと先へと足を進めてしまった。その隙を見て、立ち止まり顔色の悪くなった紫乃に、心配そうに菫が声をかける。


「大丈夫。ありがとうございます」


 紫乃は精一杯笑ってみせるが、その顔は引き攣り、とても笑えていなかった。

 心配そうにかける言葉を探していた菫が言葉を発する前に、紫乃は急足で伊織の後を追いかけた。








 花里町の奥の大門の前まで来ると、そこには門番らしき屈強な男が2人立っていた。その背中には、烏間と同じ黒い翼が生えていた。

 2人の男は、伊織の姿を見ると、はっと気付いて頭を下げる。


「ご苦労様です、伊織様」


 伊織は、頭を下げる男に、にっこりと笑いかけて言う。


「2人もご苦労様です。この方は鞍馬様のお客人なので、お気になさらず」


 男達は紫乃に警戒したような目を向けた。けれど烏間の客人と聞き、すぐに警戒を解く。そしてその後ろの灯磨と菫の姿に気付き、再び頭を下げた。


「灯磨様と菫様も。ご苦労様です」


 男達に、2人は軽く会釈をした。


「さぁ、目的地はもうすぐですよ」


 大門をくぐると、そこは先程の賑やかさとはまた違った賑やかさだった。香と煙管の匂いは濃くなり、店先では、格子の中から美しく着飾った遊女達が顔を覗かせ、あちこちから様々な誘い文句が飛び交っていた。

 もちろん大門の中には、男性だけでなく女性もおり、紫乃が思っていたほど恐ろしい場所ではないようだった。


「ここは昔は、無法地帯とも呼べるほど荒んだ場所でした。けれど朔様が当主となられてからは、このように誰でも立ち入れる場所となったのです。もちろん中の者は、勝手に外には出られませんが。そしてもちろん遊郭ですから、お相手を買いに来る者もおりますが、ただの観光や冷やかし、お茶屋で遊んで帰るだけなんて者も、今はおりますね」


 昔じゃ考えられませんでしたが、と伊織は遠くを見つめながら紫乃に言った。突然話し出す伊織に紫乃は咄嗟に身構えたが、それを見て伊織は可笑しそうに笑った。


「そこまで警戒しないでください。あなたのことは嫌いですが、朔様の功績は素晴らしいものです。それをあなたには知っておいていただかなくては」


 伊織はよくわからない人物だ。突然冷ややかに罵ったかと思えば、機嫌が良さそうに話し出す。ただ一つだけわかるのは、彼は烏間朔という人物を敬愛しているという事だ。


 大門から少し歩くと、伊織は一つの店の前で立ち止まった。その店は一際大きく、決して派手ではないものの存在感と威厳ある店だった。他の店に比べ、だいぶ年季が入っているが、店の端から端まで丁寧に磨かれているようだった。そして看板には『春宵楼』と書いてあった。


(さっき灯磨さんが言っていたお店だ)


 そう、そこは先程灯磨の口から出た、春宵楼。

 紫乃達が店の前に着くと、立派な柿色の暖簾をかき分けて、中から年配の男性が出てきた。少しふくよかで、目は細く弧を描いている。


「おかえりなさいませ、伊織様。おや、灯磨様と菫様まで。一体どうなさいました?」


 男性は不思議そうな顔で見ると、紫乃の姿に気がつく。


「そちらの方は?」

「例の方だ。朔様にお会いになりたいそうだ」

「あぁ、その方が。鞍馬様ならお二階です」


 例の方と言われ、男性は納得したように頷くと、おそらく営業用であるだろう人の良さそうに見える笑顔を浮かべると、暖簾を通りやすいように開けた。

 中からは賑やかな声や、楽器の音色が聴こえてくる。紫乃は伊織に促され、店の中へと足を踏み入れた。

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