桜舞う夜に誘われ

隠世への入り口



 普段、現世うつしよを生きる人々が決して触れることの無い世界がある。

 たとえば、古びた鳥居をくぐった時。一年中咲き続ける桜の木の幹に手を触れた時。夕暮れと共に仄暗い森へ迷い込んだ時。もしくは妖魔に拐かされた時や、死の淵を彷徨った時。

 それは突如として、その目前もくぜんへと現れる。けれどそれは、決して足を踏み入れてはいけない世界。まるで鏡のように、常に相対し、存在している世界。

 そう、それは隠世かくりよ。死者と妖の世界。

 力なき者は、決して迷い込んではいけない。迷いこんだら最後。その命の灯火に、闇は群がり、やがて命は食い尽くされてしまうだろう。










*****





 薄暗い烏間邸の中には人の気配はなく、しんとした静けさだけがあった。静けさのせいか、どこかヒヤリと体が冷えるような気がして、紫乃は身震いした。

 小さな蝋燭の灯りを持つ伊織の後ろを、無言のまま烏間と紫乃は歩く。

 まるで迷路のような家の中を奥まで進むと、一つの質素な扉の目の前へとたどり着く。その扉を開けると中には小さな和室。そして伊織はそのまま、座敷奥の障子戸に手をかけ勢いよく開いた。

 するとそこにあったのは、古い大きな一本の桜の木。幻想的に花びらが咲き乱れ、舞い落ちる。だが、落ちても落ちても、木から花がなくなる気配はない。まるで地面は桜色の絨毯のように、花びらで埋め尽くされていた。

 その光景に思わず息を呑む紫乃だったが、烏間と伊織は迷う事なくその木に近付く。


「早く来い」


 烏間は立ち止まったままの紫乃に声をかける。紫乃は恐る恐る木に近付いた。

 近付くと、よりその木の大きな、古さ、妖しさが分かる。年季の入ったしめ縄が、深い皺が刻まれた、太く木の幹に巻かれていた。


(なんて美しいのだろう)


 紫乃はぼんやりと木を見つめる。ずっとここにいたくなるような、ここでこのまま眠りについてしまいたくなるような。不思議な気持ちに支配されてしまう。


「紫乃、木に惑わされるな」


 烏間はぼんやりと木を見つめる紫乃に、低い声で囁く。その声で紫乃は、はっとして烏間を見つめた。


「この木は、妖魔だ。そして」


 烏間は紫乃の手を掴むと、その木の幹に手を近付ける。


「隠世へと続く入り口になっている」


 そう言って、烏間は木に手を触れた。



 突然、体が木へと引き込まれ、頭の中が歪んだような感覚だった。

 紫乃は眩暈を覚えながらも、目を開く。右手は烏間に強く掴まれたまま。遠くから聞こえる騒がしさは耳にうるさく、ぐらぐらと揺れる頭をますます揺らすようだった。


「紫乃様大丈夫ですか?」

「初めてだから、酔ったのかもしれないな」


 隣から、烏間と伊織が話す声が聞こえて来る。段々と眩暈は落ち着いてきて、紫乃はぼんやりと辺りに目を向ける。そこには、あったはずの屋敷も木もない。あるのは、先ほどの木よりも、遥かに小さな桜の木と、沢山の木札きふだのようなものがおかれている棚があるだけだった。


「歩けるか?」

「はい」


 紫乃は青い顔で小さく返事をする。烏間に手を引かれ、紫乃は足を踏み出すと、遠くに見えた光景にますます顔を青くした。

 不吉に漂う怪しげな雲。遠くに見える賑やかな、まるで花街のような街並み。そして空を舞う、見た事もない生き物。

 引き攣る紫乃の顔を見て、伊織が可笑しそうに笑った。


「何をそんなに驚いていらっしゃる」


 馬鹿にしたような口調の伊織の言葉も耳に入らないほど、紫乃は目の前の光景に目を奪われていた。

 顔だけが、体だけが、不気味なの空を舞い、青や赤の炎がそこらじゅうで弾けていた。

 反応のない紫乃に、つまらなそうにため息をつくと、伊織はさっさと目の前にある石造の階段を降りていった。それを見て、烏間も紫乃の手を引っ張る。


「行くぞ」


 ぐっと引っ張られ、紫乃は驚いたが、先を行く伊織の姿と、少しイラついているように見える烏間を見て、慌てて歩みを進める。

 降りようとする階段の手前には、年季の入った鳥居が一つ立っていた。その鳥居をくぐり抜けると、紫乃はなぜか、もう戻れないような気がした。


 石造の階段は、思っていたよりも長く、所々急な所もあって降りきるのに時間がかかった。

 先程の場所が山の上の方にあったと気付くのは、階段を降りきってしまいそうな頃だった。そしてようやく着いた屋敷も、この山の少し登ったあたりのようで、山の麓は遠くに見えるような気がした。

 どうしてこんな不便そうな山に、屋敷があるのかしら、と紫乃は不思議に思う。


「烏間の一族は、烏天狗だからな。空を飛ぶことが多いから、山の上に屋敷を構えているんだ。俺たちにはその方が色々と都合がいい」


 まるで紫乃の疑問を分かっているかのように、烏間はぼそりと呟いた。

 先程の屋敷よりも、大きく立派で古いその屋敷は、背の高い木々に囲まれて佇んでいた。

 威圧感のあるその屋敷に、紫乃は足がすくむ。だが烏間は紫乃の手を掴んだまま、屋敷に入った。


「おかえりなさいませ鞍馬様」


 屋敷に入ると、4〜5人の使用人らしき女性が、頭を下げて出迎えた。その顔は、どことなく赤らんでいるように見える。

 先に入った伊織は、何やらその横で、出迎えをした女性達とは別の、少し年配の女性と話していた。

 烏間は小さく、あぁと使用人達に返事をすると、履き物を脱ぐ。そして戸惑う紫乃に、履物を脱いで上がるよう促す。

 履物を脱ぎ、段差に足をかけた瞬間、顔を歪めた伊織が烏間に声をかける。嫌な予感がする烏間は、眉間に皺を寄せた。


「朔様、少しお話が」

「後にしろ」

「そう言うわけには。花街の方で少し問題が起きたようで」


 伊織が少し困ったような顔で、小声で烏間に言うと、面倒そうな顔で烏間はため息を吐いた。


「紫乃様、奥の部屋に灯磨と菫がおりますので、そちらでお待ちください。この者に案内をさせます」


 伊織がそう言うと、隣にいた女性が一歩前に出て軽く会釈をする。


八重やえでございます」


 少し白髪の混じる髪をきっちりとまとめた、凛とした表情の女性は、しゃんと伸ばした背筋と前で揃えられた手が綺麗な人だった。

 紫乃は八重の雰囲気に圧倒され、自然と背筋が伸びるようだった。

 紫乃と離れることに不安を感じていた様子の烏間だったが、八重に任せるとなると、途端に安堵した表情を浮かべていた。そして、烏間は再び履物を履き直すと、紫乃の耳元に口を寄せる。


「何かあれば灯磨と菫に言え」


 すまん、と小さく謝罪をすると、烏間は伊織を連れて屋敷を出ていった。

 先程から起きていることが受け入れきれず、未だ混乱する頭を抱えて、突然として一人置いてけぼりの紫乃。どうしていいのか分からず俯いていると、八重はぱんぱんと両手を叩く。


「さっさと仕事に戻りなさい」


 八重ははっきりとした口調で、そばに立っていた他の使用人達に声をかけた。すると不服そうな返事をして、だらだらと動き出す女性達。


「なんです、そのだらしない返事は」


 怒りの込められた、厳しい声で八重が言うと、女性達はびくりと肩を揺らし慌ててそれぞれの持ち場へと戻っていく。けれどその時、紫乃は見逃さなかった。一人の女性が紫乃を、それはそれは恨みがましく睨んでいたことに。

 八重は大きくため息を吐くと、すぐにまたしゃんと背筋を伸ばし、奥の方に手を指しながら言う。


「失礼いたしました紫乃様。こちらへどうぞ」


 八重に案内され、紫乃は薄暗い屋敷の奥へと、足を進めた。

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