長谷川邸での宴ー②
高かった日は、段々と低くなり、月が少しずつ闇を引き連れてくる。会場に灯された蝋燭の火が、暗くなりつつある辺りを、怪しく照らす。
馬車から降りた紫乃は、慣れない靴に苦戦していた。踵だけ高さのついた靴と薄暗い視界のせいでふらつく紫乃。
「あっ」
紫乃は靴の先が地面に引っかかり、体が大きく前へ揺らぐ。全身から血の気が引き、まずい、と紫乃はぎゅっと目を閉じた。するとその体は転ぶことはなく、力強く支えられる。
「気をつけろ」
不機嫌そうに眉間に皺を寄せ、紫乃の体を支える烏間。その顔に紫乃はますます血の気が引く思いだったが、おかげで大事には至らなかった。
(この服で、ここで転んだりしたら)
考えただけで紫乃は身震いした。
烏間は、緊張と不安、そして転びそうになって顔の真っ青な紫乃に腕を差し出す。
紫乃はどうしていいのか分からず、ただ不思議そうな顔で烏間を見つめた。そんな紫乃に、面倒臭そうにため息を吐き、烏間は素っ気なく言う。
「掴まれ。洋装の宴では、男女が腕を組んで歩くんだ」
洋装での宴に出たことのない紫乃にとって、そんなマナーがある事は知らなかった。
マナーを守るためなのか、歩きづらくする紫乃を支えるためなのか、烏間の真意は分からなかったが、紫乃は遠慮がちに烏間の腕を指先で掴む。
それを見て、烏間はまたため息を吐いた。
「…違う」
そう言って烏間は強引に紫乃の華奢な腕を掴み、自身の腕に絡ませる。その衝撃で紫乃の体は派手に烏間へとぶつかり、紫乃の胸が思い切り烏間の膝に当たってしまう。
「っ。申し訳ありません」
紫乃は急に近くなった烏間と、胸にぶつかった衝撃で、顔を真っ赤にすると、咄嗟に謝った。
なぜ紫乃が赤くなったか気付いた烏間は表情一つ変えることなく言う。
「気にするな。行くぞ」
あまりの素っ気なさに、紫乃は自分だけが気にしてしまったと、気恥ずかしくなってしまった。
組まれた腕はそのままに、長谷川邸の庭へと向かう。
近くなり、濃くなった烏間の匂いのせいか、紫乃の顔の赤さはなかなか引かなかった。
*****
会場である長谷川邸の庭へ着くと、すでにたくさんの人が集まっていた。しかし、さすが長谷川の呼んだ客と言えるだろう。聞こえてくる話は、それはそれは嫌悪に溢れるものや、怒りが込み上げそうな話ばかり。金に、政治に、誰かの噂話。
騒がしさと、笑い声、怪しげな蝋燭の火。たくさん用意された料理に飲み物。紫乃は空気に飲まれそうになり、眩暈がするようだった。
「烏間様ではありませんか」
会場に着いた紫乃と烏間に、人混みをかき分け、酒が入っているのか興奮した様子で長谷川が声をかけてきた。
「来てくださって光栄ですよ」
「いえ、お誘い感謝する」
「おや?」
仰々しく烏間に礼を言う長谷川だったが、ふと隣にいた紫乃に気付く。するとわざとらしい反応で長谷川は驚いてみせた。
「これはこれは、紫乃様ではありませんか。あまりにもお美しいので、私としたことが気づきませんでしたよ。元々お美しいのに、今夜は特別にお美しいですな」
気持ちの悪い、貼り付けたような笑顔で紫乃を見る長谷川。
「しかし、なぜ烏間様とご一緒で?まさかお二人はご婚約でも?」
「いや。少々縁があり、私が頼んだのだ」
「そうでしたか。ただでさえ女性達が放ってはおかない烏間様が、今日は女性連れで現れて会場の女性達の目が痛いと言うのに、まさか婚約なんてされたもんなら明日は嵐でしょうな」
ちらりと会場に目を向ける長谷川。紫乃もついつられてそちらに目を向けると、たしかにその場にいた年若い女性達が烏間に目を奪われていた。
この男の美しい顔立ち、家柄、しかも社交の場には滅多に現れない。であれば、このチャンスは逃せないだろう。女性達はまるで獲物を狙う獣のように、烏間に近付く機会を窺っているようだった。と同時に、その隣にいる紫乃を睨みつけている。
「今日はぜひ楽しんでください。ところで紫乃様」
「はい?」
気持ちの悪い笑顔のまま、長谷川は紫乃の耳元に口を寄せ、囁く。
「先日の件、ぜひ今日お返事をいただけると嬉しく思いますよ」
紫乃は一気に鳥肌が立つ。
烏間は慌てて、紫乃から長谷川を離す。
「…あまり不躾に近寄らないでいただけるか」
「これは失礼いたしました。それでは」
自身を睨みつける烏間に、長谷川は気にする様子もなく、気持ちの悪い笑顔を浮かべたまま、立ち去っていった。
「大丈夫か?何を言われた」
「大丈夫です。大したことじゃありません」
そうか、と言うと、烏間は紫乃の肩を優しく叩く。まるで大丈夫だ、と安心させるように。紫乃はその手で少し固くなった体が和らいだ。
紫乃が少し落ち着いたのを見ると、烏間は紫乃から離れる。
「飲み物をもらってくる。ここで待っていろ」
「烏間様、飲み物なら私が貰ってまいります」
烏間は制止する紫乃を無視して、料理や飲み物がある方へ、人混みに紛れて行ってしまった。
1人ぽつんと、この醜悪な空間に残されてしまった紫乃。不安でいっぱいになり、どうしていいか分からずきょろきょろとする。すると、突然肩をポンと叩かれた。
「きゃっ」
短く放った悲鳴は、喧騒に消えた。
「驚かせてしまいましたか?申し訳ありません」
肩を叩いたのは、灯磨だった。横には菫もいた。
見知った顔に紫乃は途端に安心して、崩れ落ちそうになる。気が緩んだのか、目に涙が溜まっていた。
「紫乃様大丈夫ですか?灯磨が驚かすからよ」
「えぇ!僕ですか」
菫は紫乃に駆け寄り、心配そうに手を握る。そして灯磨を睨みつける。責められた灯磨は困ったように目を丸くした。
「ところで朔様はどちらへ?」
灯磨は辺りをキョロキョロと見回し、姿のない烏間を探す。菫は、こんなに美しい紫乃様を残して何をしてらっしゃるんだか、とぶつぶつと文句を言っていた。
「飲み物を取りに行くと言って、行ってしまいました」
そう言われ、灯磨は料理や飲み物が並ぶ方を見る。すると、気まずそうに灯磨は、あー、と声を漏らした。それを見て不審に思った菫は灯磨の目線の先を見る。しかし、背の低い菫には人混みでよく見えず、勢いをつけて飛び上がると、烏間の姿が目に飛び込んだ。
「あ!!」
烏間を見つけた菫が、怒ったように声を上げた。紫乃も不思議そうに、そちらに目を向ける。するとそこにいたのは、あっという間に女性達に囲まれた烏間だった。
「もー、1人になるとすぐこうなるんだから」
面倒そうな表情を浮かべて、灯磨は渋々、女性に囲まれた烏間の元へ向かった。
「烏間様、ぜひ今度私の屋敷へいらしてください」
「いいえ、私の屋敷に」
「あちらで私とお話しいたしましょう」
「私のお父様がぜひ烏間様とお話になりたいと」
「烏間様が宴にいらっしゃるなんて珍しいですわね」
「本当にお美しいですわ」
猫撫で声で、色目を使い、烏間に纏わりつく女性達。混ざり合う、濃い香水の匂い、耳障りな声、べたべたと触れる手。全てに烏間はうんざりしていた。
いくら烏間が嫌な顔をしても、いくら離れるように言っても、女性達は聞く耳を持たなかった。
社交の場に顔を出すたび、いつもこうなる事が、烏間が社交の場に顔を出さない理由の一つだった。
思わず怒鳴り散らしそうになるのを堪えている時、救世主のごとく、そこに灯磨が現れた。
「朔様!ほらほら、どけてください。失礼ですよ」
灯磨は慣れた様子で、ぶーぶーと文句を言う女性達を追い払っていく。
烏間の手前、灯磨にきつく言う事も出来ず、女性達は渋々烏間の周りから離れていった。
「…助かった」
「まったく、いつもこうなるんですから」
心なしか、女性達に揉まれて、烏間はヨレヨレになっているようだった。
「飲み物は僕がもらってきますから、紫乃様のところに戻ってあげてください」
わかった、と短く言うと、烏間は人混みをかき分け紫乃の下は戻った。そして灯磨も、飲み物の入ったグラスを4つ受け取り、3人の下へ急いだ。
「大丈夫ですか?」
来たばかりで、すっかり疲れ切った様子で戻ってきた烏間に紫乃は心配そうに声をかける。
「あぁ」
短く返事をしたが、烏間は大きくため息をついた。
「朔様は社交の場に出るといつもこうなるんですよ。優しくしても勘違いされる。冷たくしても喜ばれる。困ったものです」
呆れたように菫は言った。
過去にこうして社交の場に出た際に、女性に囲まれた烏間はどうあしらってもうまくいかなかった。優しく断れば、次の日から四六時中付き纏われ、冷たくすれば、その眼差しに胸をときめかせてしまう人もいた。ひどい時はその場で女性達の罵り合いが始まってしまう。美形ゆえの悩みだろう。
「烏間様はおモテになるんですね」
紫乃は感心したように言った。まるで烏間に興味もないように言う紫乃に、菫は思わず吹き出した。
するとそこに飲み物を持って灯磨が戻ってきた。
「お待たせしました」
灯磨はみんなにグラスを手渡す。それぞれ受け取ると、灯磨がグラスを前に突き出した。
「乾杯!」
陽気に言う灯磨に、菫と烏間はグラスを近付け鳴り合わせた。
戸惑っている紫乃に、はい、と灯磨はグラス近付ける。恐る恐る紫乃もグラスを近付けると、綺麗な音がカチンと響いた。
薄い
お酒特有の香りと、ほんのり甘い味。舌の上で爆ぜ、喉を刺激しながら流れていく。
紫乃は驚いて目をまん丸にした。
「おいしいですか?」
灯磨は笑顔で聞く。
「はい、でも初めて飲みました」
「外国のお酒で、シャンパンと言うんですよ」
普段、お酒もあまり口にすることの無い紫乃は、その味と刺激に驚いた。こんな飲み物がこの世にあるのか、とまじまじとシャンパンを見つめた。
どんどん暗さは濃くなり、人は増えて賑わいは増していた。シャンパンを飲み、談笑していた4人に、突然誰かが声をかけてきた。
「朔様」
可愛らしい声の、華奢で小さな女性だった。
「
驚いた顔を見せた烏間だったが、どこか表情が柔らかく、明らかに態度が他の女性とは違って見える。
「朔様こそ、珍しいじゃありませんか。女性達が騒いでいたので、すぐわかりました」
くすくすと、口元に手を当てて、上品に微笑む女性。薄い桜色のドレスが、その大きな瞳と桃色の唇の美しい顔によく似合っていた。
「こちらの方は?」
「あぁ、」
小鈴は不思議そうに紫乃を見て、烏間に尋ねる。するとなぜか烏間はバツが悪そうな顔をして、言葉を濁らせてしまった。
「ちょっとした知り合いだ。今日の宴に訳あって付き合ってもらっている」
「そうなんですか。どうせなら、私に言ってくだされば一緒に参りましたのに」
気まずそうに答える烏間。小鈴は可愛らしく頬を膨らませ、烏間に近付き腕を絡めると、不満を漏らして言った。てっきり腕を離すのかと紫乃は思ったが、烏間は小鈴の腕を離すことは無かった。
なにやら2人はただの知り合いではなさそうだ、と紫乃は思う。その瞬間、よくわからない不快感が、紫乃の胸を襲った。
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