先輩は大体見かけ倒しだと言うことを、私だけが知っている。
将平(或いは、夢羽)
第1話
私が先輩と出逢ったのは、その会社に入社した初日だった。
「初めまして。購買部で事務を勤めてます。宜しく」
きびきびと喋る人だった。
見た目の第一印象は、美人。それに尽きる。黒く長い髪が似合っている。クールビューティってやつだ。耳たぶに光る小さな赤いピアスも。とってもよく、似合っていた。
「初めまして。総務部に配属されることになりました。宜しくお願いしますっ…!」
今年度の新入社員は私だけと言うことで、上司になる方と一緒に二人で、一つ一つの部署の社員の方々へ挨拶に回った。本社だけで社員は八十人と少し。製造メーカーの中小企業に就職した。
誰に挨拶しても緊張したから、その先輩が特別緊張したと言うわけではない。美人だな、と思ったけれど、後にも先にも沢山の人と挨拶を交わし、自己紹介を繰り返した。先輩の名前なんて、もう、次の部署に挨拶に行った時には、忘れてしまっていた。
なのに。
「えっ!後輩ちゃん…!それっ……!“世界が始まった日”の公式グッズのハンカチだよね………っ?!」
その日は、突然、やって来た。
女子トイレでたまたま一緒になった先輩は、私がポケットから出したハンカチを指差す。
「えっ!あ!はい!先輩、ご存知なんですか?」
うん!知ってるよ!と、返す先輩は、初めて見る満面の笑みで続ける。
「私も好きなの!嬉しいーっ!それ、好きな子、私の友人に居ないんだよね!」
“世界が始まった日”と言うのは、五人グループのバンド名で、最近はアニメ映画の主題歌なんかも歌っている。そこそこ、有名だと思う。
先輩は興奮していて、いつもより声も大きければ、口調も少し速い。私は密かに、驚いていた。
先輩って、口下手なだけなのかもしれない。
用事があっても口数少ない先輩は、これまで私に対して、にこりとも笑ったことが無かった。
「まだ話したいけど、取り敢えず、事務所に戻らないとだね…!良かったら、また話そう!」
いや、是非、話してください!と先輩は私に頭を下げた。
それから暫くは、私は先輩の豹変ぶりに目を白黒させるしかなかったが、やがて、慣れと言うものはやってくる。
「後輩ちゃーん!これ、言ってたDVD!おすすめのやつ!」
「わぁっ!ありがとうございますっ!」
“世界が始まった日”のCDやDVDの貸し借りを通じて、私達はより一層仲良くなっていった。
借りたものを返す際に、おすすめのお菓子と簡単なメモをいれていれば、次にまた借りる時には先輩も同じようにおすすめのお菓子と簡単な手紙をくれた。
「後輩ちゃん!」
そう呼ばれるのが、くすぐったくて好きだった。
基本的に先輩は、どこかツーンとしていて、他を寄せ付けない印象を受ける。
実際は周りの人達をどう思っているのかはわからないけれど、昼休みは大体、一人で自分の席に座って、音楽を聴きながら本を読んでいた。
そんな、先輩が。
私を呼ぶ時だけ、声を弾ませる。
パッと、まるで花が咲いたように笑顔になる。
それはいつも、私に堪らない優越感を与えた。
「ねぇ、後輩ちゃん」
「なんですか、先輩」
昼休み。
DVDを渡しに総務部までやって来た先輩は、小首を傾げながら問う。
「後輩ちゃんは、一人暮らしだよね?」
「そうですけど…?」
突然なんだろう?
差し出された紙袋を受け取りながら、私も首を傾げる。
「…………もし、もし良かったらでいいんだけど。もし、良かったら……」
「はい?」
「あの、………私と、ルームシェア、しない?」
「えっ?」
突然どうしたのか、と思って聞けば、どうやら先輩には同棲する彼氏がいたが、先日円満に別れ、今は居候と言う形で一緒に暮らしながら引っ越し先を探しているのだと言う。
………先輩、彼氏居たんだ…。
「家賃折半で…!どうかな?家事とか分担できるし…、メリットはあると思うんだけど…」
「えっと、」
楽しそうだな、と思った。それに、少しだけ、嬉しかった。まさか先輩が、そこまで私の事を気に入ってくれているなんて。
だけど少しだけ現実的な気持ちが、言葉を濁らせる。
仲良くなったとは言え、他人と、四六時中一緒にいると言うのは…果たして、上手くやっていけるものなのだろうか…。
私の借りているアパートは1DKで、広くはない。そんな間取りで大人が二人なんて、プライベート空間は皆無になるだろうことは、容易に想像できる。
「厚かましいってわかってるんだけど…。後輩ちゃんとずっと一緒に居れたら……きっと、楽しいだろうなぁって思っちゃって…」
…………どうかな?と、ダメ押しの上目遣い。
そんなことを、……言われたら。
「いいに決まってるじゃないですか!」
いいに決まってるじゃないですかッ…………!!!
と言うことで。
あれよあれよと、その週の土曜日に先輩は私の住むアパートへ越して来た。
業者を頼まなくてもいいくらい少ない荷物には驚いた。
確かに、家電は既に揃っていたし、家具も必要ない。服や小物、化粧品や本…そんなものだけでいいと言われれば、そうだけど。
いつもの通勤用バッグ。リュック。紙袋。スーツケースは一つだけ。で、先輩はやって来た。
「いらっしゃいませ」
「へへへ、お邪魔しまーす」
先輩が来るとあって、私は今週、大掃除をした。
スリッパは一組新調して、玄関のマットの上に並べておいた。勧めると、「ありがとう」と先輩ははにかんで、そのスリッパを履く。
「綺麗にしてるね」
「大掃除しましたから」
「ふふ、ありがとう」
玄関から直ぐにキッチンスペース、それから、ダイニング。
玄関に立てば、部屋を一望出来る。
部屋は全体的に長方形で、キッチンスペースはスライドドアで仕切ることが可能だ。どちらも十畳以上はあり、1DKながらも息苦しさを感じないこの間取りに惹かれて、会社へは片道三十分もするが、ここを選んだ。
それでも、ダイニングはベッドにローテーブル、テレビ台とテレビ、本棚、衣装ケースで既に一杯だった。
衣装ケースは新調したものだ。
そうして何とか中身を空に出来た、ダイニング唯一の収納スペースを先輩に使って貰う為に。
「今日からお世話になります。改めて、宜しくね」
ペコリと頭を下げながら渡された紙袋には、地元では有名な和菓子屋さんのいちご大福が二つ。
「わぁっ!私、ここのいちご大福、大好きです!」
こちらこそ、宜しくお願いします!と受け取る。
「好きだと思った」
私の顔を見てにこりと笑う先輩が美し過ぎて、どきりとしてしまう。
本当に、今日から…先輩と二人暮らしが始まるんだ…。
急に、ドキドキとしてしまった。
その日の夜は、コンビニでお酒を買って、夜通し話をした。大学生時代以来の女子会のようで、その晩はとても楽しく過ごした。
二人で過ごす日々を重ねる度、先輩の色んな事を知る。
料理が下手。
色々と大雑把。
それから、ドジ。
めんどくさがりで、気分屋。
休日はパジャマ代わりにしている部屋着に素っぴんで一日過ごす。
近所にちょっと出掛ける時も、部屋着のまま。裸足にスリッパ履き。
出勤日はコンタクトだったらしく、家の中では眼鏡が多い。
前髪は自分で切る。でも、不器用な上に適当な性格なので、大体不揃いになる。
第一印象の、クールビューティな先輩は、最早すっかり、何処にも居なかった。
それが、…重ねた日々が、しかし私は、特別に感じて嬉しい。
「先輩、コーヒー飲みます?」
「わーい!ありがとう!後輩ちゃん、好きっ!」
あと、これ。
先輩は、息を吐くように「好き」と言う。
初めて言われた時には驚いた。
どういう意味だろう、とは思わなかった。先輩は、とても気軽に「好き」と言う。
それでも、初めて言われた時、どきっとしてしまった。
『はぁ…。私、後輩ちゃんと居ると落ち着く…。凄く好き。恋かも』
そんな風に、憂いを帯びた溜め息を吐くものだから、私はギョッとして、「えっ!?」と思わず聞き返した。
『驚いた顔も可愛い。好き』
『え、あ、あの、』
『あっ!赤くなってるー!えへへ、可愛いっ!』
可愛いのはどっちだ!と思う、あどけない笑顔。
同じ職場の人間で、一体他に誰が、先輩のこんな顔を知っているのだろう、と思う。
私だけ、と思うと胸が高鳴った。
それは恋とかそう言うものではなく、単なる優越感のようなものだったのだと思う。
「後輩ちゃんの淹れるコーヒー、好き」
湯気の立つマグカップを受け取って、先輩は笑う。
私は隣に座って、はいはい、と適当に対応する。
「変わらないでしょ。誰が淹れても」
「んーん。だって、ドリップでしょ?」
先輩は意外とせっかちで、ドリップする間の時間を待てない。
「…ドリップですけど…」
「ありがとうー!」
マグカップを置いて、ぎゅうっと抱き締められる。
同じシャンプーを使っているはずなのに、どうしてだかいつも、先輩は甘い香りがする。
「はぁ……。後輩ちゃんをハグすると、ホントに落ち着く…」
「はいはい。どうせ、太ってますよ」
「全然!太ってないよ!女性らしい体型で羨ましいよ!胸とか!」
「………変態ですか」
先輩は華奢でスレンダーだ。体に凹凸がない。
一方で私は標準的な体型だとは思っているが、やはり先輩が横に並ぶと太っているように思ってしまう。
「はぁー!やっぱ、女の子の同棲っていいよね」
先輩は名残惜しさも残さず、引っ付けていた体を離し、定位置でまたコーヒーを飲み始める。
「いい香りするし。同じシャンプーや化粧水使えるし、服とかもシェアできるし。何より、気になることが似てるから、『どっちが家事するか問題』とか勃発しないもんね」
「……」
先輩はきっと、元彼との同棲を思い出しながら語る。
「家事は女がするもん!…みたいなの無いから、手が空いてる方が自然とするし。オシャレなカフェとか雑貨屋とかキャッキャ覗けるし」
「……それ、同棲と関係なくないですか?」
黙ってコーヒーを飲むのを止めて突っ込めば、「ふふふ」と先輩はしたり顔で笑う。
「恋愛するならって話に刷り変わっちゃってた。同性の恋愛って、とっても効率的だと思わない?」
「……さあ」
効率を考えて、恋をしたことはない。
「非生産的なのかもしれないけど」
「……」
生産性を考えて恋をしたことも、ない。
「……私は、やっぱ、女の子が好きだなぁ…」
「……」
なんて相槌を打てばいいのかわからなくて、また私は、静かにマグカップに口をつけた。
「……」
「……」
「…………、先輩って、バイなんですか…?」
しかし、沈黙に耐えかねて口を開いてしまう。
「うん。そうだよ。後輩ちゃんはノンケだよね?」
あはは!私、望み薄だ!
そう言って笑った後、そんな会話なんてなかったかのように、毎週録画しているアニメの話になった。
生産管理システムを新しく導入するとかで、デモストレーションが行われることになった。
デモには、各部署の女性事務員とその上長、それから、総務部が参加した。先輩と私が同じ時間帯に会議に入るのは、この日が初めてだった。
会社に居る時、先輩はいつも物静かで、背筋を伸ばし、キリッとしている。
流れる長い髪が、絵になった。
“高嶺の花”というのは、先輩みたいな人のことを言うのだなぁと思った。
でも、私は知っている。
先輩は今、寝てしまいそうなのを我慢して、キリッと前を見据えてスライドを眺めている。
手を上げてする発言も、事前に配られた資料を何回も何回も見直して、数十分は考えて、何とか用意しておいた質問だ。
先輩は、見た目程、しっかりしていない。
否、ただのポンコツである。
それを、気取られないように、努力している。
先輩は、見た目よりもずっと脆くて、弱い。
本当は、甘え下手なだけで、きっかけさえあれば全力で甘えてくる。
………無理してるなぁ。
次々と質問を繰り出す先輩を横目に、議事録の為のメモを取る。
帰ったらこれは、反動が凄そうだ。
予想通り、帰宅してきた先輩は真っ直ぐに、キッチンに立つ私に向かって、抱き付いてきた。
「今日の会議疲れたー!三時間もやったー!沢山質問したー!疲れたーっ!」
「はいはい。お疲れ様でした」
「私、なんか変なこと言ってなかった?空回ってなかった?」
「大丈夫でしたよ」
二回程、舟漕いでましたけど、とは心の中で言うに留めておいた。
「はぁあああ。後輩ちゃんの香りを吸引して癒されよー」
「変態に拍車がかかってますよ」
「くうぅう。クールな後輩ちゃん、痺れる!好き!」
「はいはい」
この人はどこまで本気なのだろうか。
先輩を引っ付けたまま、私は台所をあちこち移動して料理をする手を止めない。
「今日のご飯なにー?」
「ご飯と豚汁と、アジフライ」
「やったー!私の好きなものばっか!」
ぎゅううっと抱き締める力が強くなったかと思うと、ぱっとその熱が離れる。
「手、洗ってくるー」
「…はいはい」
一緒に「いただきます」をして、テレビを観ながら話して、「ご馳走さま」をして、料理を作らなかった方が洗い物をする。今日は先輩だ。
その間に、お風呂掃除をしてお湯を張る。
「今日は一緒にお風呂するー?」
「ばっか…!先輩の、馬ッ鹿…!」
嘘じゃーん!なんておどけた声がする。
全く本当に、この人は…。
会社でのあれは、ひょっとして本当は別人なんではないか?と思う程、家ではおちゃらけていたりする。
交代でお風呂に入って、髪を乾かしても、まだ寝るには早い時間だ。
そんな時は一緒に晩酌を楽しんだり、それぞれが黙々と本を読んだり物を書いたりする。
…偶然にも、私と先輩の共通趣味はいくつもあった。
その中の一つが、“小説を書くこと”だ。
二人で同じ部屋に居ながら会話の無いことは、寧ろ、心地がいい。
プライベート空間がなくてストレスが溜まらないか?と思ったことは、杞憂だった。
私達は、上手な距離感で、互いを上手く尊重し、時間を上手く共有できていた。
スマホを打つ音は、先輩から。
キーボードを打つ音は、私。
それは、とても耳に心地のいい音だった。
時々、“世界が始まった日”の曲を書けることがあったが、基本的には無音の方がお互いに集中できた。
「今さぁ、百合書いてるの」
「…へぇ」
「めっちゃ、ラブラブなやつ。私の理想」
「…ふーん」
先輩はその性格のまま、プロットを書かない。
頭に構図があり、思い付くままに書くタイプらしい。
一方で私は、綿密にプロットを書く。話に必要な資料を集め、登場人物の性格や生い立ちを突き詰め、やっと、物語を書き進められる。
どちらがいいとはわからないが、私と先輩は、好きなものさえ似ているものの、まるで違うのだと思い知らされることが多い。
「モデル、後輩ちゃんなんだけど。読む?」
「……止めときます」
なんだかとんでもない爆弾が落ちていそうで、一旦断っておいた。
そっか、と思いの外しゅんと肩を落としてしまい、ちょっと冷た過ぎたかなと後悔していたところで、先輩のスマホが震えた。長いバイブ。着信だ。
「あ、ごめん。友達。出ていい?」
「勿論」
通話ボタンを押し、ベランダへ出ていく。
気にせず部屋で話しても良かったのに。礼儀なのか、それとも、電話での会話を聞かれるのが恥ずかしいのか。
私はどちらかと言えば後者なので、あまり気にしないことにして、再びパソコン画面に向かい合う。
「もう!私も好きだよ!ほんと好き!また会いたいねっ」
けれど、ベランダから聞こえたその会話に、私の指はピタリと動きを止めた。
「……」
先輩は、本当に。
意図も簡単に、「好き」と言う…。
「………『好き』の安売り、し過ぎ…」
ポツリと溢した声は、自分の鼓膜にしか届かない。
私だけじゃなかったことは、薄々、わかっていた。
先輩は、難解なようで、実はわりと直ぐに、心を開く。
そうしたらもう、早いのだ。
気さくに話しかけてくれるようになって、SNSでも連絡を取るようになって、「好き」だと恥ずかしげもなく言い放つ。
私だけではないのだ。
私は別に、『特別』ではないのだ。
「………」
わからない。
先輩の本心が。
わからない。
先輩の言う「好き」って、なんなのか…。
不安定なくせに、でも、しっくりとくるその何でもない日常は、相も変わらず続いて、遂には冬が来た。
寒い寒いと、先輩が引っ付いてくる頻度が格段に増えた。
「そういえば、髪を切ろうと思うんだけど。どう?」
休日。
一緒にカフェに出掛けた。
街中の朝十時のカフェは、他にも女友達やお母様方で賑わっていて、意外にもガヤガヤとしていた。
「いきなりですね」
そう!と先輩は髪の毛先を弄りながら続ける。
「ずっとロングだったんだけど、最近、短いのいいなぁって思うようになってさぁ」
「……」
想像してみた。
短い髪の、先輩。
いいんじゃないだろうか。
「…いいんじゃないですか?」
そのままに伝えれば、「本当?」とパァッと明るい顔をしてこちらを向く。
「後輩ちゃんは、長い方が好きなのかと思ってた!」
「別に…。先輩なら、似合うんじゃないですか?」
「えっへへー!安心した!ありがとう!」
ほらもう私、三十になるじゃない?と言いながら、頼んだパンケーキをフォークで切る。先輩は、パンケーキをナイフで切ることもめんどくさがる。
三十かぁ…。
そう思って先輩を見ても、どう見ても二十代半ばの顔立ちだった。全然、見えない。
想像よりずっと年上だと知った時、なかなか、信じることが出来なかった。
これで、愛用の化粧水はドラッグストアの最安値のやつだと言うのだから、なかなか天然性の嫌味である。
何でもないようなことを話して…それでも、大体仕事の話になってしまうけれど、そろそろお店を出ようか、と言う前に、先輩がトイレに立つ。
「…さっきの子、めっちゃ可愛かったね…!」
近くの席で、そんな声が聞こえた。
それは、私の心を暗くする。
先輩は、美人で可愛い。
社内でも、男性の先輩方が「社内で一番可愛い子は誰か?」なんてゲスい話をしているのを聞いたことがある。
その場に居た五人の男性社員の中、三人が先輩の名前を挙げた。
三十か……。
先程とは違う想いで、先輩の年齢のことを思う。
それは、普通なら、…恋人が居たならば、そろそろプロポーズをされる時期ではないのだろうか。
心がざわざわとし始めて、落ち着かない。
「お待たせー!いやぁ、外は冷えるから、トイレ、不安になっちゃうよね。後輩ちゃんは?行かなくて平気?」
私の心の内などまるで知らない先輩は、ちょっとアホ面で帰ってきた。…呑気なものだ。
「平気です」
ちょっと仏頂面になってしまった気がする。先輩は少し不思議そうに首を傾げたが、何も聞いては来なかった。
ぷらぷらと、宛てもなく歩く。
雑貨が見たい、と先輩が言えば、近くの雑貨屋に立ち寄り、小腹がすけばパン屋に入った。
先輩は人目を気にせず手を繋いだりする。
私も特に、嫌がって離すことはしない。
「クリスマスさぁ、何か欲しいもの、ある?」
「あー…、もう、そんな時期ですねー…」
風が寒くて、繋いだ手の熱が温かくて。
私は無意識に、その手に少しだけ力を込めた。
「んー………、特に無いです。何でもいいですかねぇ~…。先輩は?」
「えー、後輩ちゃんからの愛かなぁ~」
「はいはーい」
初めて会った時。
まさか、先輩とこんな会話をするようになるなんて想像すらしていなかった。…それはまあ、当然かもしれない。
「………ねぇ、先輩」
「ん?何?」
また、繋いだ手につい、力を込めてしまう。
すると先輩も、同じだけ、強い力で握り返してきた。
「………私のこと、好きなんですか?」
「えっ?何?急に。好きだよ?そう言ってるじゃん」
「……」
全然分からない。
先輩の『好き』は、軽い。
はぁっと吐く溜め息は、まだ白く染まらない。これから、もっと寒くなると言うことだ。
何と無く、もしも先輩がアパートを出ていってしまったなら…、と想像して、身震いした。
それは、きっと、物凄く…………寒い。
先輩はひょっとして、『本当に』人を愛したことが無いのではないだろうか?と思った。
この人は、私のことを好きだ好きだと言うくせに、ふと、「他に好きな人が出来たから」と出ていってしまいそうなイメージがある。
分かりやすいのに、解らない。
…………どうしたら、繋ぎ止められるんだろう…。
そんな風に考えている自分に、自分で驚いた。
吐く息が白くなったのは、丁度、クリスマスの日。
勿論、仕事だ。
クリスマス休暇なんてものがあればいいのになぁ、なんて思った。
通勤の時に目にする、庭に飾られたイルミネーションなんかにワクワクする。スーパーに置かれているクリスマスケーキのカタログには、つい手が伸びてしまう。
その日は、お互いに残業せずに帰ろう!と話していたけれど、先輩はなかなか帰って来なかった。
仕方がないので先に、チキンを温めたり、サラダを準備していたけれど、すっかり「後は食べるだけ!」の状態になっても、先輩は帰ってこない。
時計を見ると、定時を一時間半も越えている。お腹はすっかりペコペコだったが、言い知れぬ不安の方が大きくて、遂に電話をかける。
けれど、長く続いたコールは「お呼びだししましたが、お出になりません」と言うアナウンスの後に切れてしまう。
それがまた、不安を増長させた。
閉めていたカーテンを開ける。
真っ暗だ。
日が落ちるのが早いから、もうずっと前から、真っ暗だった。
時々通る車のライトも、向こうに見える住宅の灯りも、自分には関係の無い光だと思うと、より一層、孤独が増す。
「…………」
なんて、ことを。
なんてことを、してくれたのかと思った。
あの、見掛け倒しの先輩は。
家賃は確かに折半してくれた。
家事は確かに二人でした。
メリットは、確かにあった。
でも、けれど、果たして。
私に、こんな感情を芽生えさせた…この、未来に辿り着いてしまったことは、それを遥かに凌ぐ『デメリット』ではないのだろうか……。
「………なんで、電話に出ないの……」
目頭が熱くなる。
ああ、泣きそう。
告白なんてしていないのに、フラれたような惨めさがある。
だって、あの人の『好き』は、まるで霧だ。
吐く、息の白さよりも、頼り無い。
涙をついぞ溢してしまう前に、玄関が開く音がした。
びくりと、振り返ると、先輩が真っ赤なバラの花束を抱えて立っていた。バラの花で、殆どその顔は見えない。
「…………………は?」
「はぁ、ごめん、遅くなったね。ただいま!」
はぁはぁと息を切らし、ボサボサ頭のまま、ダイニングまで進んでくる。
「ちょ、なん…、なんですか、それ」
「え?バラ」
いや、花の種類を聞いてるんじゃなくて!
「予約してたんだけどねー。いやぁ、クリスマス侮ってたわ。道、混みまくり…!参ったよ。遅くなっちゃって、ほんとごめんね」
「………いえ、」
はいこれ!そんな気軽な感じに、そのバラの花束は私に渡される。
「重ッ……!」
「ねー!数えてみる?百一本あるよ。お店の人が数え間違えてなかったら!」
「…百一本…?」
プロポーズは確か、百八本のバラを贈るとは聞くけれど…。
「いまいち、伝わってなかったみたいだったから。言葉を変えてみようかと思って」
「……」
「えーとね、うんと、」
珍しく、先輩は少し照れ臭そうに笑った。
「“これ以上無いほど、愛しています”」
はにかんで笑う先輩に、ズルい!と思った。
そんなこと、されたら…、惚れない女なんているだろうか…。
「…………馬っ鹿…。先輩、ほんと、頭弱い………」
「えっ!?何それ!ひっど………!」
殆ど泣きながら私が言うと、まだ私の涙に気が付いていない先輩は露骨に傷付いた顔をした。
「…………あれ?なんで泣いてるの…?」
そこでやっと気が付いて、目を丸めた後、あたふたと慌て出す。
「………先輩の、帰りが遅いから………」
「え?あ、ご、ごめんね…!料理、冷めちゃったよね……!」
「違くて、」
気が付いちゃったじゃないですかぁ、と、遂に涙は溢れて止まらない。
「私も、先輩が好きです。ずっと、傍に居て下さい」
「えっ…!」
驚いた顔をした後、先輩はふにゃあと泣きそうな顔をする。
「何、キザなことしてるんですか。そんなことより、早く帰ってきて下さいよぉ……!」
「あ、え、あ、ご、ごめん」
「いやもう、嬉しいですけど!どうしてくれるんですか!今、感情がめちゃくちゃなんですけど…ッ!」
「ご、ごめん…!」
先輩は思い出したように、肩にかかったままだったバッグを床に置いて、バラの花束ごと私を抱き締めた。
「…やっと、後輩ちゃんの口から『好き』って聞けて…嬉しい……」
「………不覚…」
おいおい、と笑って、バラの花束をごっそりと抱き取られる。
「ちょっと、これ、置いとくね」
百一本のバラの花束が床に横たわる光景はなかなかアンバランスで、シュールで、違和感が面白いなと思った。
どうしたんですか?と首を傾げれば、真っ赤に赤面した顔が、上目遣いにこちらを窺う。
「あの、さ。その…、キスを、させてもらっても、いい?」
「……」
返す言葉に少しだけ思案してから、笑った。
「すっかりそのつもりで花束を避けたくせに!」
「えへへへー。すまん。キスするぞ!」
いつもの冗談めいたヘンテコな口調で、先輩は触れるだけの優しいキスをした。
ー終ー
先輩は大体見かけ倒しだと言うことを、私だけが知っている。 将平(或いは、夢羽) @mai_megumi
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