好きな人には嫌われたくないに決まってる

「本当に大丈夫なの?」と頬に手を添え、心配するように声をかける母親に、大丈夫だからと笑って答えて、春風さんはぼくらを部屋へと案内した。


「……とりあえず、ごめん」


 部屋に入りパタンとドアが閉まった途端、春風さんの顔から笑顔が消えて、深刻そうな声でぼくらに謝った。さっきは母親をごまかすために無理して気丈に振る舞っていたようだった。


「その、熱とかは本当に大丈夫なの?」

「心配しなくて、大丈夫。仮病……だから」


 大助が聴きにくそうに質問して、春風さんも言いにくそうに答える。


 大助だって、十中八九仮病だとは思っていたんだろう。それでももしかしたらという心配を拭うためには聴いたのだ。結局、なんとも言えない空気になってしまったわけだけど。


「聞かれたくないことかもしれないけど、女優になりたいっていうのは嘘だった。ていう認識で合ってる?」

「……うん。ぼたんが言ってたことは本当だよ。ぼーっとしてた理由も、階段から落ちた理由もなにからなにまで当てられちゃった」


 ぼくが聴くと、春風さんは「さすが親友だよね」と寂し気な笑みを浮かべてそう答えた。


「私を推薦してくれた人って、女優になりたいって夢を知ってるからって人も多くて。でもその夢が嘘ってバレちゃって。しかも怪我までして、みんなが練習してきた劇を台無しにしちゃってさ。みんなに会うのが、怖くなっちゃって……」

「春風さんは、さ。そもそもなんで女優になりたいなんて嘘をついたの?」


 大助が率直な疑問を投げかけた。


「それは……」


 春風さんはすこし言い淀んでから、覚悟を決めたようにつばを飲み込んで口を開いた。


「……わたし、本当は女優じゃなくて声優になりたいんだ。それも、アニメ声優」


 春風さんは、意を決したようにそう答えた。


 その告白に、ぼくらは目を見開いた。


「コミケの時、私の親がそういう文化が好きじゃないって話したの、覚えてるかな?」


 ああ。そんなこともあったか。その時は、厳しい家庭だなーくらいにしか思わなかったけど。


「そういえば言ってたね。そんなこと」


 大助も覚えていたらしい。まあこいつが春風さんとの思い出について忘れるなんてことはないか。


「わたしの家って、小さい頃からシングルマザーでさ。そのお母さんに、声優なんて恥さらしみたいな真似って猛反対されちゃってね」


 さっき会った優しそうな人がそんなことを言うイメージが湧かなかった。見かけによらず、結構厳しい人なのだろうか。


「そんな、恥さらしなんて……」と、大助が信じられないとでも言うように声をもらした。


「でも、諦められなくて。当時のわたしは声優について勉強する方法、なにかないかって考えて。演劇って、声優とちょっと似てるでしょ?舞台をやってる声優さんとかもいるし。声優なんて絶対認めてくれないのに、女優になりたいって言ったらすんなりオッケーしてくれてさ」


 女優がアニメ映画の声優をやることだってあるんだ。それをすんなりオッケーするということは、アニメ声優だけに偏見があるのだろうか。単純に、娘の顔やスタイルなら、女優もいけるだろうと思ったのもあるかもしれないけど。


「高校に入って、演劇部員がいなかったのは正直嬉しかったな。どっちかというと、家でのトレーニングを不審がられないためだったから。

 でも部員が自分ひとりの部活に入るってなったら周りは理由を知りたがるでしょ?その頃には、本当のことを言うこと自体が怖くなっちゃってて。そこでも女優になりたいだなんて嘘ついちゃって。

 それがどんどん取り返しがつかなくなるくらい広まちゃったんだ。……嘘をついた理由は、そんな感じ」


 話し終えた春風さんは目を伏せて沈黙した。


 夢を否定されるというのはどんな気持ちなのだろう。その心情を、ぼくには想像もできなかった。ただ春風さんとよく似たやつを一人、ぼくは知っている。


 やり直す前、つまり一度目の学生時代。ぼくは春風さんのことが好きなんだと言ってきた大助に、おまえとは真逆の存在だから無理に決まっていると諦めさせた。高嶺の花だ。釣り合いが取れていないと。


 でもそれは間違いだったのだと今なら分かる。ふたりは案外似たもの同士だったのだ。実はオタクなところとか。夢を隠してるところとか。


 方や毎日小説を書き続けて。方や親に嘘をついてまで声優になることを諦められなくて。そういう不器用だけど結局夢を捨てられなかったところまで、二人してそれはもう良く似ていたのだった。


 きっと、今春風さんのことが一番理解できるのは大助だ。だから春風さんに響く言葉をなげかけるのに、大助以外の適役はいないだろう。


 ぼくは大助に発破をかけてやろうと横を見て……やっぱりやめた。なぜならすでに大助は、そんなこと必要ないくらい覚悟の決まった顔をして春風さんを見ていたから。


「嘘をついてた理由はわかったけど、それで春風さんはなぜ2日も休んでるの?」


 大助が口を開く。それは大助が春風さんに向けるものにしては、いささか冷たいと感じる声だった。


「それは……。だから私のせいで劇を台無しにしちゃって、みんなに合わせる顔がなくて……」

「まだ文化祭は始まってすらいない。なのに台無しだなんて、まるで失敗するのがもう決まってるみたいな言い方はしないでほしい」


 大助はピシャリと突っ込んだ。


「だって、練習だってもうろくにする時間もないし……」


 大助のただならぬピリピリとした雰囲気に、春風さんは瞳を揺らしてたじろいだ。


「ぼくはまだ諦めてないよ。劇を絶対成功させるんだって思ってる。もう全部終わりみたいなこと言ってるけど、春風さんはそうじゃないの?」


 いつだって春風さんの前だとデレデレしている。傍から見ても溢れ出た特大ビームのような好き好き光線が一目瞭然。そんな大助が今、弱っている春風さんにぶつけたのは優しさではなく、静かな怒りだった。


「みんなの期待からも、役を受け持った責任からも逃げるような人には、それがどんなものであれ、夢なんて叶えられないと思う」


 傍で聴いているぼくですら胸が痛くなるような辛辣な言葉を、大助は続けて春風さんに投げた。


「西宮くん、なんで……なんでそんなにひどいこと言うの?」


 ぼくでさえそう思うのだ。急にそんな言葉をぶつけられた本人は悲痛な表情で声を震わせた。無理もない。だって大助はそんなことを言うよう性格じゃない。ましてや春風さんになんて絶対に。だからこそ、その突き放すような冷たいセリフには余計に破壊力があった。


「春風さんはさ、ぼくが劇の台本を書いてくるってなったとき、遅刻したのは覚えてる?」

「それはもちろん、覚えてるけど……」


 それと一体なにが関係あるんだと言いたげに、春風さんは眉を歪めた。


「あの時ぼく、みんなに自分の作った台本を読まれるのが怖くてさ。ホントは逃げたくてしょうがなかったんだ。というか、実際一度は逃げた。今の春風さんみたに、当日仮病で休もうとしたんだ。遅刻じゃなくて、そのまま休む気だったんだ」

「嘘……。てっきりギリギリ間に合わなかっただけだと……。だってあんなに面白い話だったから……」


 その事実に、春風さんは衝撃を受けたらしい。周りから見るとあの遅刻はそんな風に思われていたのか。最初は逃げたんじゃとかヒソヒソ言われていた記憶があるが、遅れたとはいえ最終的に台本はちゃんと持ってきた大助の遅刻を、そういう風に捉えた人は多かったのかもしれない。


「ぼくは、小説家になるのが夢なんだ。でももしぼくがあのまま休んでたら、きっとこれからの人生、色んなことからなにかと理由をつけて逃げ続けてしまうようになってたんじゃないかって思うんだ。小説家になりたいっていう、自分の夢からさえも」


「だから、だからなんというか……」と、続く言葉を探すように大助は視線を斜め上にやった。


「たぶん、ぼくは春風さんにはそうなって欲しくないだけなんだと思う。何様だって思われるかもしれないけど、ぼくは春風さんに、劇からも、クラスのみんなからも、それになにより、声優になりたいっていう自分の夢から逃げるような人になってほしくないんだ」

「西宮……くん」


 大助の言葉に、春風さんの瞳が大きく揺れた。


 もし好きな人が春風さんのようになっていたら、ぼくならどうするだろうか。多分、君は良くやったよとか。運が悪かったねだとか。劇のことは仕方ないよとか。それが良い悪いに関わらず全肯定してしまうったと思う。だって、好きな人には嫌われたくないから。


 でも大助はそうじゃなかった。好きな人に好きになってもらいたいって想いより、好きな人に幸せになってほしいって想いを優先させたのだ。本当に改めて、こいつは春風さんのことが心の底から大好きなんだと実感させられる。


「ぼくはあの時、佐藤くんが背中を押してくれたから夢から逃げずに済んだんだ。だから同じように、ぼくに春風さんの背中を押させてほしい」


 急にぼくの話を持ち出すもんだから、顔がかゆくなった。


「……わたしも、劇を成功させたいよ。諦めたくなんて、ないよ。でも、ごめん。西宮くんにここまで言ってもらったのに、わたしまだ、クラスのみんなに会うのが怖くてたまらないっ」


 そう言って春風さんは、太ももの上に置いた自らの震える右拳を、ギュッともう片方の手で上から押さえつけた。

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