第11話 エーテル薬
春の穏やかさが落ち着いて、梅雨の湿り気が空を曇らせ始めたある日の事。
またしても冒険者のロッド=イーサリアムは、ゴロツキ亭の指定席で、強い酒をちびちびやりながら、憂鬱な気持ちを慰めていた。
愛猫のノラを失った事には踏ん切りがついていたが、代償に、ロッドはすっかり幸せウシガエルのミルク入り葉巻にはまってしまっていた。
目覚めに一本、昼に一本、夕に一本、寝る前に一本と、事あるごとに吸っている。
そうしなければ落ち着かないし、やる気が出ない。
しばらくはそれでよかったが、手持ちのミルクを使い果たし、繁殖期も終わってしまうと、カエルのミルクを集めるのは困難になり、店からもミルク入りの葉巻が姿を消した。
もちろん、いずれはそうなると分かっていたロッドである。
名残惜しいが、その時がくれば自然と受け入れ、以前のような自分に戻ると思っていた。
ところがどうだ。
ミルク入りの葉巻を吸えなくなると、ロッドは以前よりも憂鬱になった。
理由などない。ただ、とにかく憂鬱なのだ。
そして気怠い。
なにをするにも億劫で、やる気というものがまるで起きない。
そういう訳で、店の端っこで腐っていた。
前回と違うのは、同じテーブルにもう一人、腐っている男がいる事だ。
冒険者仲間であり、一緒にカエルのミルクを採りに行った手斧使いのモガールである。
彼もまた、カエルのミルクに魅入られ、その代償を支払う事になった一人であった。
「……はぁ」
「……だりぃな」
ロッドが溜息をつけば、モガールが億劫そうにボヤく。
そうして、味のしない酒を口に運び、ぼーっとして、思い出したように呻く。
それだけの日々が続いていた。
「あんた達、いつまでそうしてるつもりよ」
そんな二人に声をかけたのは、女魔術士のイゾルテだった。
「んなこと言ってもよ、だりぃもんはだりぃんだよ……」
モガールの言葉に、ロッドも無言で頷く。
「働きなさいよ。ここでゾンビの真似をしてるよりは気が紛れるでしょ」
「そんな事は俺達だってわかってんだ。けど、そうする気力も湧いてこねぇ。まさに骨抜きって奴だ」
「イゾルテ、君の魔術でどうにかならないか」
ロッドが尋ねた。魔術には、傷を癒したり、毒や呪いを解くものもある。
であるならば、この理由なき憂鬱を癒す術もあるかもしれない。
「やめとけよロッド。こいつの魔術はぶっ壊し専門だ。そんな器用な術、使えやしないぜ」
モガールが茶化すと、イゾルテの身体から魔力が迸り、赤毛の三つ編みがふわりと浮いた。
「なにそれ、喧嘩売ってるわけ?」
「本当の事だろ」
臆せず、モガールは向けられた青い瞳を見返した。
「だからムカつくのよ!」
「いってぇ!?」
脛を杖で殴られ、モガールが飛び上がる。
「なにしやがんだ! 暴力女!」
「お前が悪い」
億劫そうにロッドが呟く。
「まったくもう!」
腕組みをすると、改めてイゾルテは言った。
「魔術じゃないけど、あんたらをシャキッとさせる方法なら知ってるわよ」
視線を外し、どことなく気恥ずかしそうな様子で言う。
恐らく、最初からそれを言う為に声をかけたのだろう。
モガールがそうであったように、この女魔術士も素直ではいられない性分なのだ。
まぁ、冒険者というのは大抵そんなものだが。
「例のミルクを手に入れる方法を知ってんのか?」
興味を持ってモガールが尋ねる。
「だったらあたしが吸ってるわ」
皮肉るようにイゾルテは言った。カエルのミルクが流行っていた頃、彼女は魔術書の解読の依頼で遠くの街に行っていた。ゴロツキ亭の常連の中で、一人カエルミルクの葉巻を味わい損ねた彼女は、その事を悔しがっていた。
「エーテル薬よ」
「……なんだよ」
イゾルテの言葉に、モガールはがっかりして肩を落とした。
内心では、ロッドも同じ気持ちである。
エーテル薬は魔力の補給を目的とした栄養剤のような物だ。中身は作り手によって異なるが、魔力を豊富に含んだ薬水である点は同じである。大量の魔力を術として放つ魔術士は勿論、ロッドの魔刃剣術やモガールの操斧術といった技も、広義では魔術であり、魔力を消費する為、魔術士程ではないが、飲む機会はある。冒険者なら、誰でも一本くらいは荷物に忍ばせている、そういった代物である。
「なんだよってなによ」
ムッとして、イゾルテがモガールを睨む。
「俺だって冒険者だ。エーテル薬くらい飲んだ事ある。あんなもんで元気がでるかよ」
ロッドも頷く。魔力の補給は出来るが、それ以外の効果を感じた事はない。まぁ、味の悪さに一瞬目が覚める事はあるかもしれないが。
「一本ならね」
そんな二人に、イゾルテは悪戯っぽく片目を瞑る。
「どういう事だ」ロッドが尋ねた。
「魔術士の間では有名な話よ。エーテル薬を沢山飲むと、ハイになるの。頭も冴えて、普段より難しい術も使えるようになる。その状態で修業をすると、普通にやるよりずっと効率がいいってわけ」
「なるほど、そいつで俺達の腑抜け病も治るってわけか」
「多分ね」
「多分かよ」
「ちょっと待て」
聞き咎めて、ロッドが遮る。
「試した事はないのか」
魔術に関しては好奇心旺盛なイゾルテだ。そんな方法があるのなら、実践しているはずである。
「なくはないけど……」
イゾルテが視線をそらす。
「歯切れが悪いな」
ロッドが言うと、イゾルテは白状した。
「噂だと、これを試した魔術士がとんでもない大魔術を使おうとして、制御出来ずに爆死したらしいのよね」
「物騒な話だな」
「てか噂かよ!」
「まるっきり嘘ってわけじゃないわよ! 一応、あたしも試した事あるし……」
ムキになって言うが、疚しさがあるのだろう、後ろめたさが透けている。
「一応というのは」
当然ロッドは追及した。
「効き目はあったのよ。うまく言えないんだけど、何本か飲むうちに、身体の奥から力が漲ってくる感じがして、頭もスーッとして……」
「それからどうしたんだよ」モガールが尋ねる。
「……怖くなっちゃって、そこでやめたの」
「なんだよ、だらしねぇ」
「うっさいわねぇ! 腑抜けのあんたに言われたくないわよ!」
イゾルテに杖で打たれ、モガールが悲鳴をあげる。
そうなる事は分かっていただろうに。
突っ込む気にもなれず、ロッドは流した。
「まぁ、効果はあったという事だな」
「うん。飲みすぎなきゃ、噂みたいな事にはならないと思う。ていうか、その噂も本当かわかんないしね。大丈夫なんじゃない?」
「万一の場合でも、私達は魔術士というわけではないからな。そう酷い事にはならないだろう」
毎日店で腐っているのにもいい加減飽き飽きしていた。
この虚無感を伴なった憂鬱から抜け出せるなら、なんだっていいという気持ちもある。
「面白そうだ。試してみようぜ」
脳天気にモガールが言う。
勿論ロッドもそのつもりだ。
そういうわけで、三人は馴染みの魔薬屋にやってきた。
「またお前らかい。前にも言ったが、ミルク入りの葉巻は来年まで入って来ないよ」
ロッド達の顔を見つけた途端、女店主のアルコ=カインが顔をしかめた。
いつも口に細い葉巻を咥えた、三十代の半ばくらいに見える白髪の女錬薬士である。
この街に長く居付いた冒険者の話では、何十年も前から今の姿のまま老けていないという。
新参者をからかうその手の噂はどこにでもあるが、アルコに関しては、もしかしたらという雰囲気があった。
「なんだいイゾルテ。あんたまで葉巻を買いに来たのかい」
呆れるようにアルコが言う。
「違うわよ。例の葉巻のせいでこいつらが腑抜けになっちゃったから、エーテル薬で気合を入れてやろうと思って」
魔術士はなにかと魔薬屋を頼る事が多い。同性という事もあり、ロッド達よりはイゾルテの方がアルコと仲がよかった。
なんとなく、イゾルテの態度に釈然としない物を感じつつも、これから二人の世話になるので、二人の男冒険者は大人しく口を告ぐんだ。
「あぁ、禁断症状だね。だから言ったんだよ! 酒薬はほどほどにしときなって!」
こちらを睨んでアルコが言う。
酒薬と言うのは、ミルク入りの葉巻のような作用を持つ薬を指す、錬薬士達の言葉だった。酒のように酔う薬という事なのだろう。
酒と同じでやりすぎると毒になると言われていたが、酒には強い二人である。そんな物を恐れて冒険者がやってられるかとまるで気にしなかった。その結果がこれなので、返す言葉もない。ただ、叱られた子供のように視線を下げて肩を揺するだけだ。
「ふん、酒薬の禁断症状にエーテル薬ねぇ」
不服そうにアルコが鼻を鳴らす。いつだって、怒ったように見えるのが彼女だった。
「だめかな?」
こちらも、母親を前にした娘のような態度でイゾルテが尋ねる。
「二日酔いを向かい酒で治すようなもんさね! イーヒッヒッヒッヒ!」
高笑いをするアルコを見て、ロッドとモガールは顔を見合わせた。
そんな彼女は、見た事がない。
「冒険者ってのはそうじゃないとねぇ。馬鹿で考えなしの向こう見ずだから面白いのさ! うちのエーテル薬は上物だよ! 魔力過多を起こすのなんてわけないさ! イーッヒッヒッヒ!」
不気味な高笑いを上げると、アルコは店の裏手に消え、どっさりと小瓶の入った木箱を抱えて戻ってくる。
「あんた達ならこんなもんだろ」
「多すぎないか?」
不審がってモガールが言う。
ざっと数えて、二十本近くある。ロッドの経験では、普通は一日に一本、多い時でも二本以上は飲んだ事がない。大抵の冒険者はそんなものだろう。
「馬鹿言うんじゃないよ。こっちはあんたらが寝小便を垂れてた頃から薬屋をやってるんだ。イゾルテが七本、モガールが五本、ロッドが八本。これできっちり限界量さね」
「限界量?」
物騒な予感に、ロッドが尋ねる。
「限界量は限界量だよ。それ以上飲んだら、急性魔力中毒でおっちぬ量さ」
「はぁ!? おいババァ! てめぇ正気かよ!? ――おぼっ!?」
アルコの手首を飾る太い腕輪が宙を舞い、モガールの腹に体当たりを決めると、持ち主の手首に戻っていく。
「口の利き方には気を付けるんだね、洟垂れ! さもないと、薬の中に鼻くそを混ぜるよ!」
「おぇぇぇぇ……」
想像したのか、モガールが吐く真似をする。
「待ってくれ。私達は別に、限界に挑戦したいわけじゃない。エーテル薬を使って、少し元気になれればそれでいいんだ」
「あたしは必要ないしね」
便乗して、イゾルテが言う。
「はっ! あんたらも冒険者だろ! 情けない事を言ってるんじゃないよ。どうせ馬鹿をやるなら、パーッとやりな! カエルのミルクには及ばないが、これはこれで、中々面白い体験が出来るんだから!」
ニヤリとして、アルコが言う。老齢の雰囲気に反して異様に整った容姿は、人に化けた悪魔のような不気味さを与える。
「イゾルテも、あんたが言い出しっぺなんだろ? なら、一緒に馬鹿をやるのが道理ってもんじゃないかい」
「う。それはそうだけど……」
「噂の事なら心配はいらないよ。どこぞの三流ならともかく、あんたは腕の良い魔術士だ。しっかりと正気を保てば、自爆なんてマヌケな事にはなりゃしないさ」
「それって、正気を保てなかったら自爆するって事よね……」
「はっ! その程度の実力なら、どのみち長生きなんか出来やしないよ。今死んだって大差ないさね」
「アルコさん!?」
「情けない声を出すんじゃないよ。例の噂は本当さ。急性魔力中毒すれすれの臨海状態になれば、限界の向こう側が覗ける。そんな無茶が出来るのは若い内だけだよ。これも何かの縁だ。一生に一度くらい試してみるのが粋な冒険者の在り方だとあたしゃ思うがね」
三人の冒険者はお互いの顔を見合った。
この手の薬に関してはまるで素人の三人である。
限界量だの、急性魔力中毒だのと難しそうな言葉を並べられて、恐れを抱かないはずもない。
一方で、アルコには痛い所を突かれていた。
結局の所、冒険者とは好奇心に抗えない生き物だ。そうでなければ、冒険者などやっていない。おまけに、粋がどうだと言われたら、断るのは難しい。馬鹿で考えなしの向こう見ずな人種なのだった。
「私は興味が出た」
まず第一にロッドが言った。
「ま、ここまで言われたら引き下がれねぇよな」
上等だという風に、モガールが掌に拳を叩きつける。
「いつかやるなら、アルコさんの薬でやるのが一番よね」
イゾルテも覚悟を決めたらしい。
そんな三人を見て、アルコは悪魔のような高笑いを響かせると、ロッドに木箱を押し付けた。
「ヒッヒッヒ、毎度あり」
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