後編

 摩周駅の近くにある小さな民宿で、他にすることもなく、早めに布団に入って寝転がった。三角屋根の斜めの天井を見つめながら、ぼんやりとする。今日見た風景はどれも——涼しい空気も、白樺の森も、斜面に生えるダケカンバも、笹の匂いも、どこか懐かしかった。なのに明日東京へ戻ってまた仕事が始まることを考えると、気が重い。

 帰る前にもう一度摩周湖へ行って、今度こそ晴れた姿を見られるだろうか。あのお婆さんに何か励ましの言葉もかけてあげたいし。


 俺のばあちゃんは父方も母方も、俺が赤ん坊の頃に死んでる。だけどなぜか、子供の頃のばあちゃんの記憶がある。おぶったり手を引いたりしてくれた記憶。

 おぼろげな記憶の中にいる父ちゃんは、忙しい人だったけど、強くて頼られていて、いつも大人が父ちゃんのところに集まっていた。ばあちゃんは、忙しかった父ちゃんに代わって俺のことを溺愛していた。

 だけど実際の父ちゃんはしがないサラリーマンで、おぼろげな記憶にいる強い父ちゃんとは程遠い。それに、赤ん坊の頃に死んだばあちゃんの記憶があるはずもない。あれは夢の記憶なんだろうか。



 次の日の朝も晴れていた。宿を出て、ソフトクリームを食べた。ミルクが濃厚で美味い。

 バスでまた昨日と同じように摩周湖にやって来た。少し期待したが、予想した通り霧。霧の中から魔周岳の先端だけが突き出ている。

 せめてもう一度あのお婆さんに挨拶しようと、売店を探した。しかしあのお婆さんの姿はなく、代わりに中年の女の人がいるだけだった。


「すみません、昨日いたお婆さんいますか? 今日は休みですか?」

 カウンターの女性に尋ねる。俺の質問の意味が理解されなかったようで、女性はキョトンと首を傾げた。

「お婆さんてなんのことです?」

「ここで働いるお婆さんですよ」

「売店にもカフェテリアにもお婆さんなんていないはずですけどねえ。うーん、みんなお婆さんてほどの歳じゃないし。お客さんでないの?」

「でも昨日、奥から出てくるの見たんですよ。ハチマキみたいなのした人」


 それでも店員は心当たりがないといった様子で、会話は噛み合わずだった。あの人は俺が勝手に店員だと勘違いしていただけで、ただの客だったとか? そんなバカな。

 そうだ、駐車場にいたヌプというおじさんなら。お婆さんのことを知っている雰囲気だった。

 外へ出ておじさんの姿を探す。すぐに見つかった。背が高くて、周囲にいる大人の職員達と並んでも一回り大きいから目立つ。駐車場の入り口で交通整理をしているので、話しかけるわけには行かない。

 頃合いを見計らい、休憩に入るタイミングで話しかけに行く。


「お婆さんがどうしたって?」

「昨日急に帰っちゃったから心配で。今日も会えると思ったのにいないから」

「心配するなんて、優しいね」

「俺、今日の夜には東京に帰らなきゃいけないんです。孫を探してるって聞いて、なんか励ましたかったけど……」

「そうだね。あの婆さんなら毎日ここにいるよ。孫が見つからないことには、心も晴れないだろうねえ」


 それを聞くと心が沈んで、俺は項垂れた。

 おじさんは髭を触りながら、穏やかな目で霧のかかった湖面を見つめた。


「あんた、どうして摩周湖にはいつも霧がかかってるか知ってるかい?」

「え……えっと、暖かい空気が流れ込んで湖の上で冷やされるから、ですよね?」


 おじさんは首を横に振った。


「あれは何百年前のことだろう。昔この辺りにはいくつかのコタンがあった。あるときコタンの間でいさかいが起きて、とうとうある夜、一つの村が他の集落に襲われた。そのコタンの村長コタンコロクルは、勝ち目がないことを悟った。そこで彼は女子供を逃がして、勇敢にもコタンに残って戦った。コタンコロクルには息子がいた。まだ小さい息子を、自分の母親、つまり子供のおばあさんに託したんだ。——おばあさんは孫を連れて逃げた。あっちの山からこの山の方へね」


 おじさんは遠くの山から魔周岳の方へ指を動かした。他の観光客の喧騒を背景にしても、おじさんの落ち着いた太い声が風に乗って耳によく響いた。


「だけど逃げる途中でどういうわけか、孫はおばさんの手を振り払って、違う方向へ駆け出してしまった。おばあさんは孫を追いかけたけど、追いつけなかった。孫を探してずいぶん歩き回ったんだけど、探しても探してもどこにも見当たらなかった。疲れてとうとう動けなくなってしまって、おばあさんは泣き続けた。泣いて泣いて、孫を待ち続けて、いつしか湖に浮かぶ岩になった。——この霧は、おばあさんの涙なんだ」


 物語は心にずっしりと重く、言葉が出なかった。ただの言い伝えなんだろうけど、昨日の婆さんのことと重なったせいか。

 孫を探して、動けなくなるほどに探して、岩になってしまうほど泣き暮れて——。心が締め付けられるようだ。


「孫は、そのまま見つからずじまいだったんですね。どうなってしまったんでしょうか」

「それは私にも分からない……チクペニがどこへ行ってしまったのか。私も心配だったけど、どうすることもできなかった」


 おじさんは切なそうに眉を八の字にした。


 それから俺は座って、霧がかかったままの湖を見つめ続けた。緑の森、赤い岩肌を見せる魔周岳、そこへ続いていく尾根、どれも懐かしい。記憶が繋がった。ただこの霧以外は。

 太陽が真上に登り、やがて傾き始めた。あの婆さんは現れることはなかった。


「夜の羽田行きに乗るんなら、もう市内行きのバスに乗らないと。摩周駅からJRで一時間半、バスに乗り換えて一時間。JRは二、三時間ごとにしか来ないよ」


 ヌプのおじさんが声をかけてきた。


「はい……。いや、でもやっぱり俺、どうしてもあの婆さんに会いたいんです」


 悩んだ末、戸惑いながら声を紡ぎ出す。知らない人にこんなことを言っても、変に思われるだろうが。


「湖に行けば会える気がして……」


 おじさんはやや驚いた顔をしたが、追求することなく、しばらく黙ったあと頷いた。


「このまま散策路を尾根に沿って進むと、私へ登る道の手前で左に小さな獣道がある。そこから下へ降りると、水質調査で使う小さいボートがある。それに乗っていくといい。保護区だから散策路から外れるのは本当は禁止なんだけどね。内緒だよ」

 おじさんは口元に指を当ててウインクした。

「ありがとう」


 意を決した俺は、散策路へ歩みを進めた。後ろから微かにおじさんの声が、人間アイヌの若者よ、年寄りを大事にな——とささやいた気がした。



 霧のかかった湖面を左側に臨みながら、昨日よりも奥へと進む。山へ登る道の手前——よく見なければ気付かないような獣道が確かにあった。日が落ちる前にここまで来られてよかった。

 本州のそれよりも大きな葉をした熊笹を掻き分けながら、道なき道を進み、ようやく崖の上へ辿り着いた。魔周岳カムイヌプリの赤い岩肌が、展望台から見たときとはまるで違う迫力で、間近に迫る。


 下を覗くと、おじさんの言った通り小さなボートが見えた。ダケカンバを足掛かりにしながらその湖岸へ降りたときには、夕暮れの闇が辺りを包もうとしていた。 

 慣れない運動で棒切れのようになった足を休め、額の汗を拭う。

 そして波の一切ない静かな湖面へとボートを漕ぎ出した。オールを一漕ぎする毎に水音が響く。他には一切の音もない。沖へ出るほど霧は深く、冷んやりと腕や頬にまとわりつく。

 水面は群青色。最大水深は二百メートルあるそうだ。オールを入れればこの水の透明さが分かるが、奥へ行くほど青さを増していく水の底は果てしない。


「ばあちゃーん」


 そう呼んでみる。俺の声は霧に吸い込まれて消え入った。

 ——ばあちゃんのこと、なんて呼んでたっけ。


 やがて日も落ちた。気付けば目の前に、カムイシュがあった。湖岸からは小粒のように見えたが、近付くと想像を遥かに超えた大きさだ。島の周囲は、削り取ったような断崖がそびえる。その岩は、うずくまる老婆の姿にも似ていた。


「フチイ。俺さ、不思議な記憶があって」


 浮かぶボートの上で、一人話しかける。


「俺の父ちゃんは偉かった。村長コタンクロクルで、狩りも上手くて、すげーデカい熊も狩ってたっけ。いつも周りに人が集まってた。でもフチイがいたから寂しくなかったし、そんな父ちゃんに憧れてた。ある日隣のコタンの連中が襲ってきて、フチイは俺を連れてコタンを出たよね。俺の手を引いてくれてた。あのカムイヌプリが見えるところまで来たのは覚えてる。……けど、なんでか急にフチイと逆方向に走り出したくなって」


 気付けば、婆さんが同じボートの上に座っていた。


「俺、分かってたんだ。父ちゃんがコタンを守って死ぬんだって。そう思ったらいても立ってもいられなくて、抑えられなくなって、コタンに戻っちまった。戻ったらチセが燃えてて、襲ってきた奴らと遭遇して……その先はあんま覚えてないけど、そっからの記憶がないってことは……」


「チクペニ……なの?」


 婆さんは信じられないといった様子で、目を瞬きした。


「あの記憶は子供の時のだと思ってた。でも違った。もっと前の記憶だったんだ。ずっとずっと前の——。ごめんフチイ、こんなに長い間待っててくれたの知らなくて。そんな悲しい思いさせてたなんて」

「おお……!」


 俺はボートの上でフチイと抱き合った。フチイはおいおいと泣いていた。


「やっと戻ってきてくれたんだね……。お前を探して動けなくなって、すっかり絶望したとき、目の前にあったカムイヌプリに泣きついたのさ。わたしの孫はどこへ行っちまったのって。カムイヌプリも困り果てて、だけどわたしを哀れんで、わたしがずっと孫を待っていられるようにって、岩に変えてくれたんだわ」


「そうだったんだね。遅くなってごめん。もういなくなったりしないからさ、ずっと俺の手引っ張ってくれよ」


 俺が固くフチイの手を握ると、フチイは泣き止んだ。目元に涙の残る顔で、優しい笑顔を浮かべて微笑んだ。




「綺麗ー! 晴れてよかったね」

「霧が多いとは聞いてたけど、運が良かったのかな」


 次の日、霧のない青空の下にコバルトブルーの湖が、対岸の山までくっきりと見渡せた。駐車場の落ち葉をホウキで履きながらカムイヌプリは、喜ぶ観光客達を微笑ましく眺める。可哀想なあの人間アイヌの老婆にも、ようやく悲しみの終わりが訪れたようだ。


 空の青を映した鏡のような湖面には、誰も乗っていないボートだけが浮かんでいた。




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