花里町春宵楼ー①
広く、威圧感のある屋敷内。長く冷たい廊下を、一言も発しない八重と共に紫乃は進む。
八重の持つ淡い蝋燭の光だけが辺りを照らすが、その光に照らされ、壁にかけられた様々な物が紫乃を怯えさせる。古びた刀、異様な面、奇妙な掛け軸。そのどれもが今すぐ動き出しそうなほど不気味で、紫乃はなるべく目を向けないように、前だけ向いて歩いた。
しばらく進むと、八重は一つの部屋の前で止まった。そして紫乃の方を振り返ると、こちらです、と小さな声で呟く。
紫乃はそっと襖に手を添えて開ける。すると中には見知った二人の顔があり、紫乃はようやく安堵して肩に入っていた力が抜けた。
「紫乃様!!!」
先に声を上げたのは菫だった。心底嬉しそうな表情で紫乃に駆け寄る姿はまるで小動物のようだった。
だが、紫乃に勢いよく駆け寄ろうとした菫だったが、その隣の人物が目に入り凍りつく。
「八重様」
まるで突然呪いにでもかかったかのように、引き攣った顔のまま固まる菫。そんな菫を八重は恐ろしい、般若のような顔で睨んでいた。
「菫、はしたない真似はよしなさい」
決して怒鳴ってはいないものの、はっきりとした厳しい口調は、ひしひしと八重の怒りが伝わってくるようだった。
「申し訳ありません」
菫は深々と頭を下げて謝ると、八重はふん、と鼻を不満げに鳴らした。そして再び厳しい声で言う。
「再会を喜ぶのは結構ですが、夜も深い時間でございます。くれぐれもお騒ぎになりませんよう」
八重は3人に向かって言うと、そのまま廊下の奥の方へと消えていった。
緊張の糸が解けたように、菫と紫乃はほっと息をついた。
菫は紫乃に近寄り、部屋の中へと入るよう促す。中は入ると、灯磨がいそいそとお茶の準備をしていて、緑茶のいい香りがふわりと漂った。
「あれ?朔様は?」
お茶を淹れながら、灯磨は不思議そうな顔で紫乃に声をかけた。紫乃は困ったように眉を下げながら言う。
「なにかあったようで、伊織さんという方と一緒にどこかへ行ってしまわれました」
それを聞いて、灯磨と菫はお互いを見て、呆れたようにため息を吐いた。
「朔様ってば、紫乃様をお一人で置いていくなんて」
お茶を淹れ終わって急須を横に置きながら、灯磨は困ったような顔をして言った。
灯磨がどうぞ、とお茶を差し出すので、紫乃は菫と共にお茶の置かれた机の前へ座る。
「紫乃様、先日は怖い思いをさせてしまい申し訳ありませんでした」
「いえ。先日の事は、私にも非がありましたし。色々とありがとうございました」
頭を下げ、申し訳なさそうな渋い顔で謝罪する灯磨に、紫乃も頭を下げる。
「今回の事は、突然の事で驚かれたでしょう。ですが朔様は言葉足らずな所もあって分かりづらい方ですが、決して悪い方ではないので、どうか」
嫌いにならないで欲しい。
灯磨は言いたい言葉を詰まらせて、俯いたまま黙る。怖い思いをした上に、妖などと紫乃からしたら得体の知れない生き物で、しかも突然花嫁だなんて。そんな相手を嫌うな、などいくら自分の主人とは言え、灯磨ははっきりとは言えなかった。
けれど紫乃は、灯磨の言いたい事が分かっていて、微かに微笑む。紫乃だって、恐怖や疑問はあるにしても、烏間が完全に悪い人だとは思っていない。けれど紫乃もなんて言っていいのか分からず黙ってしまった。
そんな2人の沈黙を破るように、菫は真剣な顔で紫乃を見て言う。
「紫乃様、烏間家へお越しいただきありがとうございます。灯磨も私も、心から喜んでおります」
その柔らかな笑顔に、嘘は一切含まれてはいないのだと分かる。紫乃はそんな菫に嬉しくなり、思わず口角が上がった。
「…正直、突然の事だし、まだ何もよく分からないのだけど。私もまたお二人にお会いできて嬉しいです」
笑顔を見せる紫乃に、灯磨も菫もほっと胸を撫で下ろした。
灯磨の淹れてくれた美味しいお茶を飲みながら、烏間の帰りを待つ間、3人で話をした。
実は二人も烏天狗である事。そして幼い頃から烏間の側付きである事。伊織は烏間の一番の側近で、2人の上司的な立場である事。
「実は菫はちっこいですが、かなり強いんですよ」
灯磨は何気なく言った。菫の目つきが険しくなっていたが、その目には気付かないようでそのまま続ける。
「昔、鬼童家に修行に行かされた事があったんですが、菫は持ち前の怪力で鬼童の門下生を薙ぎ倒してましたね。先日の長谷川も、菫が捕まえたんですよ」
「ちょっと灯磨!」
きっと灯磨に悪意はないのだろう。輝く目で、本当にすごいんだ、と興奮気味に語っていた。けれど菫は恥ずかしそうに、灯磨の口を止めたい様子だった。
「菫の怪力は、烏間家では1、2を争うほどで、3歳でお山の大岩を持ち上げたんです」
「やめて!!」
菫の顔はまるで茹で蛸のように真っ赤になり、必死に灯磨を止めていた。
そんな2人を微笑ましく紫乃は見ていた。そしてこんなに小さな菫がそんなにすごいのか、と感心していた。
灯磨は自身の興奮を抑えるかのように、一口お茶を飲むと嬉しそうに言った。
「でも本当に、紫乃様が烏間家に来てくださってよかったです。婚約者の方はたくさんいらっしゃいますが、朔様がはっきり花嫁だと言ったのは紫乃様が初めてで」
「こら灯磨!」
また余計なことを、と菫が小声で灯磨に怒る。
「そんなにたくさん、婚約者がいらっしゃるの?」
紫乃は先日の話と、小鈴の姿を思い出す。
「ええ。たっくさんいらっしゃいます。みなさん烏間家の正妻の座を狙っておいでで、怖い方が多いです。先代との約束もありますし、朔様自身がそう言うことに無頓着なので、自分から花嫁の話をする事はなかったのですが」
溶けるような笑顔で灯磨は言う。
「朔様自ら、紫乃様を花嫁に、と言った時は嬉しかったです。初めてお会いした時から、紫乃様が朔様の花嫁になってくれたらいいなと思っていたので」
照れ臭そうに灯磨は言った。
灯磨の言葉はまっすぐな分、嘘がなく、紫乃は恥ずかしくなる。だが、何も分からないままここまで来たが、自分を歓迎してくれている人がいたことに、紫乃は嬉しくなった。
「ところで朔様遅いですね」
痺れを切らしたように、菫が怒ったような顔で言う。たしかにしばらく談笑していたが、一向に烏間が帰ってくる気配はない。
「そうだ!」
突然、灯磨は何かを閃いたように手を叩き、目を見開く。
「観光がてら、探しにいきましょうか!」
菫は呆れたように、灯磨を睨む。
「ふざけたこと言わないで」
「いいじゃないか。この時間ならどうせ朔様、
「なおさら紫乃様をお連れできないでしょうが!」
「どうして?」
拳を握り締めながら、必死に怒りを抑えながら言う菫に、灯磨はキョトンとした顔をする。その顔に、菫はますます怒りが込み上げてくる様子だった。
そして紫乃に聞こえないように、小声で言う。
「花里町は、花街でしょうが!何かあったらどうするのよ」
「朔様もいるだろうし、大丈夫だよ」
「朔様と一緒に、伊織様もいるでしょうが!」
呑気な様子の灯磨に、菫が爆発寸前だった。
忘れてはならない、ここは隠世。ただでさえ何が起こるか分からないと言うのに、紫乃はなんの力もない人間だ。もし紫乃の身に何かあれば、お叱りだけではすまないだろう。それなのに呑気な顔をする灯磨に、いよいよ菫が怒鳴り散らしそうになる。その時だった。
「あの」
紫乃が、遠慮がちに声を出す。
2人は驚いて、慌てて紫乃の方を振り返ったので、紫乃はびくりと肩が揺れた。そして恐る恐る言う。
「…もし、迷惑じゃなければ行ってみたいです」
灯磨と菫は驚いて目を丸くする。
烏間が戻ってこないことも気になる。そしてなにより、紫乃は隠世がどんなところか興味があった。山の上から見えた景色が脳裏に浮かぶ。もちろん恐怖はあるが、ここで烏間の帰りを待つだけなのは落ち着かないし、2人が一緒なら大丈夫なような気がしていた。
灯磨は紫乃の言葉ににっこりと笑ったが、菫は困ったような顔のまま少し黙り込む。
「…紫乃様のお願いであれば仕方ありません」
菫は渋々、承諾する。
「そのかわり」
菫は近くにあった箪笥から、一枚の布を取り出す。
「この布を被ってください。紫乃様はお美しいので、このままでは悪目立ちしてしまいます。花里町は治安が悪いわけではありませんが、くれぐれも私たちのそばを離れないでくださいね」
心配そうな顔で、菫は布を紫乃の頭に被せた。
3人は烏間家をあとにして、華やかな花街、花里町を目指して、暗い山を降りて行った。
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