長谷川邸での宴ー③



「朔様、せっかくお会いできたのですから、あちらで少しお話ししていただけますか?」


 小鈴は可愛らしい表情で烏間に話しかける。すると烏間は少し気まずそうに紫乃を見た。

 紫乃はなぜ私に気を使うのか、行きたいなら行けばいいじゃないか、と少しイラつく。


「私の事はお気になさらず、どうぞいってらっしゃいませ」


 紫乃はにこりと微笑み言った。烏間は小さく、すまん、と言うと、突然胸元から布を取り出す。するとその布を紫乃の手に持たせた。


「これを持っていろ」


 渡されたそれは、美しい花の刺繍のハンカチ。手に乗せられた瞬間、ふわりと、烏間からしていたものと同じ香りがした。

 紫乃にハンカチを渡すと、烏間は小鈴と共にその場を離れていった。


「全く、朔様ったら小鈴様には逆らえないんだから」


 渡されたハンカチを、菫は紫乃のドレスの腰あたりの装飾にうまく忍ばせると、呆れたように言った。

 どういうことか、と紫乃が不思議そうに菫の方を向くと、菫は烏間の方を見てため息を吐き答える。


「小鈴様は、鬼童きどう家の御令嬢なんです」


 鬼童家とは、烏間家同様、古くから続く名家だ。武芸に長けたものが多く、血気盛んな人物が多いと噂に聞く家だった。

 先程の可愛らしい女性が、その鬼童家の御令嬢だなんて、と紫乃は信じられず驚く。


「鬼童家の血筋は男性の方が多く、武芸に長けた荒っぽい方が多いのですが、小鈴様はそこに生まれた末のお嬢様なので、それはそれは可愛がられ、蝶よ花よと育てられた方なのです」

「小鈴様に何かあれば、おいえの方が黙っちゃいないでしょうね!特に小鈴様のお兄様、れつ様の暴れようは目に浮かびます」


 灯磨は遠い目をして、小鈴の兄の姿を思い浮かべているようだった。


「それに小鈴様は、朔様の婚約者のお一人なんですよ」


 無邪気に、全くの悪気なく、灯磨は笑顔で言った。それを見て菫は灯磨を睨みつける、二の腕をつねっていた。


「婚約者?」


 紫乃は言葉がよく理解できず、聞き返す。そんな紫乃に、灯磨は答える。


「はい。朔様は家の事となると立派なご当主なのですが、どうにもご自身に関しては無頓着でして。女性の事となると特にひどいんです。ですから先代が、何人かの女性を選んで、朔様に黙って婚約者にしてしまったんですよ」


 呆気に取られている紫乃を見て、菫は渋い顔をした。そしてペラペラと話す灯磨の脇腹を思い切り殴り、馬鹿!話しすぎよ!と小声で怒った。

 菫はぼんやりしている紫乃を心配する。


「紫乃様、婚約者と言っても形ばかりのものでして」


 おろおろと菫は言った。するとようやく紫乃は重い口を開く。


「烏間様には婚約者がいらっしゃったのね。それもたくさん」


 なんだか裏切られたような気持ちになり、紫乃の顔は怒りと呆れで満ちていく。

 どうりであんなに親しげなわけだ、と他の女性達に向ける目とは違う烏間の表情を思い出し、紫乃は納得した。


「いいんですよ。私には関係のない事ですから」


 笑顔で言った紫乃に、菫と灯磨は顔を引き攣らせていた。

 菫は余計なことをペラペラと話した灯磨の足を思い切り踏みつける。頭で悶絶する灯磨には目もくれず、紫乃は俯いた。


「協力してくださると言ってくれたのはありがたい事ですが、一緒に来てくださる方がいらっしゃったなら、なにも私に声をかけなくてもよかったじゃありませんか」


 ぼそりと、紫乃は目の前にはいない烏間に向け呟く。

 力になると言ってくれたのは、紫乃にとって本当に頼もしかった。それに、出会って日の浅い人にとやかく言うつもりはなかったが、烏間には大勢婚約者がいて、わざわざ自分と共に来なくても引く手数多だったのだろう。あんなに親しげな方がいらっしゃったのなら、最初から鬼童家の御令嬢と宴に来ればよかったじゃないか。

 紫乃の心にはわなわなと怒りの感情が湧いていた。それと同時に、わざわざ自分を連れてきた理由が分からず、紫乃は惨めな気持ちになり、悲しくなってしまった。



「私、ちょっと長谷川様と話をしてきます」


 俯いていた紫乃は、突然顔を上げると思い切ったように言った。

 その場を離れ、長谷川の方へ向かおうとする紫乃を、灯磨と菫は必死に止める。


「だめですよ紫乃様。朔様が戻るまでお待ちください!」

「そうですよ。お話しなら朔様とご一緒の方がいいですよ!」

「いいえ、烏間様は鬼童様とのお話で忙しい様子ですし、少し話をしてくるだけですから平気です。着いてこなくて結構ですよ」


 必死な2人を、にこりと微笑んで止める紫乃。その目は笑っていないように見えて、灯磨も菫も固まってしまった。

 紫乃は固まる2人から離れ、人混みをかき分けて、下品な笑い声を上げ、客と話をしていた長谷川へと近付いていった。





「長谷川様」


 紫乃は震える口と手をなんとか押さえ、長谷川に話しかける。

 感情に身を任せ、勢いで来てしまったが、いざ長谷川を前にすると、その顔に嫌悪してしまう。


「これは紫乃様。どうかされましたかな?」


 長谷川はわざとらしい笑顔を浮かべ、話していた相手に目配せすると、紫乃の方へと近付いて来た。


「ところで烏間様はどちらへ?」

「他の方とお話があるようで」

「それはお可哀想に。こんなにお美しい人を置いていくだなんて、烏間様もなかなか冷たいお方ですな」


 長谷川はぐっと紫乃に近寄ると、グラスを待つ手とは反対の手で紫乃の手を突然触った。

 触れられたところから、身体中に向かって鳥肌が立ち、紫乃は慌てて手を離した。


「それで、ご用は?」


 手を離されたことをなんとも思ってないように、長谷川はにたりと笑みを浮かべると、グラスに口をつけた。


「…先日のお話の件で、お時間をいただきたく」


 一瞬動きが止まる長谷川。しかしすぐに醜悪な笑みを浮かべる。そして長谷川は紫乃の耳元に口を寄せて言う。


「では、ここでは少々賑やかですので、場所を変えてお話しいたしましょうか」


 長谷川は持っていたグラスを近くにいた使用人に押し付ける。


「こちらへどうぞ」


 差し伸べられた手を、紫乃は取らなかった。長谷川は先程同様気にする様子もなく、紫乃を連れて宴から離れると、屋敷の方へと向かった。






*****






「まずい、どうしよう」

「元はと言えば灯磨のせいでしょう」

「追いかけるべきかな」

「私が追うわ。灯磨は朔様にすぐに知らせて」


 長谷川の下へ向かった紫乃。先日の事情があるため、2人は紫乃から目を離さないように言われていた。しかし、先程の紫乃の勢いに2人は何故か逆らえず、紫乃を行かせてしまった。

 おろおろと慌てる灯磨の背中をバシンっと叩くと、菫は紫乃を追いかけていった。そして灯磨も烏間を探すため、人混みへと入る。


 沢山の人の話し声、笑い声、噂話。料理に酒、香水の匂い。烏間を探しながら、灯磨は人混みに酔いそうになる。そして少し人混みから離れたところに、ようやく烏間の姿を見つけ、灯磨は急いで駆け寄った。


「朔様!!」


 呼ばれた声に、烏間は素早く振り返り不機嫌そうな顔を浮かべた。


「一体どうした」


 酒の酔いか、人の酔いか。くらくらとめまいで倒れそうになる灯磨は、烏間の側に寄ると、隣にいた小鈴には聴こえないように耳打ちする。


「紫乃様が、長谷川の下へ行ってしまいました」


 言われたことが理解できず、烏間は眉間に皺を寄せた。その顔を見た灯磨は死を覚悟した。


「申し訳ありま」


 疾風の勢いで、大衆の面前で土下座しようと灯磨は動いたが、胸元を勢いよく烏間に掴まれたお陰でそれは阻まれた。しかし勢いよく掴まれた胸元は灯磨の首を絞めて、まるで潰れた蛙のような声が灯磨から発せられた。


「こんな場所でみっともない事はやめろ。失態の責任は後で覚悟しておけ」


 灯磨は再び死を覚悟した。


「ところで八雲殿が、なぜ長谷川の下へ行った」

「それがですね」


 言いづらそうにもごもごと言葉を濁らせる灯磨。そんな彼に烏間はイラついたように舌打ちをする。


「なんだ。はっきり言え。こんなとこで時間を使ってる場合じゃないんだ」

「…実は、その」


 灯磨はちらりと小鈴に目を向ける。烏間もつられて小鈴を見る。はっきりしない灯磨に、烏間が痺れを切らすのも時間の問題だろう。


「小鈴がどうした」


 灯磨は再び、烏間に耳打ちする。


「実は、小鈴様が婚約者だと知った途端、怒って行ってしまったんです」

「…なぜ小鈴が婚約者だと聞いて、八雲殿が怒る必要がある」

「わかりません」


 烏間は大きくため息を吐く。


「…これだから女は」


 おそらく、少々事実とは違う方向で紫乃の思いが伝わったところで、烏間は小鈴の方を向くと、持っていたグラスを小鈴に渡す。


「すまない小鈴。急ぎの用が出来た」

「そのようですね。残念ですわ。ところで八雲殿と聞こえましたが、先程の方が"あの"八雲様ですか?」


 グラスを受け取った小鈴は、可愛らしい顔を傾けて言った。その言葉に、烏間は小鈴の顎に手を添えて、顔を近付けた。


「お前には関係のない事だ。変な勘ぐりはよせ」

「あら、婚約者ですもの。あんなに綺麗な方がそばにいたら、気になりますわよ」


 低い声で言う烏間に、全く臆する事なく小鈴は笑顔を崩さない。

 烏間は手を離し、灯磨に行くぞ、と短く言う。


「口付けの一つでもしてくださればよかったのに」


 それはそれは可愛らしい顔で、残念そうに、背を向ける烏間に小鈴は言った。けれど烏間はそれを無視して、長谷川と紫乃を探しに向かった。


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