第5話 地中深く潜る根
花の都と呼ばれるエンクロウは、基本的に争い事には無縁の平凡な街だ。
至るところで花の香りが漂い、ゆったりとした時間が流れている。
カイトスはそんな故郷に少し懐かしさを感じながら歩いていた。
しかし、なだらかな丘の上に立った時、全ての思考がかき消された。
目の前に広がるのは更地。周りには何もない。あるはずのものも。
カイトスは偶然近くを通りかかった女性に尋ねた。
「ここにあったはずの孤児院はどうなったんだ……!?」
急に話しかけられた茶髪をまとめた女性は驚きながらも答えてくれた。
首筋に目立つほくろに若干既視感があるが、今はそれどころではない。
「孤児院ですか?それなら何年か前に取り壊されましたよ」
「何だと!?」
「私も孤児院出身なので先生の手伝いをしていたんですが、もう経済的にも限界で……」
顔面蒼白になったカイトスの頭にとっさに浮かんだのは一人の顔。
「先生は……ここの職員はどうした?」
「雇える人もいなくてデボラ先生だけが残ったんです。でも……疲労で亡くなられて」
目の前にある全ての景色が色を失っていく。心が体から離れていくようだ。
カイトスの表情を窺っていた女性は、はっとして身を乗り出した。
「もしかして、あなた……あっ、待って!」
女性が呼び止めるのも構わず、カイトスは駆け出していた。
無意識に走り続け、気がつけば見覚えのある湖の前に立っていた。
女神の現れたあの湖だった。
(援助がなかったという事は、あの主人がくすねていたんだろう)
そんな主を恨むも、気づけなかったのは自分だ。何の連絡もしてこなかった自分も悪いのだ。
(俺は……何のために生きていたんだ)
世話になった人のために、と始めた傭兵業だったが、呆れるほどの結果に情けなくなった。
一歩ずつ、湖へと足を運んだ。
はるか眼下に澄んだ水面が見える。
少し踏み出せば、この体は湖に波紋を立てて消えるのだろう。
(もう……どうでもいい)
背負っていた呈黒天を地面に降ろした。
自分の愚かな行動に道連れにするのは申し訳なかったのだ。
しかし、最期の一歩を踏み出そうとした時、眩い光が現れ、思わず後ずさりした。
金の輝きの中から声が響く。
『あなたの願いを聞きましょう』
静かな声は、呆然としたカイトスの心をさらけ出すかのようだった。
湖の上に浮かぶ女神は、答えを待つかのようにカイトスを見つめる。
しばしの沈黙の後、カイトスは口を開いた。
「もう、こんな思いをしないように……心を封じてくれ」
誰かの為に何かをしようと考えても、その行動が報われる事はなかった。
自分の存在理由さえわからなくなった。
カイトスはもう、疲れきっていたのだ。
『わかりました。あなたの望みを叶えましょう』
その言葉と共に、黄金の女神の姿を象ったカギが現れる。
『あなたが誰かに必要とされるその時まで……この神器は預かっておきます』
自身の武器が女神と共に輝きの中へと姿を消しても、カイトスには何の感情もわかなかった。
すでに心は閉ざされていた。
首から下げられたカギを見つめ、再び静かになった周辺に頭を巡らす。
虚ろな瞳に映るものはただの風景。
意思を失い、人形のようになった男は、やがて当てもなく一人歩き出した。
*
「失礼します、カンザ様。面白いものを見つけました」
しわがれた声に呼ばれて強靭な体格の男が振り返る。
「ボイドか。何の用だ」
「は……。実はぜひともお見せしたいものがありまして……」
カンザと呼ばれた男とは対照的な腰の曲がった老人は、さらに腰を低くして不気味な笑顔を浮かべた。
「ご存知の通り、この私は研究に没頭したいあまり、レグルスに疲れを封じてもらいました。その後も何度か湖へ赴いたのですが……もう一度女神の姿を見る事は叶いませんでした」
「そんな事は知っている。早く見せろ」
「……はっ。申し訳ありません。これ、こちらへ来なさい」
白衣の老人は丸い眼鏡を指で直すと、廊下へ続く扉の方へ声をかけた。
そこから姿を現したのは一人の黒髪の青年だった。淀んだ瞳は何も映していないように見える。
「こいつが何だと言うんだ」
「これは私がレグルスの湖へ訪れた時に見つけました。どうやら心を封じてもらったようです」
それがどうした、と聞きたげなカンザを制してボイドは続ける。
「女神を知る手がかりになればと連れて来たのですが、これがどうしていい道具になるんですよ」
意味が理解できず、カンザは思わず眉をひそめた。
「これは心の抜けた人間。あれをやれ、これをしろ、と命令すれば、何の疑問もなく忠実に遂行するのですよ」
ボイドは自慢げに背の高い青年を見上げた。
「これを、カンザ様の計画に使えないかと」
「ふむ……」
現国王カストル・ハウト・オリトンは平穏を望む温和な男だった。武力に物を言わせるカンザとは正反対に。
もっと強大な国にしたい。他国からの侵略に怯えずにすむ大国。それこそがカンザの望みだった。
しかし、あの王には到底不可能だ。
だからこそカンザは動き出したのだ。
ボイドに女神の研究をさせ、自分の思い通りになる力を持つ女神を作り出す。
この国を変えるために。
相変わらず表情に変化のない青年を見やって、カンザは言った。
「いいだろう。結果が出るか期待はせんが、使ってやろう」
かくして「グレイ」というカンザの私兵が誕生した。
虚ろな瞳を疎ましく思ったカンザが、灰色の兜を与えてからそんな呼び名がついた。
その後、エバンらに再会するまでの六年間、グレイはグレイとしてカンザの操り人形となっていたのである。
*
目を開くと、真摯な緑の瞳の少年がこちらを見つめていた。
「……カイトス?俺たちを覚えてるか?」
──カイトス。
それが男の名前だった。思い出しても何も感じなかったが。
ずいぶんと成長した昔会ったことのある少年は、懇願するような表情で男から目をそらさない。
少年が聞く質問に、男はただ淡々と答えた。
「俺たちはあんたを必要としてる。頼む、そのカギを開けて本当の心で判断してくれ……!」
必要。
何も感じないはずの男の鼓動が、一度だけ大きく脈打った。
「俺を必要としている……か」
「あぁ」
「今、俺がやっている事は誤ちだと言うのか」
「少なくとも俺たちにとっては」
少年は男が動き出すのを信じて待っていた。
女神の姿をした金色のカギを手に取る。
──あなたが誰かに必要とされるその時まで……
静かな声が頭に響く。
カギ握りしめ、目を閉じる。
男が次に水色の瞳を開いた時、少年少女の笑顔がカイトスを迎え入れてくれたのだった。
*
「もう一度、俺として歩いていくために」
そうカイトスが言うと、エバンは不思議そうな顏になった。
カンザとの争いも終結し、仲間たちは各々帰路へ向かう事となった朝。イズールドへ共に行くと宣言したカイトスに、他の面々は豆鉄砲でも食らったような顏をしていた。
そのうちエバンとリンディが笑い出し、残る三人も微笑んだ。
一人置いてけぼりにされたカイトスは、自分の表情のせいだということにしばらく気づかなかったのである。
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