満月の晩に



 夜も深まり、紫乃が家に帰ると、その姿に父・源治は倒れそうになりながら出迎えた。娘が受けた傷に涙をこぼし、強く紫乃を抱きしめた。そして、源治は娘を送ってきた烏間に無言で怒りを向けた。わなわなと拳を握りしめて震える源氏に、烏間は深々と頭を下げて、弱々しく、「申し訳ありません」とだけ言った。

 八雲邸から去る前に、烏間は紫乃にとあるものを渡す。それは八雲家の家宝である翡翠だった。手の中で光り輝くその石を見て、紫乃は目を丸くした。


「約束しただろう」


 ぶっきらぼうに、烏間は言った。


「それは、この家にあるべきものだ」


 烏間は翡翠を睨みつけると、お礼を口にする紫乃をまっすぐ見つめた。


「次の満月の晩に、お前を迎えに来る」


 それだけ言うと、烏間は振り返り馬車へと戻って行った。紫乃が言葉を口にする前に、烏間を乗せた馬車は闇へと、爪音を響かせながら消えていった。


 その夜は、傷付いた紫乃を気遣ってか、源治は何も言わず、紫乃も何も聞くことをないまま眠りについた。






*****





 後日、紫乃は父から聞かされる。

 烏間と初めて会った日の夜、父が烏間の下を訪れた事。そこで仕方なく、烏間に紫乃を守ってもらえるよう頼んだ事。その条件に、紫乃を烏間家の花嫁にする事。烏間が妖であり、烏間家が妖家であるのを知っていた事。八雲家は特別な血筋であり、妖家と深いえにしがある事。

 源治は淡々と語った。けれど、なぜ紫乃を烏間の花嫁にしたのかと、特別な血筋とは何かは、紫乃がいくら聞いても源治が語ることはなかった。


「全ては、いつか時が来れば話す。今は耐えてくれ」

「私は、烏間家に行かなくてはいけないのね」

「…すまない、紫乃」


 俯く紫乃に、源治はただ謝るだけだった。涙ぐむ父に、紫乃は何も言えなかった。

 逃げることや拒絶する事もできただろうが、相手は妖。逃げ切ることなんてできない。きっと、逃げたり、拒絶なんてすれば喰われてしまうかもしれない。

それに考えれば、烏間は約束を一応守ってくれた。婚約の話を帳消しに、家宝も取り戻してくれた。元はと言えば、紫乃が怪我をしたのは、紫乃自身が勝手に動いたのが原因だ。

 紫乃は先日の事を思い出す。恐怖や痛みが蘇るのと同時に、烏間の事を思い出した。冷酷無慈悲なのは確かだが、それだけではなかった。恐ろしいが美しい姿、支えてくれた腕の優しさ。

 紫乃は考えれば考えるほど、ますます烏間という人物の事が分からなくなった。



 時の流れは瞬く間に。紫乃の怪我もすっかり良くなった頃、約束の満月の日が訪れた。

 その夜は、庭の木に咲く花が散り始め、風に舞う、幻想的な夜だった。花びらがまるで雪のように舞い、大きく光る満月の光が美しく輝く。



 紫乃は今夜、妖の花嫁になる。



 濃くなった闇と共に、烏間が迎えに現れる。

 先日とは違う、紺の着流し姿。紫乃は父が選んだ、母の形見である、美しい花の模様の入った白い着物を身に纏う。まるで花嫁衣装のようだった。

 涙ぐむ父に見送られ、紫乃は烏間の手を取る。


「紫乃を頼みます」

「承知した」


 烏間は源治に頭を下げると、紫乃の手を引き、馬車へと向かう。

 月明かりが2人を照らす。美しく舞う花びらが、2人の髪をくすぐる。

 紫乃はふと烏間を見上げると、琥珀色の瞳が闇に妖しく輝く。蛍火のように、儚くも切ないその光は、紫乃の目を奪う。


 馬車に乗る前に、紫乃は父に別れの言葉を告げる。


「お父様、どうかお体に気をつけて」

「紫乃も。私はここで、お前の帰りをいつでも待っているよ」


 源治は紫乃を抱きしめる。


「お前の無事を、願っている」


 その声は震えていた。鼻を啜る音が紫乃の耳元から聞こえて、源治が涙を堪えきれず泣いているのだと紫乃は気付く。

 紫乃は精一杯の笑顔で、源治に笑いかけて言う。


「行ってまいります」


 父と別れた後、私はどうなるのだろうか。生きて、また父に会えるのだろうか。

 紫乃の胸には、急に不安が押し寄せる。だが今は、行くしかないのだ。理由も、秘密も、何もわからないとしても、行くしか紫乃には選択肢はない。


(いつの日か、巡り巡って、今日のこの日の選択が良いものでありますように)


 紫乃はそう祈りながら、烏間と共に馬車に乗り、父と生まれ育った我が家に別れを告げた。

 






*****






 どれくらいの時間、馬車に揺られただろう。

 紫乃はこんなにも長いこと乗り物に乗った経験は無く、顔はすでに青ざめていた。時折込み上げる不快感が、口からこぼれ出ないよう、紫乃は口に手を当て必死に耐えていた。

 こんな時、話の一つでもできれば少しは気が紛れるだろうに、烏間は馬車の外に見える、次々移り変わる景色をぼんやりと眺め、言葉を発することはなかった。

 辺りはまるで闇が襲ってきそうなほど暗く、紫乃の我慢も限界に達しそうになり朦朧としてきた頃。ようやく馬車が一軒の古く立派な屋敷の前で止まる。

 紫乃が屋敷をぼんやりと眺めていると、烏間はさっさと馬車から降りて、紫乃に手を差し出す。


「何をしている、さっさと降りろ」


 ぶっきらぼうに言う烏間に、紫乃は少しだけ怒りが込み上げたが、今はそれどころではない。必死に吐き気を抑え込み、紫乃は烏間の手を取り馬車から降りた。

 暗闇でもわかるほど、それはそれは立派な屋敷で、庭も広く、それでも隅々まで手入れが行き届いてそうな屋敷だった。

 紫乃が驚き、目を丸くして屋敷を眺めている間に、烏間はさっさと屋敷の方へ向かっていってしまった。

 慌てて後を追おうと紫乃は早足で進むが、揺れに負けた体が言う事を聞かず、ふらついた。するといつの間にか烏間は目の前まで戻ってきており、紫乃を不機嫌そうに見下ろす。


「どうした」


 紫乃は口元を手で押さえたまま、青白い顔で烏間を見る。文句を言いたくとも、今口を開けば、間違いなく違うものが口から飛び出てしまうだろう。

 烏間は紫乃の様子に、大きくため息を吐いた。


「人間は軟弱で困る」


 烏間は紫乃の喉元に、指を当てる。そして何やら小さくまじないらしきものを唱えると、烏間の人差し指の先が淡く光を放った。すると不思議なことに、恐ろしいまでの不快感が綺麗さっぱり無くなった。

 驚く目で見る紫乃に、烏間は面倒そうな顔をすると、再び屋敷に向かって歩き出した。不快感の無くなった紫乃は、烏間を慌てて追い、屋敷へと向かった。


 屋敷に着き、その厳格で格式ある入り口に圧倒されていると、中から誰かが烏間と紫乃を出迎える。


「おかえりなさいませ朔様。それと紫乃様、お待ちしておりました」


 貼り付けたような笑顔で、淡々と話すその人は、細身の長身の男性で、藤色の着流しがよく似合っていた。男性にしては長く艶やかな黒髪で、それを一つに束ねている。そして彼も烏間と同じ琥珀色の瞳で、男性な顔立ちだ。


(烏間家は美男美女しかいないのかしら)


 紫乃は出迎えてくれた男性と、烏間を見て思った。


「灯磨と菫が首を長くしてまっておりましたよ」

「そうか。見知った顔がいれば、紫乃も安心するだろう」

「2人は"裏"の方の屋敷で待っています」

「わかった。伊織、お前も一緒に来い」


 灯磨と菫の名前が聞こえてきて、紫乃は少し安堵する。2人の空気はとても柔らかく、紫乃にとって心安らぐものだった。


(裏の屋敷ってどこかしら。この大きな屋敷の反対側にも、屋敷があるのかしら)


 紫乃は伊織と呼ばれた彼の言う、"裏"の屋敷の意味がわからず戸惑う。


「なぜ私まで?」


 共に来るよう言われた伊織は、笑顔のまま嫌味っぽく言った。その返答に烏間は少しイラついたように言う。


「紫乃は初めて"あちら"に行くんだ。念のためだ」

「私はこちらの屋敷の仕事がございますので」

「いいから来い」

「嫌です」


 段々と不機嫌の色が濃くなる烏間だが、伊織は気にする様子もなく、それどころかますます笑顔で答える。


「そんな事に付き合っている暇は私にはありませんので」

「人嫌いもいい加減にしろ。いいから来い」

「人嫌いだなんて滅相もない。私はほんの少しだけ、人間を見ると不快感が込み上げるので関わりたくないだけですよ」

「それを人嫌いと言うんだ」


 貼り付けたような笑顔はますます気味悪さを増し、その不気味さに紫乃は固まっていた。


「それに朔様の我儘を聞いている時間はございません。先日の事も、誰が尻拭いをしたと思って」


 わざとらしく、大袈裟にため息を吐く伊織に、烏間は諦めたように首を振る。


「わかった。一緒に来るのなら、先日、鬼堂の当主にもらった壺をやろうかと思ったんだが。そこまで言うなら仕方がない」

「行かないとは言ってませんよ」


 その壺に一体どれほどの価値があるのか。伊織はあっという間に態度を変えた。烏間はしてやったりと、にやりと口角を上げる。


「さぁ行こうか花嫁殿」


 烏間から怪しげに差し出される手を、紫乃は渋々取る。そして烏間は紫乃の手を握り、屋敷の奥へと向かった。

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