High Fantasy
第10話 カエルのミルク
春の陽気が身も心も骨抜きにするように気怠い昼下がり。
冒険者のロッド=イーサリアムは、ゴロツキ亭の指定席で、強い酒をちびちびやりながら、憂鬱な気持ちを慰めていた。
先日、以前から名前をつけて可愛がっていた野良猫のノラが、馬車にでも轢かれたのか、哀れな猫せんべいになっている所を目撃してしまい、それ以来夢見が悪く、気分が落ち込んでいた。
ロッドは不信仰な男だったが、以前仕事で知り合った女僧侶を頼って、ノラの死体を教会の墓地に埋め、簡単な葬式を挙げている。
普段は神に祈る事などないロッドだが、哀れなノラの事を思うと、せめて天国で幸せに暮らして欲しいと願わずにはいられない。
そうして、出来る事はやってやったが、だからと言って気持ちは晴れず、自分でも驚く事に、ふとした瞬間に猫せんべいになったノラの姿を思い出し、言い知れぬ哀しみに襲われるのである。
そんなロッドを見かねて、顔なじみの冒険者である、手斧使いのモガールが声をかけた。
「辛気臭ぇな。まだ落ち込んでるのか?」
呆れた様子でモガールは言う。ノラの事は彼も知っている。なんなら葬式にも呼んだ。
早いもので、あれからもう一週間が経っている。
腕利きの冒険者が、野良猫一匹死んだ程度でいつまでもめそめそしているのだから、呆れられても仕方がない。
ロッド自身そう思うのだが、そうは言っても憂鬱なのだからどうしようもない。
「ほっといてくれ。あいつは立派な奴だった。飼い主もなければ家もない。それでも一匹、腐る事なく生きていた。野良猫だが、人に媚びたりはしなかった。気高い奴だったんだ。私はあいつが好きだった。あいつも、私には愛想を向けた。私には、喪に服する義理がある」
思い出したくないのに、ノラとの思い出が頭を掠めた。思い出したくはないのだが、それ以上に彼の事を忘れたくない。そのせいで、考えるでもなく、考えてしまう。それで余計に憂鬱になるのだ。
ロッドは木のカップを傾けるが、中身がない事に気づき、給仕の娘にお代わりを頼んだ。
困った顔をする娘に、モガールはロッドに隠れて首を横に振る。
「女々しぃ野郎だ。ノラは立派な奴だった。確かにその通りだ。あいつには、俺も一目置いていた。憎たらしい所もあったが、みんなあいつが好きだった。哀しんでるのはお前だけじゃないんだぜ」
「だからどうした。みんなとやらがどうだろうが、私には関係ない」
「今のお前を見たら、ノラだって呆れるぜ」
グサリときて、カップを握る手に力が入る。
「……分かっている。だが、どうしろと言うんだ」
「忘れろとは言わねぇが、今のお前には気分転換が必要だ。カエル獲りに行かねぇか?」
ロッドは耳を疑った。
「カエル獲りと言ったのか?」
「ああ言った。耳まで馬鹿になったか」
「馬鹿はお前だ。ガキじゃないんだ。カエル獲りなんかで気持ちが晴れるか」
「俺だって、ただのカエルなら興味はねぇ。なんでも薬になるそうだ。憂鬱な気持ちが晴れるんだとよ。しかもこいつは金になる。魔薬屋から依頼が来てるんだ」
モガールが依頼書の貼ってある壁を親指で示した。
「……」
確かめに行くと、モガールの言う通り、とある魔薬屋がカエル獲りの依頼を出していた。
騙されているような気持ちになり、目を擦る。
「よくわからんが、流行ってるらしいぜ」
隣に立つと、面白がるようにモガールが言った。
馬鹿馬鹿しいが、興味が湧いた。
「……行ってみるか」
「そうこなくっちゃ!」
ほっとした様子で、モガールが肩を叩いた。
依頼書の情報を元に、二人は街の北に広がる黒の森にやってきた。
黒の森は古く、魔力に満ちている。それによって、普通の森では見られないような魔力を宿した動植物にお目にかかる。
得る物は多いが、魔物もいて、普通の人間は立ち入ろうとしない。
だからこそ、冒険者が頼られる。
目的のカエルは幸せウシガエルという名で、説明書きによれば、大きさは中型犬程度、身体は苔色で、背中に金色のいぼがあるのが特徴らしい。
夜行性で、普段は森に散っているが、この時期は繁殖の為に水場に集まるという。
危険を感じると背中のいぼからミルクめいた体液を飛ばすらしい。
だからウシガエルなのだろう。
モガールはカエル獲りと言っていたが、目的はカエルそのものではなく、ミルクの方だった。
「カエルのミルクには幻覚作用があって、炙って吸うとハッピーな気分になれるんだとよ。そいつを混ぜた葉巻が流行ってるんだが、人気で中々手に入らねぇ」
水場に向かいながらモガールが言う。
時刻は夜。黒の森は鬱蒼として、月の光も届かない。
首から下げた月光瓶の明かりだけが頼りだ。
道中、ちょっとした魔物に襲われたが、苦もなく撃退した。
その程度には腕利きの二人である。
「だから私を誘ったのか」呆れたようにロッドが言う。
「夜中に黒の森でカエル獲りだぜ? 一人でなんかやってられるか」
悪びれもせずモガールが言う。
まぁ、心配しているのは本当だろうが。
遠くから、カエル達の大合唱が聞こえている。
声を辿ると、森の切れ間に湧き出た小さな水場にたどり着く。
「うるせぇな!」
しかめっ面でモガールが叫だ。
そうしなければ掻き消されてしまう程、カエルの鳴き声は煩い。
「どうする!」ロッドは尋ねた。
「片っ端から捕まえて汁を絞る!」
「勝負するか!」
ニヤリとしてロッドは言う。久々の仕事のせいか、深夜のせいか、気分が高揚していた。
「上等だ! 負けたら飯を奢れよ!」
その言葉を合図に散開する。
説明書きには、ミルクは目に入ると危険だと書いてあった。
ロッドは用意していたゴーグルと手袋を身に着けると、水辺に近づいた。
探す必要はなかった。カエルは、見逃す方が難しいくらいどこにでもいる。
浅い所で泳いだり、喉袋を膨らませてガチョウのように喧しく鳴いたり、重なり合って情事をしている。
その様子に、ロッドはたじろいだ。月明かりの下で行われる巨大なカエル達の乱交パーティーは、思いがけずグロテスクだ。幼い頃に無邪気にカエル獲りをしていた事が嘘のように思える。
丸々と太ったイボだらけのカエルの醜さもそうだが、繁殖の為に重なった姿が、妙に生々しく、不思議と人間めいていて、不愉快な気持ちにさせる。
一対一ならまだしも、一匹のメスに群がるようにして、何匹ものオスが貼り付いて、激しい蹴落とし合いを行うさまは、胸焼けを感じる程の生の躍動があり、サバトのような冒涜的な淫靡さがあった。
茫然として見入っていると、その内の一匹が蹴飛ばされ、物凄い勢いで吹っ飛ぶと、水切りのように何度か水面を跳ねて着水した。
醜い背中とは対照的に、艶めかしい程につるりと白い腹を見せて浮かぶカエルは、口から鮮やかな内臓を溢し、死にかけの虫のように四肢をひくつかせている。
ロッドは溜息をついた。
たかがカエル獲りと侮っていたが、冒険者を頼る仕事なのだ。報酬の額から考えても、一筋縄でいくわけはなかった。
気を引き締めると、早速蹴飛ばされたカエルがこちらに吹っ飛んできたので、剣の腹で弾き落とす。
ぶぎゅう! 踏みつぶされたかのような断末魔に、鳥肌が立つ。足元に転がるカエルは咳込むように内臓を吐き出し、しばらく痙攣すると動かなくなった。
依頼で魔物や害獣を狩る事にはなれているはずのロッドだったが、この光景には吐き気を催した。
とは言え、チャンスでもある。強靭な脚力を持つオバケガエルを抑え込んで汁を絞るよりは、死体から頂いた方が楽だ。
刃の潰れたなまくら剣の先っちょで萎んだ腹をつつき死亡を確認すると、ロッドはぎょっとした。カエルを叩き落とした剣の腹に、べっとりと白いねばねばがこびりついている。
カエルを叩き落とした際にじみ出たのだろうが、思っていたよりも粘度がある。ミルクというよりは、溶けたチーズの方が近いように思える。嗅いでみると、僅かに生臭さがあった。
どうしたものかと悩んだ末、ロッドは手袋をした手でねばねばを削いで集め、泥団子を作る要領でクルミ大くらいの塊にすると、持ってきた皮袋にしまった。
普段に考えれば気の滅入る作業だし、ロッド自身、そうなるのが普通だと思うのだが、そんな思いに反して、ロッドは奇妙な高揚感を覚えていた。
やはり、自分は生まれついての冒険者という事なのだろう。
こんな事で気が紛れてしまう自分の単純さに呆れつつ、ロッドは死体を剣先でひっくり返した。
予想通りのグロテスクに、ロッドは吐き気を催した。
剣の腹で思いきり叩き落されたカエルの背は、にじみだした大量のミルクで真っ白になっていた。こいつに指を突っ込むのか? 自問しながら、しばらく躊躇して立ち尽くすが、噎せるようなミルクの生臭さを嗅いでいると、妙に気持ちが高ぶり、楽しい気分になってきた。
我知らず口角が上がり、狂ったような笑みを浮かべると、もはやロッドに躊躇はなく、背ににじんだミルクにべったりと両手を突っ込むと、粘度遊びをする子供のように白い団子をこねて皮袋に集めていく。
「はははは……はははははは!」
理由もなく楽しくて、ロッドは笑った。最高の仕事を終えた後、仲間達とゴロツキ亭で大騒ぎをしている時のような気分である。
大人になった今、カエル獲りの楽しさなどすっかり忘れてしまった思っていたが、こういう事だったのかとロッドは納得する。
死体の背に滲んだ汁を集め終わると、ロッドは鼻歌を歌いながら適当なカエルに近づいていき、頭を剣で殴った。
ぶぎゅる! と鳴く様が無様で面白い。もう一度殴ると舌が飛び出し、さらに殴ると目玉が飛び出した。次は何が飛び出すだろうか? そう思って振りかぶると、カエルは身体を丸めて背を見せた。びゅるりと、背中のイボから勢いよくミルクが噴出す。避けられたが、避けなかった。生温いミルクを全身に浴びながら、ロッドはなおもカエルを叩いた。ぷっくりと膨らんだイボからミルクが飛び出すさまは、どこか乳を思わせる。
ミルクというのなら飲めるのではないだろうか。
ふと、そんな思いが頭に浮かぶ。
飲んでみよう。何の疑問もなくそう思い、ロッドは手袋についた白いネバネバをしゃぶった。
「がぁ!? ぺっ! ぺっ! ぐぇ!」
痺れるような苦さに、ロッドはハッとして正気を取り戻した。俺はなにをやっているんだ!? そう思いながら、舌がねじ切れそうな程の苦さと、口の中に広がる青臭さに悶絶する。
慌てて水筒を取り出すと、中の酒で口をゆすぐ。それでかなりマシにはなったが、それでも、耐えられない程の苦さが口の中で荒れ狂っている。
けれど、それよりも恐ろしいのは、この状況が面白くて仕方がないという事だった。
楽しさに身を委ね、意味もなく笑い転げながら、カエルのミルクを舐めたい衝動に駆られていた。このミルクには、そういう効果があるのだろう。
あたりにはカエルが山ほどいて、激しく暴れながら、背中から大量のミルクをにじませている。空気に混じったそれを吸い、我知らず毒されていたに違いない。でなければ、こんな得体の知れない汁を口に含んだりはしない。
もはや勝負どころではなかった。下手をすると、この場で狂い死ぬ。必死に正気を保ちながら、ロッドはモガールを探した。
「モガール! どこにいる! 勝負は、中止だ……」
足元が揺らいで、ロッドは膝を着いた。
下生えが艶めかしい女の手になり、ロッドの頬を撫でた。見上げると、空は明るく、桃色の雲が渦を巻いている。月の代わりに、裸の美女が身を丸くして自慰に耽っていた。
「ぁん、あぁん、ぁん……」
喘ぎ声に振り返ると、あちこちで、全裸の人間がまぐわっていた。男と女、女と女、男と男。一対一で、あるいは大勢で、子供に大人に老人に、美人もいれば不細工もいる。とにかく、ありとあらゆる人間が、性の悦びを分かち合っていた。
「ぐげぇ……ぐげぇ!?」
自らの口から飛び出したカエルの鳴き声に驚く。ハッとして手を見ると、水かきのついた醜いイボイボの皮膚が目に入った。
そうだ。私はカエルだったのだ。
ロッドは自分が一匹のカエルだった事を思い出した。
ゲコゲコと、カエルらしく鳴いていると、頭の上で猫が鳴いた。
見上げると、ノラがいる。
「……やぁ、ノラ。元気でやっているか?」
ロッドが尋ねると、ノラは素っ気なくにゃあと鳴き、前足でロッドを叩き潰した。
瞼の向こうが眩しくて、ロッドは目を覚ました。
朝日の白さに顔をしかめる。
そこは黒の森ではなかった。
街道沿いに点在する冒険者の野営地のどれか。
ぽつりと生えた木の根元に、ロッドは寝かされていた。
「やっと起きたか」
呆れ気味に言うと、モガールは疑うような目でロッドの顔色を伺う。
「正気に戻ったか」
「……あぁ。面倒をかけたようだな」
「四つん這いでゲコゲコ鳴くお前は見ものだったぜ」
からかうように言うと、モガールは酒の入った水筒を投げてよこした。
受け取って、喉を潤す。カエルのミルクのせいか、妙に喉が渇いていた。
「お前は平気だったのか」
尋ねると、モガールは気まずそうに頬を掻いた。
「思ったよりもカエル共が気持ち悪くてよ。どうしたもんかと思ってたら、お前の様子が変だったんで、担いで逃げて来た」
「意気地なしめ」
「お前なんかほっときゃよかったぜ! そしたら今頃、カエル共とお楽しみだ!」
「オタマジャクシが孵ったら、一匹名前をつけさせてやろう」
「馬鹿野郎!」
軽口を叩き合うと、どちらともなく、笑みを溢した。
「ふっ切れたみたいだな」
「さぁな。カエルのミルクが効いてるだけかもしれん。とりあえず、気分はいい」
「なんだっていいさ。とりあえず、飯にしようぜ」
モガールが足元の焚火に視線をやる。
周りには、即席の串にささった何かの肉が並んでいた。
「サービスがいいな」
「負けたら飯を奢る約束だったからな」
モガールがニヤリとする。
「ケチな奴だ」
笑って言うと、ロッドは串焼きにかぶりついた。
鳥の腿を思わせる肉は、淡白だが旨味があり、しこしことした弾力があった。
「美味いな。なんの肉だ」
「さっきのカエルだ」
ロッドは噎せて、胸を叩く。
「冗談だ! ただのウサギだっての」
「モガール!」
ロッドが叫ぶ。
笑えない冗談だった。
街に戻ると、ロッドはカエルのミルクの一部を店に納め、モガールと報酬を分け合った。
大した量は採れなかったが、その割にはいい金になった。今は繁殖期で、質の良いミルクが採れるらしい。水場に集まるので、カエルを見つけるのは楽だが、凶暴化しており、大量のミルクが空気に混ざり、惑わされる危険がある。
ロッドのような目にあった冒険者も少なくないそうで、後日依頼書には注意書きが足された。
店に納めなかった分のミルクは、知り合いの錬薬士に葉巻にして貰い、馴染みの冒険者と吸う事にした。どうせモガールはロッドの失態を酒の肴に話してまわるだろう。ロッド自身、恥はあるが、ちょっとした冒険譚として、語りたい気持ちはある。そんな時、ただ話すのと、現物をみんなで試しながらでは、面白味がまるで違う。あわよくば、自分のように毒に当てられ、大恥を掻く奴が現れるかもしれない。
そんなわけで、早速ロッド達はカエルのミルクを採りに行った時の事を語りながら、冒険者仲間とカエルのミルクが染み込んだ葉巻をふかした。
冒険者達は最初こそ半信半疑だったが、葉巻の効果で気分が高揚してくると、ミルクの効力を認めた。
それは人生の内に何度かある、何かの偶然で物凄くいい感じに酔っぱらった時の気分に似ている。嫌な事や哀しい事は全て心の外に追いやられ、内にはただ、理由のない楽しさと幸福感だけが満ちている。
それで終ったのが半分で、残りの半分は幻覚を見た。内容はそれぞれで、ロッド程酷くはなかったが、面白い体験をしたと好評だった。中には、昔の酷い思い出を悪夢のように体験し、ひっくり返る者もいたが。
お陰で、この冒険者の店にもカエルミルクの葉巻ブームが訪れたが、短い繁殖期が終わると、ミルクの質も落ち、あのカエルを探すのも難しくなったので、惜しまれながらも廃れていった。
もっとも、ロッドを含めた数人の冒険者は、その時の体験が忘れられず、しばらくの間代用品探しに奔走するのだが。
それはまた、別の話である。
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