それは雷鳴の如くー①




 長谷川に連れられ、紫乃はどんどんと人混みから離れていく。辺りは暗く、この男と2人という事で紫乃は不安で仕方がなかった。と同時に、勢い任せとは言え、つい1人で来たことを少し後悔する。だが今更思ったところでもう遅い。


「長谷川様、どこまで行かれるのですか?」

「静かに話せる場所の方がいいでしょう。大切な話ですからね」


 長谷川は振り返る事なく、紫乃の前を進んでいく。


「屋敷の中で話しましょう。今あそこには誰もおりませんから」


 という事は、完全にこの男と2人きりなのか、と紫乃は寒気がした。

 暗い事と長谷川が前を向いていて顔が見えなかった事で、紫乃は長谷川が密かに笑みを浮かべていたことには気付かなかった。


 屋敷に着くと、長谷川は先日の自室へと紫乃を案内する。


(相変わらず不気味な屋敷だわ)


 暗闇が、その不気味さをますます際立たせ、紫乃は身震いする。

 部屋に着くと、長谷川は黒い革製のソファへと腰をどかりと降ろした。座るよう長谷川に促されたが、紫乃は部屋の入り口に立ったまま、動かなかった。


「それで、さっそくですがお返事を聞かせていただけますかな」


 酒も回っているせいか、少し大きな声で、ニヤつきながら上機嫌に長谷川は言った。

 紫乃はそんな長谷川に少し躊躇しつつも、キッパリとした口調で言う。


「申し訳ありませんが、お断りをさせていただきたいと思います」


 紫乃は深々と頭を下げる。頭を下げながら、長谷川はの返答を待つが、一向に返事は返ってこない。嫌な予感が紫乃の胸によぎる。おそらく、長谷川の事だ。憤慨するに違いない。

 恐る恐る紫乃は頭を下げる。すると長谷川の反応は紫乃の思っていたものとは違っていた。


「そうですか。非常に残念ですなぁ」


 髭に手を触れながら、ニヤけた顔を保ち、大した気にもしていないような様子で長谷川は言った。

 そんな様子に、紫乃は拍子抜けする。おかしい。あの長谷川が、自分の思う通りに取引が進まない事に大して何も反応がないだなんて。

 違和感が紫乃を襲う。だが、たまたま興味が失せたのか。それとも紫乃自身よりも、あの翡翠をよっぽど手に入れたかったのかもしれない。

 目の前の長谷川に戸惑う紫乃。すると長谷川は突然立ち上がり、紫乃を醜悪な笑みで見つめ言った。


「本当に、残念ですよ紫乃様」


 ガンッ。

 突然、紫乃の背中に痛みと衝撃が走る。紫乃はその痛みと衝撃で倒れ込む。痛みで涙が滲み、ジンジンとした痛みは熱に変わり、身体全体を犯していくようだった。衝撃で呼吸はままならず、目の前が霞んでいく。

 一体何が起こったのか。紫乃は分からず、ただその場から動けず倒れ込んだまま、長谷川を見た。


「大人しく私の言うことを聞いていれば、痛い目に遭わずに済んだのに。私は一度欲しいと決めたものは逃さない主義でね」


 霞む視界に、恐ろしいほど笑顔を浮かべた長谷川が写る。


「父上」


 背後から、聞き慣れない声が響く。紫乃は痛みで動けず、その人物の顔が見れない。


直之なおゆき。紫乃様の体に傷が付いたらどうするんだ。お前の花嫁だぞ」

「申し訳ありません父上。手加減するのが難しくて」


 直之。長谷川の息子の名だった。紫乃はそこでようやく、この直之に背中を殴られたのだと理解した。

 溢れる涙を拭うことも出来ず、ただただ横たわる紫乃の髪の毛を、直之は乱暴に掴み引っ張る。痛みで紫乃はますます涙が溢れた。


「お前が紫乃か。なかなか可愛いじゃないか。父上、好きにしていいんでしょう?」

「あぁ、だがくれぐれもな」

「わかってますよ」


 長谷川に似た、その醜悪な顔に紫乃は震えた。痛みと恐怖で涙は止まらない。


「全く、烏間のガキと来た時はヒヤリとしたが、1人になっていただいて助かりましたよ」


 長谷川は口角をこれでもかと上げて紫乃を見る。


(どうして1人で来てしまったの。せっかく烏間様が助けてくださると言ったのに。一時の感情で、勝手なことをして、私はなんて馬鹿なんだろう)


長谷川は紫乃と息子を置いて、部屋から出て行こうと扉へと向かい、横たわる紫乃の横を通り過ぎる。


「それではごゆっくり、紫乃様」


 それはそれは悍ましい笑顔を浮かべ、長谷川は部屋から出ると同時に、ゆっくりと、扉を閉めた。

 紫乃にとっては、その扉の奏でる軋みが、絶望の音色に聞こえた。











*****






 烏間と灯磨は、宴の会場で長谷川と紫乃の姿を探す。だがいくら見回しても姿は見当たらない。


「どこへ行ったんだろう」

「場所を変えたのかもしれないな」


 使用人に聞いても、主人の居場所も把握していない役立たずばかり。周りの客も、誰が何をしていても気にする様子もない。おかしな屋敷だ、と烏間は不快をあらわにし舌打ちをした。

 紫乃が見つからず焦る2人。するとその2人の下に、息を切らして大急ぎで菫が現れた。


「朔様!!」


 息も整わないうちに、菫は顔を青くして烏間に言う。


「紫乃様が、長谷川の屋敷に連れ込まれました」


 その報告を聞き、烏間の纏う空気が一気に変わる。隣にいた灯磨が、その異変を察して身震いするほどだった。


「朔様、落ち着いて」

「…落ち着いているさ」


 こんなところで主人が我を失ったりすれば、止められなくなる。と灯磨は恐る恐る烏間に声をかけたが、烏間は低く静かに言った。だがその目は怒りに満ち、灯磨は引き攣り笑顔のまま固まった。


「急いで向かうぞ」


 忌々しく目に映る長谷川邸を睨みつけ、烏間は足早にその屋敷へと向かった。


「…勝手な事を」


 ぼそりと呟いた一言は、菫と灯磨の耳にしっかりと届いてしまい、2人の顔色は青くなった。



 長谷川邸の玄関まで着くと、烏間は乱暴に扉を叩く。だが皆、宴に出払ってしまっているのか返事はなく、静かなままだった。すると乱暴に扉のノブを握りまわす。だが引いても押しても、ガチャガチャと虚しく音を立てるばかりで一向に扉が開く事はなかった。

 朔は大きく、何かを探すように空気を吸い込む。


「…上だな。裏手にまわる」

「わかりました」

「お前たちはここにいろ。誰かが出入りするかもしれない」

「朔様お一人で行かせるわけには」


 烏間は不機嫌そうに舌を鳴らした後、長谷川邸を見上げ、裏手へと向かおうとした。するとそれを灯磨が追いかけようとする。たがそんな灯磨の言葉が気に障ったのか、ギラリと鋭い眼差しで睨むと、微かに口角を上げた。


「…灯磨、お前は俺が一人で何もできない愚図だとでも言いたいのか?」

「いえ、朔様の力量はよく存じております。ですが、主人を1人にするわけにはまいりません」


 灯磨は殺気立つ主人に、頭を下げながら言う。その様子に恐怖しても、彼は烏間家の当主。危険があるかもしれないと分かっている所に、分かっていて行かせるわけには行かない。


「心配するな。ここは任せたぞ灯磨」

「あっ、朔様!!」


 灯磨が頭を下げている隙に、烏間は走ってさっさと裏手へと向かってしまった。追いかけようと、灯磨も走り出そうとしたが、服を菫に引っ張られる。慌てて菫を振り返ると、菫は俯いて首を左右に振っていた。


「言ったら聞かないわよ。あとで伊織いおり様には一緒に怒られましょう」

「…ありがとう、菫」


 しょぼくれる灯磨の頭を、精一杯背伸びをして撫でてやる菫。そんな菫に、灯磨は半べそでお礼の言葉を述べる。

 菫は閉ざされた屋敷を見上げ、不安を胸に紫乃を思う。


「どうかご無事で、紫乃様」


 主人を信じ、紫乃の無事を祈り、2人の帰りを待ちながら長谷川邸の玄関前に座り込んだ。







*****

 





「いや!やめてください!」

「いいから大人しくしていろよ!」


 泣きながら、必死に抵抗する紫乃のドレスを、乱暴に掴み引き裂こうとしてくる目の前の男。

 痛みでうまく体は動かず、無理に動かせばその度に背中に激痛が走る。

 男は紫乃の上に跨り、興奮したように息を荒くしていた。すると、いつまで経っても抵抗を続ける紫乃をうざったく思ったのか、突然直之は紫乃の顔を拳で殴りつけた。

 電気のように顔に痛みが走り、ちかちかと目の前に光が瞬き、衝撃で紫乃は右側に顔が向いた。


「俺の花嫁になれるなんて、光栄に思えよ」


 紫乃は恐怖と痛みで脱力する。抵抗したくとも、うまく体が動いてくれない。最早極限状態の紫乃の目からは涙だけが溢れて、頬をつたい、床と接している部分が冷たく濡れていく。


「やっと大人しくなったか」


 女性を従えさせた優越感からか、殴りつけた快感からか、男の顔は醜悪さに歪んでいた。

 男は震える紫乃のドレスに手をかけ、下劣な笑いと共に思い切り裂いた。

 雪のように白い紫乃の肌が、裂かれたドレスの隙間から覗き、男は興奮した様子でごくりと唾を飲み込んだ。そして、男が紫乃の肌に手を伸ばしたその時だった。



 それはまるで凄烈せいれつな雷鳴の如く、部屋の中に轟く。

 暴風が部屋の中へと吹き込み、割れた窓ガラスが無数の刃のように飛び散った。

 床に倒れ込んでいた紫乃には何が起こったのか分からなかったが、窓の方に目を向ける直之は恐怖で怯えているようだった。


「…なんだ、お前」


 やっとの様子で振り絞った声で、直之は窓の方へ向かって言い放つ。ガクガクと震え、目を見開いたままの彼は、立っていられなくなり腰を抜かして座り込んだ。

 その様子を不思議に思い、紫乃はやっとの事で痛む体を起こして、窓の方へと目を向けた。

 紫乃はそこに立っていた人物に驚き、安堵する。と同時にその姿に目を奪われた。


「無事か」


 濡羽ぬれば色の髪。血の気のない真っ白な肌。月を閉じ込めたような琥珀こはくの瞳。そして、その背中にある、漆黒の翼。

 そこにいたのは見慣れたはずの烏間。だがその姿は人ならぬ姿。妖しく、美しいその光景。照らす月明かりが影を作り、影とその瞳が真っ直ぐに紫乃を射抜く。

 紫乃はきっと、この光景を一生忘れることはないだろう。

 


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